第48節 クラウド・アトラス



 12月の29日。


 東京とうきょうのお台場にある国際こくさい展示場てんじじょうで毎年二回開かれるオタクの祭典さいてん、一日目。


 年末に三日続けて開催されるというコミマ、別名『冬コミ』の初日である。


 ちなみに今回の正式名称は『コミックマーケティア105』であるとのことらしい。


 俺と美登里みどり兄妹きょうだいは今、冬の海から吹いてくる海風うみかぜの下で、駐車場っぽい東京湾とうきょうわんの海近くの場所にて二人して待機列に並んで座っていた。


 見渡す限り、人、人、人が並んで座っている。


 視界しかいに入るだけでも、ざっと数万人がいるかもしれない。


 あからさまに黒い髪と黒い服が多い男の人たちと女の人たちが、規律きりつだった軍隊ぐんたいであるかのように規則きそく正しく整列し、群れをなして並んでいる。


 あと、眼鏡率めがねりつが異様に高い。


 俺はもちろん美登里みどりもまた、このようなオタクの祭典さいてんに来るのは生まれて初めてであった。


 何故なぜこんなところに来ているのかというと、引きこもっているオタクな妹を外に連れ出す口実こうじつのために、色々とファングッズを買ってやると約束したからだ。


 上半身にブラウンのコートを着て襟元えりもとに青いマフラーを巻いた俺は今、デニムジーンズを穿いている下半身をアスファルトの地面につけて、胡坐あぐらをかいている。


 隣にはベージュ色の子供向けコートを着た、強化プラスチックをイスにすることができるキャリーバッグにちゃっかりと座って、有線イヤホンを両耳に取り付けてブルーグリーン色の携帯ゲーム機から音を出さないまま遊んでいる、ツインテール姿の妹の美登里みどりがいる。


 ただ、なんかいつもとリボンが違う。


 ツインテールを結っている二つのリボンは、宙に浮いたような四角い赤と黒のリボンになっている。


 そして、俺と美登里みどりの左手首にはそれぞれ、一般参加者が入場するために必要だという緑色をしたプラスチック製の細いリストバンドが付けられている。


 わりと朝早く家を出たつもりなのだが、大宮おおみや駅から電車をいで、かなり人で一杯だった、りんかいせんの電車を降りてから国際こくさい展示場てんじじょう駅に着いたときには、その電車内とは比べ物にならないほどの人の多さに呆然ぼうぜんとした。


 お台場の駅を出てから人の流れの中を歩いてる最中で、キャリーバッグを転がしながら隣を歩いていた妹は、いくつもの三角形が逆さまになったようなシルエットの国際こくさい展示場てんじじょうを上方にあおて、「……聖地せいち! 聖地せいち!」と繰り返し叫びつつなんとなくハイテンションになっていた。


 そして俺と妹は、二人して備え付けられていた看板かんばん指示しじする矢印どおりに足を進め、この海沿うみぞいにある駐車場の人が大勢並んだ待機列たいきれつにたどりついたのであった。



 スマートフォンの時計を見ると、午前10時少し前のようであった。


 おそらく数万人は並んでいるであろう待機列たいきれつの上空は雲でおおわれ、鉛色なまりいろの光が俺たちの周囲を照らしている。


美登里みどり


 大きめのリュックサックを背負った俺は、イスになるキャリーバッグに座ってゲームを楽しんでいる美登里みどりに問いかける。


 すぐ隣にいる美登里みどりは返事をしない。


 俺は、携帯ゲーム機を持っている美登里みどり眼前がんぜんで手を振る。


美登里みどりぃー」


 すると、美登里みどりが少しばかり目をしばたかせてなんらかのボタン操作をしてゲームを止めたような様子を見せ、ゲーム機と線で繋がったイヤホンを片方耳から取り外す。


「……ああ、どうしたの? お兄ちゃん?」


 そんな妹の声に、俺は返す。


開始かいし時刻じこくって確か午前10時だったよな? まったくもって動く気配ないんだけど本当に合ってるのか?」

「……うーん、わたしも実際に来るのは初めてだからなんともいえないけど、確かにそろそろ会場かいじょうひらく時間のはず」


 そんなやり取りをしつつ、俺は数万人はいるであろう待機列たいきれつの人並みを見渡す。


「それにしても、これ全部オタクの人たちか? こんなに大勢おおぜい、どっから出て来たんだろうな?」

「……そりゃ、日本全国にほんぜんこく津々浦々つつうらうらから集まって来てるからね。きた北海道ほっかいどうからみなみ沖縄おきなわまで。台湾たいわん韓国かんこく中国本土ちゅうごくほんど東南とうなんアジアとかの海外からもけっこう来てるって」


すごいもんだな……こんなに大勢いるのに、ほとんど列を乱しもせずに整然せいぜんと並んでいるなんてな」


 そんなことを言いつつ、俺は感嘆かんたんの息を吐き出す。


 すると、美登里みどりがちょっとだけドヤ顔になって得意げな声を出す。


「……オタクって、一部だけ頭おかしいのいるけど、大抵は人畜じんちく無害むがいだからね。こーいうときの協調きょうちょうせい規律きりつただしさは、量産型りょうさんがた連邦軍れんぽうぐんとのたたかいにいど公国軍こうこくぐんにもけたりはしない」


たとえがよくわかんねーけど……オタクって世間せけん認知にんちされているイメージとけっこう違うんだな」


「……そりゃそうだよ、オタクだってただの人だもの。よく犯罪者はんざいしゃ予備軍よびぐんだとか、現代げんだい日本にほん恥部ちぶだとか言われているけど、わたしたちは好きなものを好きだと思って、その思いのたけを行動で示しているだけ」


 そんなことを言う妹の美登里みどりに、俺は前々から気になっていたことを尋ねる。


「そもそも美登里みどりって、何でオタクになったんだっけか? オタクをやめようとか考えたことはないのか?」


「……そんなの考えるだけ無駄むだだよ、無駄むだわたしたちは好きな作品に出会って、自分で詳しく調べるようになって、その世界観にどっぷりとはまって、キャラクターを熱狂的ねっきょうてきに好きになって……気付いたらオタクになってるの。オタクなんて、なろうと思ってなるようなもんじゃないよ。だから、やめようとしてやめることも決してできない」


――なんとなく美登里みどり饒舌じょうぜつになっているような気がするが、おそらくはコミマに来てテンションが上がっているからであろう。


 そんなことを考えていると、どこか遠くからか拍手はくしゅおとひびいてきた。


 パチパチパチパチパチパチ

 パチパチパチパチパチパチ


 くもぞらにぶひかりで照らされた駐車場が、いきなりの数万人規模の拍手の音で呑み込まれる。


 周囲にいた人たちの中には、わざわざ立ち上がって拍手をする人も現れ始める。


美登里みどり? これって……」


 俺が改めて美登里みどりの方を見ると、美登里みどりもまた興奮した様子で簡易かんいイスから立ち上がり、その両手で拍手を打ち鳴らしていた。


 そしてパチパチと拍手をしつつ、うきうきとしたほがらかな口調で俺に告げる。


「……始まった! コミマ105、始まった! この時はみんなで拍手をするのが礼儀マナーなんだよ! お兄ちゃん!」


 妹がキャリーバッグのイスから立ち上がり、とても嬉しそうにパチパチと手を打ち鳴らすので、俺も一応マナーならばと座りながらも拍手をする。


 しばらくして拍手が止むと、立ち上がっていた人たちがまた座り始める。


「あれ? 移動いどうしないのか?」


 俺が胡坐あぐらで座ったままそう尋ねると、再びイスに座った妹の美登里みどりが返してくる。


「……前情報まえじょうほうによると、まだまだ会場かいじょうには入れないんだって。あと一時間くらい待機列たいきれつを少し進んでまた休む、少し進んでまた休む、を繰り返す……らしい」


「一時間!? マジか……ここにいる人たちって、何がそこまでおのれうごかすんだろうな」

「……そりゃー、決まってる。作品へのあいだよあい。あとなんとしてでも欲しいものを手に入れてやろうっていう執念しゅうねん


 年末の寒い時期だというのにそれほどこごえないのは、熱気ねっきにまとった人がまわりにいくらでもいるからだろうか。


――今は冬だからいいけど、夏なんか地獄じごくかもな。


――クラスの『オタク男子』や『オタク女子』のグループも来てるかもな。


 そんなことを考えた俺は、妹に言葉を渡す。


「俺のクラスにもオタクグループいるんだけどさ……なんっつーか、あんまり立ち位置がぱっとしないっていうかな……それほどいい印象じゃないんだ」


 すると妹が即座に返す。


「……そんなのわかってるよ。オタクは昔っから決まりきって学校での身分は一番下のほう、カースト下位の存在だもの」


――これは、美登里みどりが一番よくわかっていることだったか。


 そんなことを思いつつ、少しだけ表情を暗くした妹に返す。


「でも、やめられないんだな。それだけ好きだってことだ、漫画とかアニメとかが」


「……うん、やめられない。いくらクラスでも、学校でも、それともこの社会や世界全てにおいてでも、いくらさげすまれても、しいたげられても、好きなものを好きだとうたわたしたちのこえは止められない。でも、もしかしたら……」


――もしかしたら?


 美登里みどりは口ごもる。そして、しばしの静寂せいじゃくあと小鳥ことり小声こごえさえずるかのようにげる。


「……もしかしたら、オタクがクラスで一目いちもく置かれる世界線せかいせんも……あったかもしれない」


 その聞きなれない単語に、俺は返す。


世界線せかいせんってなんだ?」

「……パラレルワールドと思ってくれたらいい」


――パラレルワールドか。


――「もしあのとき、こうなってたらどんな世界だったんだろうな」っていう奴だな。


 俺は隣にいる美登里みどりに伝える。


「オタクが、クラスで一目置かれているパラレルワールドか……悪いけど、俺にはちょっと想像も付かないな」

「……うん、その世界ではね、オタク文化がきっちりと日本が世界に誇れる文化だと広く認識にんしきされてて……いろんな企業や自治体……国までもがアニメキャラとタイアップして、世間に向けて色々な宣伝せんでん広報こうほう活動かつどうおこなってて……国際的なイベントに至るまで、アニメキャラやゲームキャラが表立って広告こうこくに使われているの」


 そんな、とても実現じつげんしそうにない妹の妄想もうそうに、俺は少しいたたまれない気持ちになった。


――オタク文化が、日本のほこれる文化として世間せけんに認められている世界か。


――そりゃまあ、美登里みどりにとってはゆめのような世界だろうな。


――全然ぜんぜん現実げんじつとしてはありえそうにねーけど。


 俺はそんなことを考えつつ、美登里みどりに尋ねる。


「でも、どんなことがあったらそんなことになってたんだろうな」


 すると、美登里みどりがぼそっと一言。


「…… VOCAROIDヴォーカロイド


 今、俺たちの間を一陣いちじんかぜがすぅっと通り抜けた。


「え? 何だそれ?」


「……わたしが好きな動画サイト、『ニッコリ動画』のマイナーなジャンルなんだけどね。歌詞かし音符おんぷを入力したら歌声うたごえ合成ごうせいしてくれるソフトウェアで VOCAROIDヴォーカロイド ってのがあって……色々なアマチュアの人たちが自作の歌をソフトに歌わせて投稿したりしてるの」


 そんな妹の言葉に、俺は気の抜けた感じで返す。


「へー、最近のソフトは歌まで歌ってくれんだな」

「……最近のでもないよ、二十年くらい前からある古い技術……でも、もしかしたら……」


 妹はそこで言葉を終わらせる。


 キャリーバッグのイスに座ったまま下を向いて黙りこくってしまった妹に、俺は兄らしく柔和にゅうわいかける。


「もしかしたら、どうした?」


 すると妹はゆっくりと躊躇ためらいがちに、か細い声を発する。


「……もしかしたら、そのソフトに……アニメキャラっぽい可愛かわいい女の子のイラストが付いてたら……ほんの少しだけ未来みらいが変わってたかもしれない」


 そこまで言うと、妹はまた口ごもってしまった。


 俺は頭の中で考える。


――普通に考えたら、そんなことぐらいで世界は変わったりなんかしないだろう。


――ただ、歌声うたごえ合成ごうせいしてくれるソフトウェアに、アニメキャラの絵がついたぐらいなんかでな。


 だが俺は、兄として美登里みどり妄想もうそうをできるだけ肯定こうていしてやることにした。


「そんな風にオタクが社会において認められる世の中になってたら、よかったのにな」


 俺がそんなことを伝えると、美登里みどりはゆっくりとうなずく。


「……うん、そんな世界線せかいせん未来みらいだったらわたしも、普通に学校に通えてたと思う」


「その……ヴォーカロイド? にアニメキャラのイラストが付いてたら、か。まあ、ありえない話でもないだろうな。ちょうばたくと、地球ちきゅううらあらしこされるとかっていう例え話もあるくらいだしな。でも、なんでそんなことを思いついたんだ?」


 俺がそこまで言うと、美登里みどりは俺の目をまっすぐに見てその口を開く。


「……これから話すことは、内緒ないしょにして欲しいんだけど……誰にも言わない?」


「ああ、美登里みどり秘密ひみつにして欲しいことだったら、お兄ちゃん誰にも言わないぞ」


「……ホント? ホントにホント? おねえちゃんにも、かなでちゃんにも、さちばあちゃんにも言わない? 友達にも言っちゃダメだよ?」


「ああ、誰にも言わないぞ。約束する」


 俺が本心からそう言うと、美登里みどりは再び俺から視線を外してうつむき、言葉をつむぎだす。


「……最近ね、この前の誕生日以来なんだけど……同じようなゆめをよく見るの」


ゆめ?」


 俺が漫然まんぜんと返すと、美登里みどりは言葉を続ける。


「……そう、ゆめわたしゆめの中ではアイドルになってて……世界中を飛び回ってライブ会場をいつも観客かんきゃく満員まんいんにしているの」


 そんな中学生らしい荒唐無稽こうとうむけいな妹のゆめに、俺は何も言わず話を聞いている。


「……ライブ会場には緑色のペンライトを持ったファンが大勢いてね……わたしはステージでうたっておどって、観客かんきゃく喝采かっさい一身いっしんに受けて……それも、わたしだけじゃなくて誕生日の日に一緒に写真しゃしんうつった六人ろくにん光輝ひかりかがやくステージをめぐって歌声うたごえひびかせているの」


 俺は返す。


六人ろくにん? ってことは……」


「……わたしとお兄ちゃんとお姉ちゃん、それから可憐かれんお姉ちゃんと、お兄ちゃんの友達の委員長いいんちょうさんとケーキ屋の……みんなそれぞれ、現実世界の姿とは少し違ってて……一番違うのは可憐かれんお姉ちゃんだった。中学生くらいの金髪の男の子になってた」


可憐かれんが金髪の男の子か……まあ、美登里みどりにとってもあいつが男だと思ってた時期の方が長かったからな」


 俺がそんな返しをすると、美登里みどりこたえる。


「……うん、多分たぶん深層心理しんそうしんりあらわれてるんだと思う。あと、オルガンをいてくれた委員長いいんちょうさんは何故なぜか髪の毛がピンク色で女王様っぽい格好してて……ケーキ屋のわたしより背が低くなってて頭に大きなリボンを付けていて……明日香あすかお姉ちゃんは筋肉質じゃなくて女性っぽい体つきになっててかしこそうだった」


 そんな美登里みどりの言葉の内容に、俺は心の中で苦笑いをする。


――姉ちゃんが、女性っぽい体つきでかしこそう、か。


――そりゃあ、まぎれもなく現実離れしたパラレルワールドだな。


 俺は返す。


「で、俺はどんな感じだったんだよ?」


 そう尋ねると、妹はあらためてかおを上げて、視線しせんちゅうかばせる。


「……あんまし、変わんなかったかな。かみあおいだけで」


「あー、そうなんだ」


 俺が簡単に返すと、妹が言葉を続ける。


「……ま、ちょっとバカっぽかったけど。水着なのにマフラーつけてたし」


「水着にマフラーか……そりゃあ、うたが余地よちなくちょっと足りない人だな」


――いくら夏にもマフラーをつけると宣言したとはいえ、水着にマフラーをつけるほど滑稽こっけいなことはしない。


 俺はそんなことを考えつつ、美登里みどりに尋ねる。


「そんな美登里みどりゆめが、ヴォーカロイドとどうつながるんだ?」


「……わたし上手うまくは言えないけど……その夢の中の世界では VOCAROIDヴォーカロイド には可愛かわいいアニメチックなキャライラストが付いていて……だからこそ、ゆめなかわたしはアイドルになれてそのステージに立ててたって感じだったの」


 そんな脈絡みゃくらくのない論理ろんり展開てんかいする妹の表現に、俺は頭の中にハテナマークが浮かぶ。


「そんなの、関係あるのか?」


「……わかんないよ、本当にわかんない。ゆめなかだから、因果いんが関係かんけいとかも滅茶めちゃ苦茶くちゃだったのかもしれない……でも、そのゆめの中では……わたしがアイドルになってたそのゆめの中の世界では……少なくともオタクはどういうわけかそんなにネガティブなイメージじゃなかった」


 そんな妹の言葉に、アスファルトの地べたに座ったままの俺は大きく息を吐き出す。


 そして、柔らかく言葉を伝える。


「もしかしたら、その世界では美登里みどり本物ほんもの天使てんしだったのかもな」


 すると、美登里みどりが俺に顔を向けて目をぱちくりさせる。


「……天使てんし? このわたしが? お兄ちゃんが大金持ちってだけで、誰のためにも何にも役に立ってない、ニート予備軍よびぐんで友達のいないこのわたしが?」


「ああ、少なくとも、俺にとっては美登里みどりはずっとずっと大切な存在だぞ。お兄ちゃんはな、今日だって美登里みどりが外に出かけてくれたってだけで凄く嬉しいんだ」


――少なくとも、俺は。


――美登里みどりがこの世にいたからこそ、今まで正気をたもつことができた。


――俺が一学期の間、クラスで邪険じゃけんあつかわれてた時でも。


――大金持ちになってから、みんなが手のひらを返してちやほやし始めてからも。


――俺が人間にんげんきらいにならずにんだのは。


――大切な大切な妹である美登里みどりに、情けない兄の背中を見せたくなかったからだ。


 そんなことを考えている俺の隣で、美登里みどりはキャリーバッグのイスに座ったまま反対側の方角を向いたので、顔が見えなくなってしまった。


 そして、かすかな妹のつぶやごえが聞こえる。


「……お兄ちゃん、やっぱずるい、ずるいよ……なんでなんだろ?」


「何がだ?」


 俺のたずごえに、あさっての方角を向いた美登里みどりは何もこたえてはくれなかった。


 そして、周囲がざわめき座っていた人たちの群れが次々と立ち上がり始める。


 どうやら列が移動する、ということなのだろう。


 胡坐あぐらをかいていた俺は地面から立ち上がり、これから一時間近くかかるという入場のために、背中にあるリュックサックを背負いなおす。


 美登里みどりも立ち上がり、キャリーカートの強化プラスチックをたたみなおして移動の準備をする。


 いざゆっくりと歩き始めようとすると、隣にいる美登里みどりが俺に手を伸ばしてきた。


 そして妹は俺に顔を見せようとしないまま、少しだけ恥ずかしそうな声で告げる。


「……はぐれないよう手、つないどいて」


 そんなことを言う妹の手を、俺は息を吐き出しながらしっかりと握る。


「わかったわかった、離すなよ。こんなとこではぐれても見つける自信ねーぞ」

「……ま、シスコンのお兄ちゃんにとっては御褒美ごほうびなんだろうけど」


「だからシスコンじゃねーっつーの」

 そんなことを強調した俺は、顔をうつむかせたままの妹と手を繋いで一緒に待機列を歩く。


 妹はさながら、かよわ小鳥ことりえだつかまるかのようにしっかりと俺の手を握り、離そうとしなかった。


 空を見上げると、鉛色なまりいろそら雲間くもまからひかりすじがいくつかれていた。


 その空をおおくもはまるで、群衆ぐんしゅうゆめ世界せかいを形作る、まぼろし大地だいちであるかのようであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る