第80節 裏切りのサーカス





 見張みはりが、あの昨晩さくばん俺を心配しんぱいそうに気遣きづかってくれた中国人ちゅうごくじんのおじさんのばんになってから、俺は作戦さくせん開始かいしした。


 椅子いすからって、ドアこうからはえない死角しかく移動いどうする。


 そして、スマートフォンを操作そうさして天羽てぃえんゆぅさんに電話でんわをかける。


 ワンコールで天羽てぃえんゆぅさんが電話でんわてくれたので、俺スマートフォンをあたまからはなし、操作そうさによってスピーカーフォンモードにえ、音量おんりょうをほぼ最小化さいしょうかする。


 そしてふたたび、スマートフォンをみみてる。


 ドアこうから死角しかくになっているところでかべをあて、俺が小声こごえ電話でんわこうの天羽てぃえんゆぅさんにたずねる。


こえてますか?」


『ああ、こえてるぞ。いつでもよろし』


 スピーカーフォンモードにしているが、音量おんりょう最小化さいしょうかしているのでこのスマートフォンをみみてていないかぎり、天羽てぃえんゆぅさんのこえこえない。


 しかし、電話でんわ回線かいせんこうにいる天羽てぃえんゆぅさんはスマートフォンからはなれたところわされている俺たちの会話かいわ内容ないようひろえる。


 そういう状況じょうきょうにしておくことが、この作戦さくせんには必要ひつようだったのである。


 ドアまど死角しかくからすすっと出入でいぐちとなっているかぎきのドアに近寄ちかよった俺は、みみにあてたスマートフォンがおじさんにバレないように、ドアをかるくノックする。


 コンコン


 すると、中国人ちゅうごくじんらしきおじさんがいて、もうわけなさそうなかおせつつガラスしに俺に中国語ちゅうごくごらしき言葉ことばげてくる。


ドゥィ不起プゥチィウォ沒有メィヨゥ鑰匙ヤォシィ


 そのおじさんのこえから一拍いっぱくおくれて、スマートフォンから天羽てぃえんゆぅさんの通訳つうやくされた言葉ことばが俺のみみだけにとどく。


『すまない、かぎってないんだ。だと』


 俺がおじさんの言葉ことばにも天羽てぃえんゆぅさんの通訳つうやくにもなにもこたえずにいると、ドアこうのおじさんは俺が中国語ちゅうごくご理解りかいできるかどうかなどまったくかいせず、言葉ことばつづける。


ウォ不認プゥレンウェイゼェ綁架パンジャァ


 一拍いっぱくおくれて、天羽てぃえんゆぅさんからやくつたわる。


誘拐ゆうかいだとはおもわなかったんだ。だと』


 ドアまどこうのおじさんはきそうなこえになりながら中国語ちゅうごくごで、かまわず言葉ことばつづける。


ウォ兒子アズィヨゥ心髒シンザンビンウォ真的ズェンドュ需要シュゥヤォヘンドゥォチァンゼィズォ手術ショゥシュゥ


 天羽てぃえんゆぅさんから、やくつたわる。


子供こども心臓病しんぞうびょうで、どうしても手術しゅじゅつ大金たいきん必要ひつようだったんだ。だと』


 そんな事情じじょうを俺が理解りかいしたかどうかにおかまいなく、中国人ちゅうごくじんのおじさんはなみだながしてすすりはじめた。


 俺は、スマートフォンこうの天羽てぃえんゆぅさんに小声こごえつたえる。


「もうかなくてもいいですよ。で」


 すると、天羽てぃえんゆぅさんからこんな通訳つうやくされた中国語ちゅうごくご音声おんせいとしてかえってくる。


にぃ不必ぷぅびぃざぃ哭了くぅら


 俺は、その中国語ちゅうごくご発音はつおんをそっくりそのままおぼえ、俺のくちからおじさんにかたりかける。


にぃ不必ぷぅびぃざぃ哭了くぅら


 すると、いていたおじさんが見開みひらき、おどろいたようなかおになってドアにはめまれたガラスしに俺をる。


ニィネンシュォ中文ツォンウェン?」


 おじさんの言葉ことば一拍いっぱくおくれて、天羽てぃえんゆぅさんから音声おんせいとどく。


中国語ちゅうごくごはなせるのか。だと』


 天羽てぃえんゆぅさんの通訳つうやくしてくれたその内容ないように、俺は返答へんとうとしての言葉ことば小声こごえしゃべる。


「ほんのすこしだけ。で」


 すると、ふたた天羽てぃえんゆぅさんのやくかえってくる。


一点いぃでぃえん


 そして俺は、スマートフォンがおじさんからはえないようにして、中国語ちゅうごくごができるふりをしながらガラスこうにいる中国人ちゅうごくじんらしき中年ちゅうねん男性だんせいはなしかける。


一点いぃでぃえん


 そんな、随分ずいぶん迂遠うえんなやりかたで、俺はあのマフィア集団しゅうだん裏切うらぎってくれそうなこの中国人ちゅうごくじんのおじさんとコミュニケーションをることになったのである。




 天羽てぃえんゆぅさんの通訳つうやくかいして、俺はドアこうのおじさんにたずねる。


「(おじさんのまえおしえてください。)」


――おじさんのまえが、5億円おくえんとか10億円おくえんとかだったら。


――買収ばいしゅうできる余地よち充分じゅうぶんにある。


 俺がそんなことをおもっていると、おじさんは中国語ちゅうごくごでこんなことをつたえてきた。


「(三千万さんぜんまんえんだ。)」


――へ?


 一瞬いっしゅんだけ呆気あっけにとられた俺はかえす。


「(日本円にほんえん三千万さんぜんまんえんですか? ドルとか人民元じんみんげんとかじゃなく?)」


 すると、おじさんがこたえる。


「(ああ、オレの仕事しごと運転手うんてんしゅ見張みはりだけだからな。そんなものだ。)」


――やすすぎないか?


 そうかんじた俺は、以前いぜん自分じぶん部屋へやんだ、行動こうどう経済学けいざいがくという人間にんげん心理しんり観点かんてんから経済けいざい考察こうさつするという分野ぶんや書物しょもつ内容ないようおもかえす。


――たしか。


――人間にんげんは、なんらかの値段ねだん価値かちかんがえるさいに、基準きじゅんとなる価格かかくおおきく左右さゆうされるっていてあったな。


――それに、人間にんげん自分じぶんだけが特別とくべつあつかいをされると指定していされた条件じょうけんみやすいともいてあった。


――だとすれば、これくらいの条件じょうけんうのが妥当だとうかな。


 俺は、天羽てぃえんゆぅさんの通訳つうやくかいしてガラスしにおじさんに中国語ちゅうごくごつたえる。


「(あなただけに三億円さんおくえんげますので、俺がここから脱出だっしゅつするのに協力きょうりょくしてくれませんか?)」


 俺がくおじさんのまえ十倍じゅうばい金額きんがく提示ていじすると、おじさんはなやむこともなくわたりにふねとばかりに即座そくざ中国語ちゅうごくごかえしてくる。


「(わかった、協力きょうりょくする。なにをすればいい?)」


 俺は天羽てぃえんゆぅさんをかいして、おじさんにたいして中国語ちゅうごくごこたえる。


「(しばらく、俺のすることにぬふりをしていてください。)」


「(わかった。)」


 そんなやりとりをわしてから、俺は電話口でんわぐちこうの天羽てぃえんゆぅさんに小声こごえつたえる。


天羽てぃえんゆぅさん、いったんります。またすぐにけなおしますので」


『わかった、太郎たろさん。けろよ』


 電話でんわ回線かいせんってから、スマートフォンをポケットにまってまど近寄ちかよる。


 中国人ちゅうごくじんのおじさんは、俺がこれからすることにぬふりをしてくれるはずだ。


 そんな状況じょうきょうになってから俺は、すこしだけひらまどけ、アルミニウム金属きんぞく格子こうしまったまどした見下みおろす。


 10メートルからそこらくらいしたえる1メートルはんほどのはば薄汚うすよごれた路地裏ろじうらには、あいかわらずゴミが散乱さんらんしているのがわかる。


 俺はくびいていたマフラーをはずし、はしっこをくちくわえてみ、がった犬歯けんしにひっかける。


――かなでさん、ごめん!


 ブチリ


 おとてて、俺はかなでさんがんでくれたこの青色あおいろのマフラーの毛糸けいとった。


 った毛糸けいとり、ほどき、一本いっぽんなが毛糸けいとにする。


 15メートルくらいのながさまで毛糸けいとをほどいたところで、のこりの部分ぶぶんのまだマフラーのかたちたもっている部分ぶぶんをアルミニウム格子こうし隙間すきまをくぐらせてそとらす。


 そして、青色あおいろのマフラーを格子枠こうしわくしばけたところでスマートフォンを使つかって、したってくれているという鳥之枝とりのえ温泉おんせん旅館りょかんつかいのものだというおとこに SMS をおくる。


『青いマフラーを窓から垂らしました』


 そんな SMS を送信そうしんしてから、ほんの1ぷんかそこらの時間じかんのうちに、した路地裏ろじうら運転手うんてんしゅのようなスーツをてネクタイをめているがっしりとした体格たいかく男性だんせいが、俺の指定していした道具グッズれてくれているであろうかごにしてあらわれたのがわかった。


 したにいるおとこは、俺のいまいるこの部屋へや格子窓こうしまどかららされた目印めじるしあおいマフラーを見上みあげ、ほかのマフィアらに存在そんざいさとらせないように無言むごんおおきくる。


 俺も、可能かのうかぎこうからわかるように隙間すきまからてのひらしてる。


 ここからてわかるかぎ鳥之枝とりのえ温泉おんせん旅館りょかんつかいのものだというそのおとこは、幕末物ばくまつもの時代劇じだいげきてくる総髪そうはつまげっているさむらいであるかのように、その黒髪くろかみあたまうしろでちいさくしばって首元くびもとまでらしている、四十よんじゅうだいなかばくらいのじゅん日本人にほんじんっぽいしぶ精悍せいかんかおつきの男性だんせいであった。


――ん?


 俺はほんのすこしだけ既視感きしかんおぼえた。


――あのひとまえにどこかでたことがあるような?


 俺がどこでひとかをおもそうとしていると、したにいるおとこうえかっておおきくうでうごかし、まね動作どうさをして行動こうどううながしているようなそぶりをせた。


――おっと、いまはそんな場合ばあいじゃない。


――いまのところは、作戦さくせん遂行すいこう最優先さいゆうせんだ。


 俺は、マフラーからびているあお毛糸けいとらして慎重しんちょう慎重しんちょうすこしずつろしていく。


 ある程度ていどろしたところで、したおとこがその毛糸けいとさきつかみ、俺が指定していしてってきたもらったロープのはしっこを毛糸けいとさきわえけてもらう。


 した男性だんせいゆびっかをつくり OK サインをせたので、俺は今度こんど毛糸けいとをたぐってげる。


 ほそ毛糸けいとげたら、そのさきにはある程度ていどりにえられるアウトドアようほそいが丈夫じょうぶなロープのはしわえけられてある。


 そして、今度こんどはそのロープを手繰たぐげていくと、したにいる男性だんせいがロープの反対側はんたいがわさきむすけてくれた、道具類どうぐるいはいったかごげられる。


 俺は、かごなかあらかじ企図きとしたギミックを実現じつげんさせるための道具どうぐがしっかりとはいっていることを確認かくにんする。


――いける。


 そう判断はんだんした俺は、アルミニウムせい窓格子まどごうしとおけるにはおおきすぎるかごを、外側そとがわにロープでかるむすけておいて、ふたた中国人ちゅうごくじんのおじさんがそと待機たいきしている、ガラスのまったドアにちかづく。


 そこで再度さいど天羽てぃえんゆぅさんに電話でんわをかけ、これから俺がすために、中国人ちゅうごくじんのおじさんにはどんな行動こうどうってしいのかを、天羽てぃえんゆぅさんの通訳つうやくかいして相談そうだんしてくわしくめていく。


 あらかた作戦さくせん内容ないよう中国人ちゅうごくじんのおじさんと共有きょうゆうえたところで、電話口でんわぐちこうの天羽てぃえんゆぅさんがこんなことをってくる。


太郎たろさん、絶対じぇったいきてかえれよ』


 俺はかえす。


「ああ、はい。最善さいぜんくします。きてかえれたらおれいにごはんおごりますよ」


約束やくそくだぞ、太郎たろさん。祝你ぢゅぅにぃ好运はぉいんGoodLuckグッドラック


「はい」


 そんなやりりを天羽てぃえんゆぅさんとわして、俺は通話つうわる。


 そして、つくえうえ金額欄きんがくらん空白くうはく小切手こぎってき、たしかな覚悟かくごってボールペンをでしっかりとにぎる。


――間違まちがいは、ゆるされない。


 俺は、パイプ椅子いすすわっておおきく深呼吸しんこきゅうをして精神せいしん集中しゅうちゅうし、空白くうはく金額欄きんがくらんくろのボールペンにて記入きにゅう規定きていどおりに漢数字かんすうじで『金参億円也』とく。


 それはすなわち、この瞬間しゅんかんから、この小切手こぎっては3億円おくえん現金げんきんそのものとしての価値かちったことを意味いみする。


 ちなみに、押印おういん振出人ふりだしにんらんなどほか必要ひつよう事項じこうは、この小切手こぎってほんなかかくまえ事前じぜん捺印なついん記入きにゅうしているので問題もんだいはない。


 そして、ドアこうにいるおじさんに、さきほど銀髪ぎんぱつおとこ便箋びんせん封筒ふうとうわたしたときのようにドアの隙間すきまから小切手こぎってしてわたす。


「どうぞ」


 ドアこうのおじさんは、ふかふか非常ひじょうかしこまった様子ようす恐縮きょうしゅくして「多謝ドゥシィエ」といながらその小切手こぎってる。


 そして、俺はさきほど天羽てぃえんゆぅさんにおしえられていた中国語ちゅうごくごを、おじさんにつたえる。


ちん开始かぃしぃ


 その中国語ちゅうごくご意味いみは、こうであった。


――はじめてください――



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る