第83節 ホワイト・ファング



 交通こうつう法規ほうきまもってシートベルトをめた楽保よしやすさんが運転うんてんするこの、りょうサイドがコンクリートでられくろ塗装とそうげ、板金ばんきんがひんがったボロボロのタクシーは、東京とうきょう警察署けいさつしょてから俺をせて大宮駅おおみやえきちかくにかっていた。


 後部こうぶ座席ざせきすわってタクシーのシートベルトをめている俺は、さきほどまで警察署けいさつしょ展開てんかいされていた事態じたいおもしていた。

 

 横転おうてんしたワゴンしゃっていた、じゅうっていたマフィア集団しゅうだん当然とうぜんのごとく警察けいさつつかまったが、たところあの中国人ちゅうごくじんのおじさんはそのなかにはいなかったようであった。


 楽保よしやすさんは危険きけん運転うんてんをした容疑ようぎすこしのあいだだけ、警察けいさつ身柄みがら拘束こうそくされた。


 だが、俺がねえちゃんからもらったスマートフォンで、顧問こもん弁護士べんごしである島津しまづさんのつとめている法律ほうりつ事務所じむしょ電話でんわ連絡れんらくれたところ、スーツにつつんだ島津しまづさんはすぐさま警察署けいさつしょにタクシーでけつけてくれた。


 そして、俺がくわしく状況じょうきょうつたえ、弁護士べんごしである島津しまづさんの警察けいさつに対する説明せつめいうえで、楽保よしやすさんの違反いはんしまくった交通こうつう表示ひょうじ無視むし信号しんごう無視むし、スピード違反いはん道路どうろ禁止きんし行為こういなどなどの道路どうろ交通法こうつうほう違反いはんたぐいは、じゅうってきたマフィアからの緊急きんきゅう避難ひなんということでとりあえずはおとがめなしということになった。


 ただ、後日ごじつあのはいビルから警察署けいさつしょまでのみち辿たどって実況じっきょう見分けんぶんをするので、そのときにまたくわしく行政ぎょうせい処分しょぶん該当がいとうするかどうかを精査せいさする、ということであった。


 ボロボロになったタクシーは、車内しゃないから拳銃トカレフ銃弾じゅうだん回収かいしゅうされ、また多国籍たこくせきマフィアの刑事けいじ裁判さいばん証拠しょうこ使つかうための写真しゃしん撮影さつえいませたので、ってかえっていいとのおたっしがた。


 と、いうわけで、楽保よしやすさんの運転うんてんするタクシーにって俺は、東京都とうきょうと警察署けいさつしょから埼玉県さいたまけん大宮おおみや駅前えきまえにあるのあるタワーマンションビルまでの行程こうていにある、という状況じょうきょうになっているのである。


 楽保よしやすさんの運転うんてんするタクシーにられながら、俺はこんなことをかんがえていた。


 楽保よしやすさんだけじゃなくって――


 天羽てぃえんゆぅさんや美登里みどり――


 あるいは、あのマフィアを裏切うらぎってくれた中国人ちゅごくじんのおじさん――


 ほかひと協力きょうりょくかったとしたら、俺はこんなふう無事ぶじ生還せいかんすることなんかできなかった。


 いま現在げんざい両手りょうて青痣あおあざあとがあるだけで致命的ちめいてきなケガひとつすることなく無事ぶじうちかえているというこの成果せいかは、ほかひとらと意思いし疎通そつうをするためのスマートフォンという連絡れんらく手段しゅだん、コミュニケーションツールがあってこそのものだ。


 それに、俺があの死地しちともべる状況じょうきょうから脱出だっしゅつするために使つかった、ロープや金槌かなづちかご血糊ちのりかなでさんがんでくれたマフラー、それに楽保よしやすさんが使つかった発煙筒はつえんとう爆竹ばくちくやエンジンオイルなどの用途ようと工夫くふうした小道具こどうぐるいも、もし使つかわなければ俺はいえかえることができなかっただろう。


――おそらくは。


――連絡れんらく手段しゅだんでの意思疎通コミュニケーションによって他者たしゃ協力きょうりょくして物事ものごとむ、連携れんけいと。


――様々さまざま用途ようともちいられる道具ツール工夫くふうして使つかうという、技巧ぎこうわせは。


――んだろーな。


 そんなことをおもっていると、タクシーがだいたいよく見知みしった街並まちなみにかってきた。


――そろそろ、大宮おおみや駅前えきまえだ。


 まえ運転席うんてんせきすわっている楽保よしやすさんが俺にこんなことをたずねてくる。


「えーっと、それで『グランドインペリアルパレス大宮おおみや』ってどのビルですかね?」


 そう楽保よしやすさんにたずねられたので、俺はこたえる。


「ああ、大宮駅おおみやえき東口ひがしぐちのあの、最上階さいじょうかいにバルコニーがある一番いちばんたかいビルです」


 すると、楽保よしやすさんが気持きもちよく返事へんじをする。


「わかりました、あのビルですね」


 そう言って、楽保よしやすさんは交通こうつう法規ほうきまもってなめらかにハンドルを操作そうさする。


 心地ごこちさを俺がかんじていると、このボロボロのタクシーが俺たち家族かぞくむタワーマンションビルのエントランスにはいっていったようだ。


 ちなみに、警察署けいさつしょてもらうよう島津しまづさんに連絡れんらくれた直後ちょくごに、美登里みどり天羽てぃえんゆぅさんには無事ぶじ脱出だっしゅつして危機ききしたことを SMS でつたえてある。


 タクシーがエントランスにはいっていくと、ガードマンが待機たいきしている自動じどうドアこう、外部がいぶものつための待合室まちあいしつで、俺の家族かぞくらがソファーからがったのがえた。


 美登里みどり明日香あすかねえちゃんだけじゃなく、メイドふくかなでさんと割烹着かっぽうぎ幸代さちよさんもいるのがわかる。


 ただ、もう一人ひとりだけらない大人おとなおんなひともいるようながした。


 エントランスにタクシーがまって、俺がシートベルトをはずしドアからりると、メイドふくかなでさんが警備員けいびいんさんの待機たいきしている自動じどうドアをけて、こちらにかってはしってくるのがえた。


「よかったぁ……! きててかったぁ……!」


 かなでさんがからなみだながしつつ、そんなことをいながらおおきくうでひろげてこちらにかってけてくる。


 その状況じょうきょうに、16さい思春期ししゅんき男子だんし高校生こうこうせいである俺は、わくわくとしたかんじとなる。


――え、かなでさん、そんなにいて。


――そんなに、俺がきてたのがうれしかったとか?


――このままじゃ、俺とかなでさん、公衆こうしゅう面前めんぜん格好かっこうになるけど。


――まあ、もうすこしでにそうになったんだからそういうのもありかな。


――ここで俺にすがりつくのはよしてよ、まだうえがっていないんだから――


 という気取きどった言葉ことばでもおうかとかんがえつつ、かなでさんが俺のむねんでくるのを万全ばんぜん態勢たいせい身構みがまえていた。


 そして、かなでさんはまえおとこむねんだ――


 ただし、俺のむねではなく、楽保よしやすさんのむねに。


 運転席うんてんせきからっていた楽保よしやすさんのむねに、かなでさんがみ、かなでさんは楽保よしやすさんのがっしりした胴体どうたいほそ両腕りょううでかたきしめる。


 そして、楽保よしやすさんはかなでさんをかるかえし、かなでさんの亜麻色あまいろかみやさしくぽんぽんとたたく。


「ごめんな、心配しんぱいかけて」


 ただ大人おとなおとこむねなかいているかなでさんに、楽保よしやすさんがおだやかな口調くちょうでそんな言葉ことばをかける。


 そんな、まえでの四十代よんじゅうだいなかばの男性だんせいである楽保よしやすさんと、十代じゅうだいなかばの美少女びしょうじょであるかなでさんとのあつ抱擁ほうように、一人ひとりのこされた俺は呆然ぼうぜんとする。


――へ?


――なにこれ。なんぞこれ。


――なんで俺、寝取ねとられてんの!?


――いやまあそりゃ、俺は楽保よしやすさんにくらべたらおとことしてなにもかもおとってるけど。


――でも、俺じゃなくて四十代よんじゅうだいくらいのオジさんはないだろぉ!?


 俺が男子だんし高校生こうこうせいらしくそんな身勝手みがってなことをおもっていると、すぐちかくによくった気配けはいがするのでく。


 そこにはロングツインテールのいもうと美登里みどりと、茶髪ちゃぱつショートカットの明日香あすかねえちゃんがっていた。


 俺は、なおして家族かぞくげる。


「ただいま、明日香あすかねえちゃん、美登里みどり


 すると、美登里みどり満面まんめん笑顔えがおでこうかえす。


「……うん、おかえり」


 いで、明日香あすかねえちゃんがなみだかべてこうう。


「おかえりなさい、啓太郎けいたろうー」


 そして、明日香あすかねえちゃんは直近ちょっきんにいる俺をぎゅっときしめた。


「ちょっと、ずかしいよねえちゃん」


 俺が男子だんし高校生こうこうせいらしくれながらそううも、ねえちゃんは抱擁ほうよういてくれない。


「いーからいーから、家族かぞくなんだからー」


 ねえちゃんがそんなことをわきで、美登里みどりも俺のうできしめてなにわずすがってきている。


――家族かぞくだから?


――あ、もしかして。


 とある気付きづきにたっした俺は、ねえちゃんからの抱擁ほうようかれたあとで、すぐちかくにいるかなでさんと楽保よしやすさんにたずねる。


「えーっと……で、一応いちおううかがいますけど……かなでさんと楽保よしやすさん、どういうご関係かんけいで?」


 すると、ゆびかるなみだいたかなでさんが、どこかあかるい微笑ほほえがおになって楽保よしやすさんを紹介しょうかいするようにてのひらうえけてゆびらす。


啓太郎けいたろうさんにご紹介しょうかいしますね……? わたしのおとうさんです……」


 そして、楽保よしやすさんがかしこまった様子ようすはら左手ひだりてててかるあたまげてれいをしてくる。


あらためまして、ご紹介しょうかいもうげます。かなでちちです。いつもむすめとお義母様かあさまがお世話せわになっております」


 そんなことをべて楽保よしやすさんはかおげ、にっとわらってしろきばのような犬歯けんしせてくる。


――あー、やっぱり。


 俺がどことなくほっとしてそんな状況じょうきょうはだかんじていると、うしろのほうからいたことのないおんなひとこえがした。


「あなた、おかえりなさい。よくご無事ぶじで」


 すると、楽保よしやすさんが俺の後方こうほうにいるだれかにかってかたりかける。


「ああ、ただいま。湖白こはく


 俺がくと、割烹着かっぽうぎ幸代さちよさんのすぐとなりには――


 まるで、空蝉うつせみばれるせみがらからてきたばかりの、羽化うか直後ちょくごせみのようにしろい、ぞっとするほどなまめかしい凄艶せいえん銀髪ぎんぱつ美女びじょがそこにいた。


 しかも、ただの美女びじょではない。平均的へいきんてき男性だんせいおなじくらいたかいスラリとした長身ちょうしんで、普段着ふだんぎとしてのセーターとズボンではかくれない爆乳ばくにゅうともいえる巨大きょだいむねとくびれたこし、そしておおきなしりわせた、日本人にほんじんばなれしたダイナマイトボディのちょうグラマラスな銀髪ぎんぱつ美女びじょであった。


 その、高級こうきゅう絹糸きぬいとたばのような銀色ぎんいろうつくしいながかみうしろでまとめてわれ、太腿ふとももくらいの位置いちまでがっている。


 そして、その白磁はくじのようなしろはだと、そのあかみがかったひとみもあって、その女性じょせいはどこからどうても東欧系とうおうけいらしいうつくしい白人はくじん女性じょせいであるようにしかえなかった。


 その、外見がいけんでは二十代にじゅうだい後半こうはんにしかえない湖白こはくさんという女性じょせいが、楽保よしやすさんのおくさん、つまりかなでさんのおかあさんだと俺のあたま理解りかいをするのには、さらくわえて数秒すうびょうようせねばならなかった。

 

 結局けっきょく、このにいたままだとほかひと邪魔じゃまになるからうえがろうと幸代さちよさんが提案ていあんして、俺たちはこのタワーマンションビルエントランスからとりあえず退しりぞくことになった。





 エレベーターでうえがって、俺はかなでさんの家族かぞく構成こうせいがどうなっているのかの説明せつめいけた。


 元々もともとかなでさんのおとうさんである楽保よしやすさんは温泉おんせん旅館りょかん所有者しょゆうしゃである国枝くにえだ婿養子むこようしとしてせきれたのだが、温泉おんせん旅館りょかん経営けいえい破綻はたん闇金やみきんからわれるとなったさいに、名前なまええるために一度いちど離婚りこんして、今度こんど湖白こはくさんが楽保よしやすさんのせきはいかたち復縁ふくえんしたのだという。


 親の名字みょうじわっても、役所やくしょ裁判所さいばんしょなどにとどをしないかぎりは子供こども名字みょうじ当然とうぜんにはわらないのだという。


 というわけで、現在げんざいかなでさんはおかあさんの旧姓きゅうせいである国枝くにえだせいのままなのであるらしい。


 かなでさんが間借まがりしている部屋へやである和室わしつにて、俺と湖白こはくさんが一対一いったいいちにて座布団ざぶとんの上で対面たいめんして正座せいざをしている。


 この和室わしつにいるのは俺と湖白こはくさんの二人ふたりだけとなっている。


 いま湖白こはくさんが俺にたいしてをついて、ふかあたまげた。


「わたくしより、かなで反社会はんしゃかい勢力せいりょくからまもっていただき、かなでとわたくしのははをこちらのお屋敷やしきにておやといいただいているということについて、あらためておれいもうげさせていただきます」


 ゆさっ


――でっけぇ……!


 俺は16さい思春期ししゅんき男子だんし高校生こうこうせいとして、人妻ひとづまである湖白こはくさんのむねでたわわにみのっている、重量感じゅうりょうかんある魅惑的みわくてき女性的じょせいてきふくらみの、弾力だんりょくあるふたつのれにいきんだ。


――うしみてーだ。


 それが俺の、ともすれば性欲せいよく思考しこう支配しはいされかねない高校こうこう一年生いちねんせい男子だんし生徒せいととしての、素直すなお感想かんそうだった。


―― Hエイチ カップあるらしい可憐かれんよりも確実かくじつにでかい。


――さすが人妻ひとづま


 さきほどふちから生還せいかんした俺が、そんなふう男子だんし高校生こうこうせいらしく色欲しきよくにまみれた思春期ししゅんきなりの感覚センセーションによって美人びじん人妻ひとづまのおっぱいであたまをいっぱいにしていると、湖白こはくさんが真剣しんけんかおつきになって俺につたえてくる。


「ところで啓太郎けいたろうさん、先日せんじつ温泉おんせん旅館りょかん債権者さいけんしゃ代表だいひょうかたからご連絡れんらくがございまして。それで、ご確認かくにんをしたいのですが、温泉おんせん旅館りょかんもどしてわたくしらに譲渡じょうとをしようとなさっていただいているというのはたして事実じじつなのでしょうか?」


 そんな湖白こはくさんの真剣しんけんいかけに、人妻ひとづま大迫力だいはくりょく爆乳ばくにゅうあたま支配しはいされかかっていた俺はなおしてこたえる。


「あーっと……事実じじつです。かなでさんの誕生日たんじょうびにサプライズでおしえるつもりだったんですが……かなでさん、もしかしてもうってるんですか?」


「いいえ、かなではまだりません。ですがったらきっと、とてもおどろくでしょう」


 そんなことを湖白こはくさんが言ってくるので、監禁かんきん脱出だっしゅつとカーチェイスをふちから生還せいかんするという、日本にほん高校生こうこうせいにしてはきわめて特殊とくしゅ状況じょうきょうになっていたがゆえ少年しょうねんらしく若干じゃっかんテンションが上がっていた俺はウキウキで返す。


「あ、じゃあ湖白こはくさんも一緒いっしょになってかなでさんの誕生日たんじょうびのサプライズプレゼントをいわってくれませんか? 温泉おんせん旅館りょかんもどったら、きっとみんなよろこびます」


 そんな俺の提案ていあんに対して、湖白こはくさんの返答へんとうは、予想よそうもしないものであった。





 

 それからすこ時間じかん経過けいかして、楽保よしやすさんの運転うんてんするボロボロのタクシーで、湖白こはくさんは東京とうきょうに帰っていった。


 俺と姉ちゃんと美登里みどり、それからかなでさんが住民用エントランスでタクシーを見送った後、エレベーターへと向かう。


 ゲートを抜けつついもうと美登里みどりがこんなことを言う。


「……いや、かなでちゃんのおかあさん綺麗きれいだった」


 そして、コンシェルジュのかた待機たいきしているロビーを通り過ぎながら、ねえちゃんが続く。


美人びじんだったねー、それにおっぱいおおきかったよねー。何カップあるんだろー?」


 すると、かなでさんがこたえる。


「ああ、おかあさんはむねのサイズは Jジェイ だって言ってました……」


――いや、かなでさんも律儀りちぎこたえなくていいから。


 俺がエレベーターをちながらそうこころなかむと、美登里みどりゆびげて、湯桁ゆげたかずかぞえるかのようにカップの番号ばんごうかぞえる。


「……A、B、C、D、E、F、G、H、I、J !?  しゅごい……10番目ばんめってもう宇宙人エイリアンだよ宇宙人エイリアン。もしかしてかなでちゃんも将来しょうらい、あーなっちゃったりするの?」


 そして、到着とうちゃくしたエレベーターにみんなみながらかなでさんが戸惑とまどいつつこたえる。


「えーっと……それは、ちょっとわかりません……ただ、おかあさんがあそこまでむねのサイズがおおきくなったのは大人おとなになってからだといたことがありますので、わたしもそのうちおおきくなるかもしれませんね……」


 エレベーターで上昇じょうしょうしながら、ねえちゃんが軽快けいかいわらいつつげる。


かなでちゃんー、それは友達ともだちになった結果ゆいかちゃんにはしばらくのあいだ秘密ひみつにしておこっかー? 多分たぶん結果ゆいかちゃん、『うらぎりものー!』ってっていちゃうからさー」


「え……? あぁ、そうおっしゃるのでしたらそういたします。明日香あすか嬢様じょうさま……」


 そんな会話かいわをしていると、チーンというおとってエレベーターが高層階こうそうかい到着とうちゃくしたという表示が出る。


 そして、きたからのそらひかりむこのエレベーターホールに、ぞろぞろと俺とねえちゃんと美登里みどり、それからかなでさんでエレベーターから出ていく。


 幸代さちよさんは、台所だいどころ夕飯ゆうはん準備じゅんびをしてくれているはずだ。


 だが、俺の心の中ではちないというか、スッキリしないまどいが渦巻うずまいていたのであった。


――温泉おんせん旅館りょかんを買い戻して譲渡じょうとすることを湖白こはくさんに、断られた。


――もどしておくったら、みんなが喜ぶと思ったんだけどな。


 もと旅館りょかんオーナーの一人娘ひとりむすめで、事実上じじつじょうげん旅館りょかんオーナーになりうる湖白こはくさんに断られたら、俺はどうしようもない。


 湖白こはくさんは、先ほど和室でこんなことを言っていた。



 ◇



「申し訳ありませんが、購入後こうにゅうご旅館りょかん譲受ゆずりうけをすることはおことわりさせていただきたいと思っております」


 湖白こはくさんのそんな言葉ことばに、俺はまるくしてかえす。


「へ? なんでですか?」


 すると、毅然きぜんとした態度たいど湖白こはくさんが応える。


かなでは、窮地きゅうちすくってくださった啓太郎けいたろうさんにたいして非常ひじょうおおきなおおきな感謝かんしゃをしていて、極端きょくたんってしまえばあこがれにもちか尊敬そんけいねんいだいております。それこそ人生じんせいすくってくださった神様かみさまであるかのように」


 湖白こはくさんは続ける。


「その上、十五億円もする旅館りょかん譲渡じょうとしていただくとなると、ますますかなで恐縮きょうしゅくしてしまうでしょう。現在げんざい以上いじょうに」


 湖白こはくさんは続ける。


かなで通信制つうしんせいとはいえ、一度いちどあきらめていた高校こうこう進学しんがくして高校生こうこうせいになれるということたのしみにしていますし、啓太郎けいたろうさんのはからいで一緒いっしょらす姉妹しまいのような存在そんざい大学生だいがくせい友達ともだちができたということも、とてもとてもよろこんでいます。それもこれも何から何まで啓太郎けいたろうさんのおかげだということを、わたくしと楽保よしやすさんにすごすごうれしそうに話してくれました」


 俺が何も言わないのをおかまいなしに、湖白こはくさんは続ける。


「もうすでに、わたくしたち夫婦ふうふは、それからなによりわたくしたちのむすめは、啓太郎けいたろうさんにむすめ安全あんぜん未来みらいへの希望きぼうというおおきすぎるものをいただいているんです」


 そんな母親ははおやらしい、状況じょうきょうながされないしんのある意思いし表明ひょうめいに、俺は困惑こんわくする。


 そして、湖白こはくさんはたたみをついて俺にもう一度いちど深々ふかぶかあたまげる。


「ですから啓太郎けいたろうさん、どうかこれ以上いじょうわたくしたちに、わたくしたちのむすめに、その啓太郎けいたろうさんの慈悲じひぶかさを背負せおわせないでください。鳥之枝とりのえ温泉おんせん旅館りょかんもと所有者しょゆうしゃむすめとしてではなく、かなでははとしておねがいいたします」


 湖白こはくさんが、尊厳そんげんあるたしかな覚悟かくごで、俺にそうこうべれる有様ありさまには、まさにむすめ人生じんせいまもらんとする母親ははおや気概きがいかんじずにはいられなかった。


 今度こんどは、このまえ銀髪ぎんぱつ爆乳ばくにゅう人妻ひとづまむねがどれだけれたかということは、俺にとってはいたって些細ささいなことにぎなかった。



 ◇



 そんな先ほどまでに湖白こはくさんとやり取りしていたことを思い出し、俺は自分の部屋に戻っていた。


 今晩は、幸代さちよさんとかなでさんが生還せいかん記念きねん御馳走ごちそうを作ってくれるらしい。とはいっても、いつも御馳走ごちそうではあるのだが。


 そして、リクライニングチェアーにけながらおおきくうしろに体重たいじゅうあずける。


――そうだよな。


――かなでさんがよろこぶとばかり思って、一人で突っ走っちまったな。


――俺は、温泉おんせん旅館りょかんを買い戻せば、かなでさんが喜ぶだろうという自分じぶん勝手かって願望がんぼうもとづいて、高校生こうこうせいのくせに十五億円もの買い物をしようとしてたわけだ。


――その行動が、かなでさんやかなでさんの家族かぞくにとって、どれだけのになるかなんて、かんがえがいたらなかった。


――それもこれも全て、俺が勝手かって願望がんぼうもとづいて、予測よそくを立てたせいで――


 そこで、俺の頭の中で神経しんけいのシナプスが弾けた。


 可憐かれんが俺に出した、クイズの内容が思い起こされる。




 「第三問だいさんもん、この一定数イッテースーいる、ギャンブルやごとのような勝負事しょうぶごとつよひとは、おおむねどういう思考シコーパターンをっているでしょうか?」




 俺の口から、かわいたわらいがれる。


――そりゃー、公演こうえんとかできるたぐいのものじゃねーな。


――だって、おおくの人間にんげんには無理むりだろーし。


 そんなことを俺は、夕方になろうとしているくもぞらを、ガラスのこうに見上みあげながらおもっていた。

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