第74節 グリーンブック



 2がつ16にち金曜日きんようびばんのことであった。


 夕方ゆうがた学校がっこうからかえってきた俺は、夕飯ゆうはんべたあと下階かかいにある自分じぶん部屋へやもどって、リクライニングチェアーにすわって分厚ぶあついハードカバーのほんんでいた。


 以前いぜん七草粥ななくさがゆに、かなでさんが東京とうきょうへと彼女かのじょ両親りょうしんいにまえに俺がんでいた『ウォール街でのランダムウォーカー』というタイトルの株式かぶしき投資とうしかんする書籍しょせきではない。そのほんすでえており、このほんべつほんである。


 なんでも行動こうどう経済学けいざいがくといって、心理学しんりがく観点かんてんから経済学けいざいがく考察こうさつする、という分野ぶんやほんであるらしい。


 そして、その書籍しょせきのあとがきをえ、最後さいごのページにいたったため、カバーをじる。


「……ふぅー、このほんえたな」


 そうつぶやいてリクライニングチェアーからがり、ほんがほんの数冊すうさつおさまっている本棚ほんだなちかづきさきほどまでんでいたほんく。


――まだまだ、みちのりはながいな。


 銀行ぎんこう預金よきんとして数百億円すうひゃくおくえんという超大金ちょうたいきんっている俺は、生活費せいかつひ遊興費ゆうきょうひなどのおかねなどにはこまってはいないのであるが、以前いぜん顧問こもん弁護士べんごし先生せんせいすすめられたように『投資とうし』というものをおこなってみたいと、ここすうげつあいだかんがえていたのである。


 だが、投資とうしをするにはすべ自己じこ責任せきにん自分じぶん判断はんだん意思いしおこなわなければならないというのが、その弁護士べんごし先生せんせいである島津しまづさんのげんであった。


 また、投資とうしをするにはおかね経済けいざいなどの法則ほうそく関連かんれんした、この人間にんげん社会しゃかい構成こうせいする様々さまざまなシステムや原理げんり原則げんそくなどについても、くわしくっておかないといけないのであるらしい。


 当然とうぜんことながら、ほんの高校生こうこうせいぎない経験けいけん知識ちしきなににもない未成年みせいねん子供こどもであるいまの俺の無知むち現況げんきょうでは、いたずら投資とうしはじめてもなん成果せいかられず無様ぶざま財産ざいさんくしてしまうだけであろう。


 と、いうわけで、俺はこれからひまがあればすこしづつ経済けいざい金融きんゆうかんする書籍しょせきってんでは勉強べんきょうし、わったらこの本棚ほんだなおさめて、本棚ほんだながある程度ていどまるまでは投資とうしおこなわないと自己規定マイルールさだめてまもろうとめたのである。


 おそらくは、このおおきな本棚ほんだながある程度ていどまるのは、種々しゅしゅ多様たよう知識ちしき事柄ことがら記述きじゅつされた様々さまざま書籍しょせきを、数百冊すうひゃくさつくらいえたらのはなしであろう。


――それでも、投資とうしという勝負しょうぶるのは、それからでもおそくない。


――いますぐにでも投資とうしはじめなきゃならないわけじゃなくて、それなりに余裕よゆうはあるんだからな。


 俺はほんたなにしまってから、これからのぼやま見上みあげている登山者とざんしゃのような心境しんきょうであるかのように、そのほとんどからっぽの本棚ほんだな見上みあげつつぼんやりとそんなことをかんがえていた。


――ま、千里せんりみち一歩いっぽから、か


――とりあえず、そのときそのときんでるほん真摯しんしつづけるしかねーな。


――つーっか、大金おおがねちになっても勉強べんきょうって必要ひつよう不可欠ふかけつなんだな。


 俺は両親りょうしんから『勉強べんきょうをしなさい』とわれたことはあまりないが、『やらなきゃいけないことはまもりなさい』ということはわりとよくわれてきた。


 当然とうぜんのことながら、『やらなきゃいけないこと』には学校がっこうせられた宿題しゅくだいなどの学習上がくしゅうじょう課題かだいだけではなく、だれかとむすんだ約束やくそく自分じぶんめたルールなどもふくまれている。


――金銭上きんせんじょう制約せいやくがほとんどない以上いじょう約束やくそくやルールをやぶったら、どこまでも堕落だらくしちまうからな。


――俺はあにとして、たちばな長男ちょうなんとして。


――自堕落じだらく欲望よくぼうよわいもうとである美登里みどりの、しっかりとしたお手本てほんにならなきゃなんねーんだからな。


――俺自身じしん堕落だらくしねーよーに、用心ようじん用心ようじんっと。


 そんなことをかんがえつつ、冷蔵庫れいぞうこまってあるゼロカロリーのペットボトルコーラをむためにリビングにめんしたダイニングキッチンへとかった。




 リビングにると、そのなが黒髪くろかみふたつのリボンでツインテールにった、いもうと美登里みどり上階じょうかいからリビングにつながる階段かいだんりているところにくわした。


 ちなみにかなでさんは、夕食ゆうしょくみおさらあらってくれ、メイドさんとしてのとりあえずの仕事しごとがだいたいわったので、まいとしててられている玄関げんかんちかくの和室わしつもどっているはずだ。


 美登里みどり階段かいだんりながら、俺につたえる。


「……おにいちゃん。わたし、アニメ一挙いっきょ放送ほうそうあるからこれからお風呂ふろはいるね」


「ああ、そうか。今日きょう金曜日きんようびだったな」


 そんな返事へんじをしたところ、今日きょう高校こうこうすぐるからわれたことをこころなか再確認さいかくにんする。


 そして、階段かいだんった美登里みどりたずねる。


「ところで美登里みどり、おまえ部屋へやはいってA4のコピー用紙ようしもらっていいか? ちょっとかみれちまったんだ」


 すると、美登里みどりかえす。


「……べつにいいけど、わたしPCピーシー勝手かって操作そうさしたりしないでね」


 ぎくり。


「ああ、美登里みどりのパソコン、勝手かってうごかしたりなんかするもんか」


 俺はこころなかあせをかきながら、そんな返事へんじをする。


 すると、美登里みどりからこんなことをわれる。


「……そういえばおにいちゃん、すももちゃんから RINEラインたんだけど。なんかおにいちゃんが国際こくさいマフィアに誘拐ゆうかいされるゆめたからけといたほうがいかもしれないって」


ゆめ? あの声優せいゆうさんからか?」


 俺がこころここにあらずといった漫然まんぜんとしたかんじでかえすと、美登里みどりうなずいてこたえる。


「……うん。すももちゃん、たまに予知夢よちむることあるんだって。しかも、かなりの精度せいどたるらしい」


 そんないもうと言葉ことばに、俺はヘタレな心臓しんぞうをバクバクいわせながら適当てきとうかえす。


「あー、うん。けとくよ。だから美登里みどりけてくれよな」


「……うん」


 そんなやりりをわしたあとで、俺は美登里みどり風呂場ふろばかったのを確認かくにんし、リビングの階段かいだんがって上階じょうかいにあるいもうと部屋へやはいる。


 そこにある、美登里みどりがいつもゲームやネットをしているつくえかれそなけられてある3まいある PCパソコン 専用せんようのモニター画面がめんは、パソコンがその演算えんざん処理しょり能力のうりょく一時的いちじてきやすませスリープ状態じょうたいにしているのがわかる、闇色やみいろ色彩しきさいはなっていた。


 俺は、 USB 接続せつぞく端子たんしのある小型こがたのガジェットをポケットからす。


 この USB 機器ききは、今日きょう学校がっこう廊下ろうかにてすぐるから手渡てわたされたものだ。


 すきてこっそりと、いもうとである美登里みどりのパソコンの目立めだたぬ場所ばしょの USB スロットにむようにとすぐるほのめかされたのだ。


 俺がなんの機器ききかとたずねると、すぐる高校こうこう廊下ろうかでニヤリと不敵ふてき笑顔えがおかべてこうった。




 「あぶなっかしいことをしでかしかねん大切たいせついもうと心配しんぱいなのであろう? おとこだったらあにとしてのいわずめ。なあに、わるいようにはせん」




 そんな高校こうこうでの一場面いちばめん回想かいそうしつつ、その USB 機器ガジェットきがただしいことを確認かくにんしてから、その美登里みどり高性能ハイエンドデスクトップパソコンの裏手うらてほうにある USB スロットの方向ほうこうとを注意ちゅういぶか見定みさだめる。


――すぐる本当ほんとうにいいんだろうな?


――しんじるぞ? すぐる


 あのヒョロながノッポでぼさぼさあたま眼鏡めがねをかけた悪友あくゆうの、ひとかすきつねのようなニヤリとした笑顔えがおおもしつつ、俺は勇気ゆうきもってそのちいさな USB 機器ききをデスクトップパソコンのうらにある、一番いちばん目立めだたたない USB スロットにおともなくんだ。


――なあに、わるいようにはせん――


 そんなすぐる言葉ことばおもしつつ、俺はかえせないことをやってしまったのではないのかという、どことなくうしろめたい胸騒むなさわぎをおぼえながら気持きもいそいで部屋へやしたり、キッチンにてダイエットコーラをおのれのグラスにそそぎ、下階かかいにある自分じぶん部屋へやへともどった。


 もどってからいつものようにリクライニングチェアーにすわってから、コーラを一口ひとくちんでおおきくいきく。


――本当ほんとうに、ほんとーに、これでかったんだよな?


 俺は、つくえうえいてあったあおいカバーのスマートフォンをり、暗証あんしょう番号ばんごうれてロックを解除かいじょし、コミュニケーションアプリであるラインをひらく。


 そして、悪友あくゆうであるすぐるとのトーク画面がめんひらき、指先ゆびさきでフリック入力にゅうりょくをする。


『例の機械、妹のパソコンに仕掛けたぞ』


 2ふんか3ぷんったところで、既読きどくがついてすぐるからの返事へんじかえってくる。


『よくやった。それでこそシスコンだ』


――められたのか?


 俺が返事へんじをするもなく、つづけざまにラインメッセージがとどく。


『明日の土曜日。空いてるな』

『13時に家に来い』

『俺の家の場所はここだ』


 3連続れんぞくでトーク画面がめんすぐるからメッセージがおくられてきて、いでピンがされたマップ画像がぞう送信そうしんされてきた。どうやらすぐるいえは、さいたま市内しないにあるようだ。


 俺はかえす。


『わかった、明日の午後1時だな?』

『うい。すっぽかすなよ』


 そんなやりとりをして、俺とすぐるはラインをおたがいにえた。


――いえいって。


――あの USB 機器きき本当ほんとうになんのためのものだったんだろーな?


――パスワードぬすれるようなあやしい機械きかいとかじゃねーよな?


 そんな、パソコンという俺自身じしんがあまりくわしくないような分野ぶんやたいするなんとなしの不安ふあんと、たからくじがたって大金持おおがねもちになるまえから学校がっこうでのなかかった悪友あくゆうしんじたいという、男子だんし高校生こうこうせいなりの複雑ふくざつおもいが俺のこころ奥底おくそこでぶつかる。


 二律背反アンビバレンツ葛藤かっとうかかえながら、はらにはにがいがくちにはみつのようにあま人工じんこう甘味料かんみりょうあまあま味付あじつけされたダイエットコーラをふくむ。


 そして、椅子いすからって本棚ほんだなかい、すでえてしまった分厚ぶあつ洋書ようしょ翻訳ほんやくしたハードカバーの書籍しょせきる。


 ふたたびリクライニングチェアーにすわった俺は、つくえしからねえちゃんにもらったあかいカバーのスマートフォンをし、その書籍しょせき見比みくらべる。


――美登里みどり声優せいゆうさんに、俺が誘拐ゆうかいされる予知夢よちむたってわれてたなそーいや。


――冷静れいせいかんがえればいまのところは、いえをほとんどてねーいもうとより。


――高校こうこうかよっている俺のほうが、わるひとたちに誘拐ゆうかいされる可能性かのうせいたかい、か。


 そんなことをおもいつつ、俺は分厚ぶあついハードカバーのほんかみをパラパラとめくる。


――予知夢よちむとかはしんじてねーけど、ねんのため。


――いやしくも、まんいちにでも誘拐ゆうかいされちまったときのために。


――ころばぬさきつえとして、保険ほけんとかは、っといたほうがいいかもしれねーな。


――ちょっと面倒めんどうくさい作業さぎょうになるけど、対策たいさくをしとこう。


――このほんなかに、ねえちゃんのスマートフォンかくしといてあるいとくか。


 そんなことをおもい、俺はこの『ウォール街でのランダムウォーカー』という分厚ぶあついハードカバーの書籍しょせきに、細工さいくほどこしてねえちゃんからもらったこのスマートフォンをかくすことにめたのであった。


 もちろんのこと、このときの俺は――


 あの新人しんじん声優せいゆうさんの予知夢よちむ実際じっさいたってしまうだなんて、半信はんしん半疑はんぎどころかほとんどおもっていなかったのであるが――


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