第87節 ヘヴン



 閏年うるうどしである今年ことしの2がつ末日まつじつ、2がつ29にちあさことであった。


 今日きょうは俺のかよってる県立けんりつ高校こうこう入試にゅうし日程日にっていびとなっている。


 当然とうぜんことながら試験のため生徒せいとにとっては休みなのであるが、今日その試験を受ける予定となっている中学三年生の従妹いとこであるあおいと一緒に、俺はいつものように朝からタクシーで学校に向かっていた。


 大通りは、若干じゃっかんながら渋滞じゅうたい気味ぎみのようである。


 俺と並んでタクシーの後部座席に座っているあおいは、大阪おおさか吹田すいたで通っている中学校のものなのであろう、紺色こんいろのセーラー制服を身に着け黒い上着を羽織り、受験票などが入っているかばんを脇に置いている。


 ちなみに俺は、普段のブレザー制服とは異なり私服を着ており、かなでさんに編み直してもらった青いマフラーを普段通りに首に巻いている。


 いつものようにそのショートカットでダブルテールの髪に青い宝石の髪飾りをつけているあおいが、隣にいる俺に話しかける。


けぃにぃちゃんは、いつもこんな風にタクシー通学してんの?」


 幼い頃からよく気心が知れた親戚しんせきである従妹いとこ相手に、俺は気安く返す。

 

「ああ、まあな。安全上のためにな」


「ふーん、そっか……。大金持ちになったからって、何もかもがお気楽な生活になるとは限らへんのやな」

「ああ、そりゃそうだぞ。俺もついこの前……」


 俺はついこの前、クラス会の帰りに多国籍マフィアに誘拐され、監禁かんきんされ銃撃じゅうげきされ死にかけたことが口から出そうになったが押し留めた。


 言葉に詰まった俺を、すぐ隣にいるあおいがそのくりっとしたおおきくまるまなこで見つめる。

 

なんよ? けぃにぃちゃん、なんか言いかけた?」

「あ、いや……なんでもない、気にしないでくれ」


 そんな感じでやり取りをしていると、あおいがうっとりした表情で何かを思い出した様子で宙を見上げつつ口を開く。


「それにしても、昨日の晩に入らせてもらったお風呂サイコーやったわ。あーんな高い所から夜景見ながらあし伸ばせる広いお風呂に入れるなんて、まるでてん王国おうこくむお姫様ひめさまになったような気分やった」

「あー……それ、父さんも似たような感じの事言ってたな」


主太すうた伯父おじさんが? どんな風に?」

「いや、引っ越してきてから一番風呂に入ったの父さんだったんだけど、風呂から出てきて『まるで天界てんかい王様おうさまになったような気分きぶんになれるぞ。最高さいこうだ』って俺たちに言ってきた」


「あー……そんなん、主太すうた伯父おじさんなら言いそうやな。今、真統ますみ義伯母おばさんと夫婦水入らずで豪華客船の世界一周クルーズ旅行に行っとるんやろ? 確か?」

「まあな。子供が宝くじに当たって俺たち家族が数百億円手に入れてから、父さんも母さんもすっかり無責任な性格になっちまったよ」


「そっかな? ウチはこの前の年末年始に浜松はままつのお母さんの実家で会った時、ドイツ製の高級自動車で帰ってきた伯父おじさんも義伯母おばさんもそんな性格変わった風には見えへんかったけどな」

「あ……そう? あおいから見たら父さんも母さんも元からあんな感じ?」


 俺とあおい従兄妹いとこ同士どうしらしく、そんなくだけたやり取りをタクシーの後部こうぶ座席ざせきわしていたら、あおいがぶるると身震いをした。


「ごめんけぃにぃちゃん、ちょっと近くのコンビニに寄ってもらえへん?」

「え? なんでいきなり? 何か買い忘れたものがあるとかか?」


 あおいの突然の要求に俺がそう応えると、あおいは顔を赤くして俺に対して声を張り上げる。


さっしぃや! けぃにぃちゃんのアホ!」


――ああ、そっか……トイレな。


 そんな勝気かちき従妹いとこの本心を理解した俺は、すぐさまタクシーの運転手さんに近くのコンビニに停まってもらうようお願いした。





 タクシーに最寄もよりのコンビニの駐車場に停まってもらって、タクシーには待ってもらったまま俺とあおい店舗てんぽの中に入っていった。


 あおいがトイレに行ってる間に、俺は親族であるあおいがトイレを使わせてもらうお代として、ゼロカロリーのペットボトルコーラを冷蔵庫から手に取ってレジに向かう。


 そして、店員さんにコーラのバーコードを読み取ってもらい、精算金額が表示されたので、レジ近くのタッチパネルにて交通系マネーを選択して、手持ちの電子マネーカードである Suikaスイカ で料金を支払う。


 いつものような、何気ない日常の一コマであった。


 ところがそこで、事件は起こった。


 俺がレジ前の機械から出てきたレシートを抜いて回収し財布に入れたところで、おそらくはさいたま市内の中学校の制服を着た、茶色ロングストレートの髪の毛を垂らし、肩から通学鞄を提げた清楚風せいそふうな女の子が、慌てた感じで店内に駆け込んできたのである。


「あ、あ、あ、あのあのあの! す、す、すいません! 救急車呼んでください!」


 女の子は、かなり慌てふためいてパニクっているのがよく分かった。


 お客さんに対応していた店員さんも、その場にいるお客さんも女の子に対して何もアクションを起こせてない様子だったので、としの近そうな俺が、ペットボトルコーラを持ったままその女の子に近づいて声をかける。


「救急車って、どうしたの? 君が怪我けがしたとか?」


 俺がそう尋ねかけると、女の子は気が動転した様子で返してくる。


「え、えーと、えーと! ワタシじゃなくて! ワタシがバス停に行こうとしたら、目の前の道でおばあさんが倒れて! でもワタシ、救急車呼ぼうとしてもスマートフォン持ってなくてガラケーだから地名わからなくて! だからコンビニに来れば場所がわかるかなって!」


 早口で焦りを加速かそくさせ何を言っているかわからなくなっていく女の子に、俺はまあまあ落ち着いて、そのお婆さんのためにもまずは君が落ち着かなきゃ、となだめる。


 女の子の目頭めがしらには、涙の粒が光っているような気がした。


 と、そこに鞄を提げたあおいがハンカチで手を拭きながら戻ってきた。


「あれ? けぃにぃちゃん、そのどしたんよ?」

「ああ、なんか道でお婆さんが倒れたとかで救急車呼んで欲しいんだって。今連絡するよ」


 コーラを近くの台に置いてスマートフォンを取り出していた俺は、緊急ボタンをタップして救急車を呼ぶための番号を入力しようとする。


 すると、あおいも自分のスマートフォンを上着のポケットから取り出して人差し指で操作し、おそらくはマップ機能きのう現在げんざい位置いち情報じょうほうを確認し始める。


 そして、あおいがスマートフォンを手に持ったまま俺に伝える。


「じゃあウチは、この女の子におばあさんが倒れた場所を案内してもらうわ。けぃにぃちゃん、119に電話を繋ぎながらウチらについてきて」

「ああ、わかった」


 あおいが茶髪ロングの女の子を手を取り感情を静めつつ、そのお婆さんが倒れたという場所に案内してもらい、その後を俺は追いかける。


 そのコンビニの近くから、車が通れなさそうな細い脇道を入って直線30メートルくらいのところのアスファルトの道べたに、お婆さんが横になって倒れていた。


 茶髪ロングの女の子が、涙をこらえながら俺たちに訴えかける。


「目の前でいきなり倒れちゃって! もしかしたら死んじゃったのかもしれないって思ったら、慌てちゃって! とりあえず救急車が入れるところまで運ばないと!」


 すると、しゃがんでお婆さんの呼吸を確かめていたあおいが待ったをかける。


「待って、もし脳卒中のうそっちゅううたがいがあるんやったら頭をむやみに動かしたらアカンってお父さんから聞いたことがある。救急車きゅうきゅうしゃに大通りにまってもらって、救急きゅうきゅう隊員たいいんの人にストレッチャーここまで運んでもらった方がええわ。けぃにぃちゃん、ウチが詳しい場所伝えるから、電話繋いだままそのスマートフォンちょうだい」

「ああ、わかった」


 俺が119の消防救急回線に繋げているスマートフォンをあおいに渡すと、あおいは今の場所がさいたま市のどんな地名の場所か、何号線の道路のどのあたりの脇道から入ったところか、目印になる看板は何か、どっちの方角からこの場所に至ればいいかなどを、電話口の向こうの人に的確てきかく説明せつめいしていった。


――あおい


――さいたま市に住んだことなかったよな?


――ここに来るまでの間、目印めじるしになる看板かんばんとかも抜け目なく確認してたってことか?


 まだ中学生だというのに、目の前でテキパキと緊急事態を処理していくあおい明敏めいびんさに、俺は感心する。


 回線を繋いだままのスマートフォンを俺に返したあおいは、寝ころんでいるお婆さんの気道が確保されていることを改めて確認し、羽織っていた黒い上着を脱いで保温のために寝転がったお婆さんにかぶせ、お婆さんのベルトなどを緩めていく。


「よし、これで後は救急隊員の人を待つだけやね」


 医者の父親と看護師の母親、医療いりょう従事者じゅうじしゃの両親を持つあおいは、なんとなく安堵あんどの顔を見せる。


 と、そこで、離れた大通りをバスが通り過ぎた音がした。

 

 ブロロロー


「ああーぁ! バス! 行っちゃったーっ!!」


 いきなり大声を上げた茶髪ロングの女の子に、俺は驚く。


 女の子は、涙声で嘆き声を出す。


「うわーぁん! バスおくれたー! もう二高ふたこう受験じゅけんわないー!!」


――あ、そういや今日二高の受験日だった。


 俺は、今更ながらその事実を思い出した。


 すると、あおいが落ち着き払った様子で、涙が目頭から溢れそうな茶髪ロングの女の子に話しかける。


「受験って大宮おおみや第二だいに高等こうとう学校がっこう? せやったらウチと同じや。一緒に受験会場までタクシーで向かおっか?」


 そんなあおいの言葉に、茶髪ロングストレートの女の子は涙目のまま無言でうなずく。


 あおいが俺に顔を向けて言葉をかけてくる。


「ゆーわけで、ウチはこの女の子と一緒にタクシーで入試会場に向かうわ。けぃにぃちゃん、この脇道わきみち目印めじるしとしてどっか近くに結んどくからその青いマフラー貸して。で、救急きゅうきゅう隊員たいいんの人が脇道わきみちのぞいてきたら手を振り回してこっから合図してやって」


「ああ、わかった。あおいは上着なしで受験大丈夫か?」


「かまへん、ウチの体温たいおんよりお婆さんのいのちまもる方が優先や」


 そんなあおいの言葉に、俺は表情を緩める。


 俺が首に巻いていたマフラーを手渡してやると、あおいは茶髪ロングの女の子と一緒に、大通りに向かって走る姿勢をみせる。


あおい! これ!」


 俺は走り出す間際だったあおいを呼び止め、財布から取り出した Suikaスイカ を差し出す。


「タクシー代にこれ使え! 2万円近く入ってるから!」


 すると、あおいがマフラーを持っている手でカードを受け取って、笑顔になってこたえる。


「ありがと! けぃにぃちゃん!」


 駆け出したあおいと、もう一人の茶髪ロングストレートの女の子の後ろ姿に俺は激励げきれいの言葉をかける。


あおい! それからもう一人の親切な女の子! 受験頑張れよ!」


 そんな風に後押しすると、あおいはまるで明日香あすかねぇちゃんみたいに後ろ手を振って、女の子と一緒にこの場から走り去っていった。


 そして、俺は救急車きゅうきゅうしゃが到着するまでその場に留まり、救急きゅうきゅう隊員たいいんの人たちを誘導ゆうどうしてお婆さんが担架たんかに乗せられて救急車きゅうきゅうしゃで運ばれたのを見送ってから、青いマフラーを首に巻きなおしあおいの上着を持って、大宮おおみやえき近くにある自宅のタワーマンションビルまでそのまま歩いて帰った。


 俺がゼロカロリーコーラをコンビニに忘れたことに気付いたのは、自分の部屋でレシートを財布から取り出した時であった。


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