第58節 ミスト



――何故なぜ俺が。


――多国籍たこくせきマフィアに誘拐ゆうかいされる羽目はめになってしまったかというと。


――現在げんざいかれている状況じょうきょう詳細しょうさいべるには。


――としけてすぐの時期じきからの回想かいそうをしなければならないであろう――



 ◇



 としけてからほぼ一週間後の、一月七日の日曜日の朝方あさがたのことであった。


 かなでさんにつくってもらった七草粥ななくさがゆを食べ終わっていた俺は、冬のやわらかな太陽たいようひかりしこむ豪邸ごうてい大広間おおひろまにあるソファーのはしっこに座って、つい先日に東京とうきょう書店しょてんで購入した本を読んでいた。


 その本とは、妹の美登里みどり去年きょねん誕生日たんじょうびプレゼントを買うためにおとずれた池袋いけぶくろにて見つけた『投資とうし』に関する本で、洋書ようしょ翻訳ほんやくした随分ずいぶん分厚ぶあついハードカバーの本であった。


『ウォール街でのランダムウォーカー』


 そんなタイトルの書籍しょせきを、つい先日に東京とうきょう池袋いけぶくろまで出かけに行って買ったのであった。


 茶髪ちゃぱつショートカットで、大学だいがくではレスリングの選手せんしゅをしているバリバリの体育会たいいくかいけい女子じょしである明日香あすか姉ちゃんは朝飯あさめしとして七草粥ななくさがゆを食べた後、いつもの休日きゅうじつの午前中のように、このビルにあるジムへときんトレをしに出かけていってしまった。


 なお、明日あしたはさいたま主催しゅさいの20さいいわ成人せいじん式典しきてん、いわゆる成人式せいじんしきに出る予定となっている。


 長い黒髪を二つのリボンでツインテールにった、インドア派引きこもり系オタク女子じょしである中学生ちゅうがくせいいもうと美登里みどりはというと、起きているのか起きていないのか、朝食ちょうしょくべずに少なくともまだ上階じょうかいにある自分の部屋にいる。


 さて、俺がこんな風に自分の部屋ではなく、わざわざ大広間おおひろま気取きどった感じで読書どくしょをしているのには、思春期ししゅんき男子だんし高校生こうこうせいとしてのふかわけがある。


 ガラリ。


 いま大広間おおひろまがしめやかなおとててけられた。


 そして、どこか白っぽくとも見えなくもない亜麻色あまいろ秀麗しゅうれいかみうしろにばし、みをってそれぞれのみみそばから両サイドに垂らしている、高級こうきゅう西洋せいよう人形にんぎょうであるかのような容貌ようぼうであるせんほそはかなげな美少女がこのリビングに入ってくる。


 その少女とはもちろん、うちにてみで家政婦メイドさんをしてくれているかなでさんなのだが、いつものようなカチューシャを頭に着けたロングスカートメイド服姿ではなかった。


 黒と淡いピンク色を基調きちょうにしたお洒落しゃれ冬服ふゆふくに身を包んだ私服姿のかなでさんが、扉を丁寧ていねいに閉め、居間いまへと入りソファーに座っている俺に近づく。


啓太郎けいたろうさん……お祖母ばあちゃんはこれからこちらに向かってきてくれるらしいです……」


 私服姿のかなでさんがそんなことを言いつつ、ソファーの端っこに座っている俺に近寄ってくる。


「あー、そうなんだ。意外と早かったね」


 俺はかなでさんの方を向き、本を手にしたままそんな簡単な返事をする。


 スリッパをいたかなでさんは、俺から少しだけ距離が開いたカーペットのかたわらで立ち止まり、口を開く。


啓太郎けいたろうさん、いもうとさんがお目覚めざめになったら……おなべにある七草粥ななくさがゆあたためてあげてくださいね……?」


「ああ、もちろん。かなでさんの作ってくれた七草粥ななくさがゆ、とてもとっても美味おいしかったから美登里みどりもきっとよろこぶよ」


 俺がそうこたえると、かなでさんが遠慮えんりょがちに口を開く。


「それにしても……今日はおやすみをいただかせてもらって本当にありがとうございます……お正月にはあんなに高額こうがくなお年玉としだままでいただいた上に、おやすみまでなんて……」


「いや、あれはお年玉としだまじゃなくってかなでさんが当然とうぜんもらうべき賞与しょうよだからね? きちんとした労働ろうどう対価たいかだから」


 俺が苦笑いをしつつそんなことを言うも、かなでさんは気が引けたような表情を浮かべるだけで、何も返してこない。


 俺は言葉を続ける。


かなでさんも幸代さちよさんも休日返上で本当に一生懸命いっしょうけんめいはたらいてくれてるんで、やとぬしとしての当然といえば当然すぎる義務ぎむっていうか……むしろ俺の方が労働ろうどう基準法きじゅんほうらしてうしろめたいっていうか……」


 新年が明けた元日がんじつ翌日よくじつに俺は、でいつも甲斐甲斐かいがいしくはたらいてくれているかなでさんと幸代さちよさんに、二ヵ月半分の時間外じかんがい労働ろうどう休日きゅうじつ出勤しゅっきん積立金つみたてきんおおやけにできない賞与ボーナスとして封筒ふうとうれた現金げんきんでまとめて渡したのだが――


 かなでさんが封筒ふうとう中身なかみ確認かくにんしたさいに、あわてたかおつきになって「こんな高額こうがくなお年玉としだま……いただくわけにはまいりません……!!」と勘違かんちがいして一旦いったんは受け取りを拒否きょひした情景じょうけいおもこされる。


 結局、俺がしっかりと「かなでさんと幸代さちよさんが労働ろうどう時間外じかんがい休日きゅうじつにもはたらいてくれた正当せいとうな取り分だから」と説明せつめいして、あと幸代さちよさんのとしこうじみた含蓄がんちくある説得せっとくもあって、かなでさんは俺の賞与ボーナス納得なっとくして受け取ってくれた。


 そんなことを頭の中で思い出しつつ、口を開く。


「あーっと、かなでさん? ソファーに座らない?」


 俺の申し出に、かなでさんはこくりとうなずいて「失礼します……」という声と共にくろかわであしらった高級ソファーにそっと音もなく座る。


 そして俺は、本を読んでいるそぶりを続けながら彼女のシルエットを視線しせんで追う。


 かなでさんが今、いつものような秋葉原あきはばらっぽいメイドさんのユニフォームを着ずに私服を着ているのにはわけがある。


――祖母そぼ幸代さちよさんと共に、久しぶりに東京とうきょうにいるかなでさんのお父さんとお母さんに会いに行き、家族四人で一緒いっしょに新年の休日を過ごすらしい。 


 そんなわけで、かなでさんはここ数日の間、いつものような無表情むひょうじょうな感じではなく、どことなくとてもうれしそうな顔をしていた。


 かなでさんの見せてくれていたなんとなしの晴れやかな顔を脳裡のうりに浮かべた俺は、ふたた横目よこめで、その日本人にほんじんばなれした肌理きめこまやかなしろはだをした、西洋人形のようなととのった横顔を見ようとする。


 すると、かなでさんと目が合った。


 かなでさんは首を回し、俺の逡巡しゅんじゅんなどにおかまいなく、顔をこちら側に向けていた。


啓太郎けいたろうさん……もしよろしければ、お祖母ばあちゃんが来るまで少しお話しませんか……?」


 そんなかなでさんの言葉を聞いた俺は、持っているハードカバーの本の栞紐スピンをページに慌てて挟んで、その本をソファーに置きつつ「ああ、もちろん」と了承の返事をする。


 そして、体感時間で五分かそこら、ちょっとばかりのなにげない会話を交わした。


 やとぬしとしての俺と、家政婦メイドさんとしてのかなでさんではなく、十六歳の男子高校生としての俺と、これから久しぶりに家族での団欒だんらんを楽しむのであろう十五歳のはかなげな少女としてのかなでさんとでわした会話であった。


 本当は、二十分か三十分くらいっていたのかもしれないが、楽しすぎてその時間はあっというまに過ぎていった。


 そしてついに、かなでさんの新しくなったガラケーに着信音ちゃくしんおんひびき、電話に出たかなでさんから幸代さちよさんがこの建物に到着して、入り口の待合室で待っているらしいということを伝えられた。


 二ヶ月半ほど前に俺のいえはたらいてもらうことになったさいに、かなでさんと幸代さちよさんには業務ぎょうむのために、それぞれ新しい番号ばんごうでガラケーの携帯けいたい電話でんわ契約けいやくしてもらったのである。


 もちろん携帯けいたい料金りょうきん使用しよう料金りょうきんは、雇用主こようぬしである俺もちで。


 なお、闇金やみきんグループに番号ばんごうられてしまった方のかなでさんの元々もともと携帯けいたい電話でんわは、電源でんげんったまま俺がずっとあずかっている。


 一階いっかいのエントランスに幸代さちよさんが到着とうちゃくしたという連絡を受け取ったかなでさんは、これから会いに行くお父さんとお母さんの顔を心に浮かべているかのような、それとなしのうれしそうな表情を見せながらソファーから立ち上がった。


 俺も腰を上げ二人して廊下ろうかけ、いつもとは逆、俺がかなでさんを玄関先まで見送ったところで、彼女は軽く微笑ほほえみつつ手を振って少し遠慮えんりょがちに「では、いってまいります……」とお出かけの挨拶あいさつをしてくれた。


 で、再び廊下ろうかを折り返し、リビングに入ってソファーに深く腰掛こしかけた俺は、先ほどまで交わしていたかなでさんとの会話を感慨深かんがいぶかく心の中で反芻はんすうしていた。


――そういえば。


――友達ともだち同士どうしという対等たいとうな関係で会話をわしたのは随分ずいぶんと久しぶりかもしれない。


 そんなことを考えている俺の頭の中で、会話かいわ内容ないよう概要がいようおもこされる。


 かなでさんは秩父ちちぶにあった温泉旅館で、三年前さんねんまえあきくなった旅館りょかんのオーナーであったお祖父じいさんのたった一人の孫娘まごむすめとして大事に大事にかしずき育てられたこと。


 小学生の頃にかなでさんは、よくおとうさんとおかあさんと一緒いっしょに、広々ひろびろとした露天ろてん混浴こんよく温泉おんせんに入っていたこと。


 おとうさんは元々、温泉おんせん旅館りょかん従業員じゅうぎょういんであったのだが、婿養子むこようしとして旅館オーナーの一人娘であったおかあさんと結婚けっこんしたこと。


 ほか温泉おんせん旅館りょかん従業員じゅうぎょういんの中には、とても日本舞踊にほんぶよう上手うまかんざし似合にあ清雅せいが仲居なかいさんと、そのおとうとさんである刃物はものあつかいにけた凄腕すごうで板前いたまえさんがいたこと、などである。


 そんな先ほどまでわしていた会話を思い返しながら俺はソファーを立ち、台所におもむく。


 台所には秋葉原あきはばら家電店かでんてんで購入した、3Dプリンターでプリントされたような滑らかな曲線でデザインされたコーヒーメーカーが設置されている。

 

 そして、自分用のマグカップをコーヒーメーカーの定位置にセットしてボタンを押し、ブラックコーヒーをその中にしたたとさせる。


 ブラックコーヒーがマグカップの中にくろせんとなってしたたちている最中さなか俺は、心中でかなでさんが先ほどわずかな微笑ほほえがおと共につたえてくれた言葉を思い出していた。




 「じつはわたし、おかあさんのおはなしによると……かなりのおとうさんっだってわれているんですよ……」




――かなでさんがおとうさんっ、か。


――かなでさんのおとうさんって、どんな人なんだろーな。



 去年の春に中学を卒業したばかりでまだ十五歳の美少女であるかなでさんを住み込みの家政婦メイドさんとしてやとわせてもらうにあたっては、俺は顧問こもん弁護士べんごしである島津しまづさんに仕事として依頼いらいをして、法律ほうりつ抵触ていしょくしないようにかなでさんのご両親りょうしん同意どういてきっちりと書類を調ととのえてもらった。



 そしてしかるべき許可きょかくに機関きかんからしっかりと得たのであるが、実は大体のところは島津しまづさんにまかせっきりだったので、俺はいまだにかなでさんのご両親りょうしん名前なまえさえらない。



 そこで俺は再び、西洋せいようのフォルムと東洋とうようじったような、西洋せいよう人形にんぎょうのごときかなでさんのととのった顔立かおだちをこころなかおもかえす。



――ま、おそらくはお母さんがいかにもじゅん日本人にほんじんっぽい感じで。


――お父さんが、いかにも西洋せいよう出身しゅっしん白人はくじんっぽい人なんだろーな。


――今の時代、ハーフとかクォーターなんてべつめずらしくねーからな。



 かなでさんのさきほどわした話題わだいなかでも、それどころか出会であってからずっといままでも、彼女かのじょくちからは西洋せいようのどのくにはいっているかという事について、言及げんきゅうされることはなかった。


――やっぱ、デリケートな問題なのかな。


――かなでさんが話してくれるまで、少なくとも俺はいたりしないでおかねーとな。


 そんなことを考えつつ、ブラックコーヒーでたされたマグカップを持った俺はソファーへとおもむこうとする。


――それにしても。


――まだまだ、ミステリアスな女性なんだよな、かなでさん。


――もしかしたら、俺の気持ちにもとっくに気付いてたりして。


 大広間おおひろまをソファーへと向かっていると、上階じょうかいからリビングへとつながる階段の上から降りてくるスリッパ音が聞こえてきた。


 俺が立ち止まってそちらの方向を見上げると、パジャマ姿の両脇りょうわきに長いツインテールがみらしたいもうと美登里みどりがそこにいて、階段かいだんりているところであった。


 俺の視線しせん気付きづいたいもうと階段かいだん途中とちゅうで立ち止まり、手すりの向こうから俺に声をかける。


「……おはよう、お兄ちゃん」


 そんな寝ぼけまなこっぽい雰囲気ふんいきふくんだ表情から発した妹の朝の挨拶あいさつに、俺は軽く見上げつつ表情をゆるめて返す。


「ああ、おはよう美登里みどり、少しおそいぞ。昨日きのう夜遅よるおそくまでゲームしてたのか?」


「……ううん、昨日きのうの夜はネットでアニメ一挙いっきょ放送ほうそうてた」


 これから冬休みが明けても、おそらくはまだ引きこもったままでいるであろういもうとは、ねむたそうにそんなことを言いつつ、再び階段を降りはじめる。


 コーヒーの入ったマグカップを持ちつつソファーに向かっていた俺は、きびすをかえして台所に戻りつつ、降りてきた妹の美登里みどりに告げる。


かなでさんが七草粥ななくさがゆつくってくれたからな、今温めてやるよ」


 そんな俺の言葉を聞いて、階段かいだんを降りきった美登里みどりは無言のままこくりとうなずき、スリッパをいたままリビングを出て洗面所せんめんじょかっていったようだ。


 ブラックコーヒーの入ったマグカップを台所に置いて、かなでさんが作ってくれた七草粥ななくさがゆの入ったおなべの乗っかっているIHアイエイチ調理器ちょうりき電源でんげんを入れる。


 そして、おなべの中に用意されていた七草粥ななくさがゆ電磁でんじ調理ちょうりヒーターにて弱火よわび程度ていどにかけ、おたまでゆっくりとそのなべの中身がげ付かないようにかき混ぜながら、頭の中で考える。


――もしじつは、かなでさんがとっくに俺の気持ちに気付いているんだとしたら。


――あるいは、俺が告白こくはくしてくるのをずっとっててくれてたりして。


――いやいや、自分じぶん勝手かって願望がんぼう安易あんいにそうかんがえるのはあぶねーな。


――ちょっとでも異性いせいとしてさそったら、そくセクハラになっちまうからな。


――用心ようじん用心ようじんと。


 そんな、男子だんし高校生こうこうせいがついいだきがちな夢物語ゆめものがたりのようなことを考えながら、はかなげな美少女であるかなでさんが作ってくれた七草粥ななくさがゆを、怠惰たいだな妹のためにかき混ぜつつ温める。


――もうすぐ冬休みが終わり、三学期が始まる。


――明日あした成人式せいじんしきねえちゃん、ポカやらかさなきゃいいけど。


 俺はそのとき、一ヶ月と数週間後に直面ちょくめんする生命せいめい危機ききも知らずに、ただただ長閑のどか安穏あんのんとそんな事を考えていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る