第44節 パシフィック・リム




 俺が猫カフェで佐久間さくま先生のアドバイスを聞いてから、既に十日以上が経過していた。


 結局あのあと、俺はとあるひとにおねがいして無事ぶじ短期間たんきかんのアルバイト先を見つけることができた。


 今は十二月の中旬にある木曜日のよいくち防寒用ぼうかんようにブラウン色のカシミア上着うわぎコートを羽織はおった私服姿しふくすがたの俺は、高層タワーマンション最上階さいじょうかいにあるへと帰宅し玄関扉を開けていた。


 するといつものように、クラシック調のメイド服を着たみおがみかなでさんが、仕事しごとつかれたご主人様しゅじんさま気遣きづかうかのように出迎でむかえてくれる。


啓太郎けいたろうさん……おかえりなさいませ……今日きょうもお仕事しごとつかさまでした……」

「ああ、ただいま」


 このやりとりも、もうれたものであった。


 玄関で靴を脱ぎ、かなでさんと一緒に廊下ろうかけるさいに、俺はいかける。


「今日の晩御飯ばんごはんは何?」

「はい……今日はいくらどんと……それからのおものです……」


 そんなやりりをわしながら、俺は廊下ろうかを抜けて大広間へと通じる引き戸を開ける。


 長いツインテールをった妹の美登里みどりが、不満げな顔でダイニングテーブルに備え付けられた椅子に座っていた。


「……もー、おにいちゃんったらおそいー。今日はおねえちゃん、友達ともだち三人さんにんみに行くからおそくなるっていってたじゃない」

「俺も色々いろいろとあるんだよ、バイトしてるんだから」


 そんな簡単かんたんかえしをしながら上着を脱ぐと、後ろで待機たいきしていたかなでさんがすぐさまその上着を手に取ってくれる。


「……バイトなんか、する必要ないくせに」


 そんな面白おもしろくなさそうな妹の声を聞きながら、俺は何も食事しょくじっていないダイニングテーブルに近づき、美登里みどりとなり上座かみざにある椅子いすに座る。


 学校にも行かず引きこもっていて、おなどしの人間同士での人付ひとづいをまともにこなしていないいもうとのため、美登里みどりが夕食を取るさいには俺か姉ちゃんが一緒にいることが条件じょうけんだということにしている。


 俺のカシミアコートを木製のハンガーにかけてクローゼットに入れてくれたかなでさんがパタパタとスリッパの音を鳴らして台所に行くと、まもなくおぼんに二人分の丼飯どんぶりめしとおものせて俺たちのもとにやってきた。


 そして、家政婦メイドであるかなでさんが甲斐甲斐かいがいしく俺と美登里みどり眼前がんぜんに、ふたじられた漆塗うるしぬりのおわんに入った御馳走ごちそうはしを置いてくれる。


 妹がうきうきとした感じでふたひらうれしそうな声を出す。


「……おお! いくらどん! べたかった~」


 美登里みどりがいきなりはしきのはしを手に取ったので、俺は注意ちゅういうながす。


「こら美登里みどり。まず、いただきますだろ」


 俺がそう言うと、美登里みどりはしいてしぶしぶその両手を合わせる。


 そして、二人して声を合わせる。


「……「いただきます」」


 その食前しょくぜん挨拶あいさつを言うが早いか美登里みどりはしを取り、きらきらと橙色だいだいいろにきらめくイクラがこれでもかというくらいたっぷりったその丼飯どんぶりめしを、子供らしい仕草しぐさ懸命けんめいむ。


「……げほっ!! ごほっ!!」


 美登里みどりんだ。欲張よくばるからだ。


 すぐさま、近くに待機たいきしていたかなでさんが美登里みどりの口元をティッシュでやさしくいてくれる。そして伝える。


美登里みどり嬢様じょうさま……レンゲを持ってきましょうか……? おはしだと食べにくいかもしれませんから……」

「……うん、おねがい」


 そんな妹の要求に、かなでさんは台所に向かう。


 かなでさんが妹のためにレンゲを取りに行ってくれている間に、俺は美登里みどりいかける。


美登里みどり、たまにはどっかにものかけようとかおもわないのか?」


 すると、美登里みどり興味きょうみのない素振そぶりで無愛想ぶあいそうかえす。


「……別に。いまのところ通販つうはん全部ぜんぶ事足ことたりる……かな」


 そんな何気なにげないやり取りをしていると、かなでさんが台所だいどころからレンゲを二本にほんってもどってきた。


 そして、美登里みどりと俺にかるこえをかけて手渡てわたしてくれる。


 俺がかなでさんに軽くお礼を言ってレンゲを受け取ると、すでにレンゲを手渡してもらっていた妹は、そのイクラのった豪勢ごうせい丼飯どんぶりめしを音を出してむようにべていた。


 ふたけたイクラどんをほぼ無音むおんすくってべていた俺は、妹のそのさわがしい無作法ぶさほう食事しょくじ風景ふうけいこころなかあきてる。


――かなでさんには一応いちおう美登里みどり嬢様じょうさまってばれてるけど。


――行儀ぎょうぎわるいってうか、マナーが全然ぜんぜんなっちゃいない。


――やっぱり、このままじゃいけないな。


――なんとか口実こうじつを作って、いもうとをどこかそとしていかないと。


 俺がそんなことを考えていると、口周りにご飯粒はんつぶとイクラを複数ふくすう付けたいもうとが、何かを思い出したかのように食事を止める。


 そして、俺の方を見ないまま中空ちゅうくう視線しせんさだめ、漠然ばくぜんとした態度たいどで俺に告げる。


「……あ、あった。通販つうはんじゃまない、そと直接ちょくせついにかなきゃいけないイベント」


 そんな妹のいきなりの発言に、俺はすこしだけ過剰かじょう反応はんのうする。


「どこだ? お兄ちゃんがれてってやるぞ!?」


 すると、妹が横を向いて俺のぐに見る。


「……ホント? ホントにお兄ちゃん、わたしをそこにれてってくれるの?」

「ああ、とんでもないところじゃなければおにいちゃん、美登里みどりをどこにでもれてってやるぞ」


――つきとかは無理むりだけど。


 俺が妹の要望ようぼうこたえようとすると、美登里みどりは俺から視線しせんはずしてうつむいてからぼそっとしたこえす。


「……コミマ」

「え? コミマ?」


 反射的はんしゃてきかえした俺に、いもうとがくぐもったこえこたえる。


「……そう、年末ねんまつのコミマ。コミックマーケティアっていう即売会そくばいかい。あそこにわたしを連れてって欲しい」

「コミマって……確か、お台場だいばで開かれるオタクのひとたちのねん二回にかいのおまつりだったっけか? そういやあれっていったいどんなものをってんだ?」


 オタク事情じじょうにあまりくわしくない俺がそうたずねると、いもうとかえす。


「……ま、基本的きほんてきには同人誌どうじんしとか……キャラクターグッズとか……あとはまあ……色々いろいろ成人せいじんけだけじゃなくてとにかく色々いろいろ


 そのいもうとこえに、俺は少し考える。


――オタクの祭典さいてんか。


――そういや、前々から美登里みどり興味きょうみしめしていたっけか。


――エロい同人誌どうじんしとかをってるって、すぐるからいたことあるな。


――具体的ぐたいてきにはほかにどんなコトしてるのか全然知らねーけど。


――せっかく妹が外に出かけたいんなら、期待きたいこたえてやるか。


「ああ、いいぞ。れてってやる」


 俺がそうつたえると、妹がかがやかせたを俺にける。


「……ホント!? 色々いろいろってくれる? お兄ちゃん!?」

「ま、中学生ちゅうがくせいでもえるような健全けんぜんなやつなら、ある程度ていどならな」


「……ありがと、お兄ちゃん」

「その代わり、これからはなるべく行儀ぎょうぎ良く食べろよ。なんせ外に出かけるんだからな」


「……うん、わかった。約束やくそくだよ、お兄ちゃん」

 いもうとほほめつつそんなことを言ってかるうなずくと、美登里みどりかなでさんからティッシュを受け取って今度はしっかりと自分の手で口周くちまわりをく。


 そして、妹は再びイクラ丼を食べ始める。それほど大きな音は立てていない。


 そんな妹の様子を見ながら、俺は安心してお吸い物に口をつける。


――ま、一歩一歩だな。


――俺は当然、これからも高校に通うつもりだし。


――美登里みどりが三年生になる来年の四月まで、少しずつ外に連れ出していけばいいか。


 そんなことを考えつつ俺は、先ほどまでバイト先で一緒に働いていた、スポーツが得意とくいあかるい髪色かみいろ元気げんき新庄しんじょう凜奈りんなさんの言葉を思い出していた。



 ◇



「それにしてもさーっ!! すっごいよねー!! 太郎たろうくんって!! 尊敬そんけいしちゃうなーっ!!」


 夕方ゆうがた閉店へいてん時刻じこくむかえた洋菓子店ようがしてん、パティスリー・ソレイユの店内ショーウィンドーガラスをいていたコックコート姿の俺に、少女しょうじょチックなウェイトレス制服せいふくたエプロン姿すがた新庄しんじょうさんが後ろから声をかけてきた。


 俺はここのところ、大宮駅おおみやえき近くの商店街しょうてんがいにあるケーキとパンを扱う洋菓子店ようがしてん、パティスリー・ソレイユにて短期のアルバイトをさせてもらっていたのである。


 洋菓子店ようがしてんはケーキをあつかうので、当然のことながらクリスマス前のこの十二月の時期じきは人手が足りないほどのいそがしさになる。


 俺が新庄しんじょうさんの父親、ケーキ屋のご主人さんである礼於れおさんにお願いしてみたところ、クリスマスを少し過ぎるまでの間だけ短期たんきのアルバイトをさせてもらうことになったのである。


 エプロン姿でモップをかけていた新庄しんじょうさんの明るい声に、化学かがくぞうきんでショーウィンドーのガラスをいていた俺はいてけた返事へんじをする。


「そう?」


「そりゃーそーだよーっ!! だって三百億だよ、三百億っ!! 日本にほんきてて油田ゆでんてたよーな人が、普通ふつーアルバイトのような仕事しごとすると思うっ!?」


油田ゆでん……ねえ? そーいうことになんのかな?」


「そーだよーっ!! ワタシなんか、三百億円当たったらもう絶対ぜったいはたらかないなーっ!! お店の借金ローン返してパパとママと一緒に世界中を旅行するっ!!」


 そんな新庄しんじょうさんの明るいうきうきとした声に、どことなく冷めた感じで俺が返す。


「俺の両親なんか、いの一番いちばんに会社辞めて家のローン返して日本一周の旅に出かけちまったよ。新庄しんじょうさんは旅行に行くとしたらどういう所に行ってみたい?」


「なになにっ!? 太郎たろうくんもしかしてれてってくれるのっ!?」

「いや、それは……とりあえず希望きぼういてみただけ」


 俺がそう返すと、新庄しんじょうさんはゆびあごに当てて視線を天井に移す。


「えーっとねーっ! やっぱりまず一度いちど行ってみたいのは、パパの生まれ故郷のフランスだねーっ!! それからヨーロッパ中を旅してーっ!! 南の島を借り切ったりもしてみたいなーっ!!」


「え? フランス行ったこと……ないんだ?」


「んーっとねーっ!! ワタシのパパ、ワタシがママのおなかなかにいるときに日本にほん帰化きかしてから、ずーっと日本にほんにいるんだって!!」


「あー……そうなんだ、随分ずいぶんと家族思いのお父さんなんだね」


――こちらにも、何やらった複雑ふくざつ事情じじょうがありそうだ。


 俺がそんな難しいことを考えていることなどお構いなしに、新庄しんじょうさんが明るい声を発する。


「そーでしょーっ!! パパったら、ママとワタシが大好きなのっ!!」


 そんな新庄しんじょうさんの太陽たいようのような明るい笑顔を見て、俺は以前に感じたきりれたような感覚かんかくを思い出す。


 そこで俺は理解する。


――ああ、そうか。


――このお店の名前、『パティスリー・ソレイユ』の太陽ソレイユってのは。


――礼於れおさんと亜理紗ありささんの、たった一人ひとりしかいない大切たいせつむすめのことなのか。


 そんなことを思いつつなおった俺は、どことなくゆるめた表情ひょうじょうを見せないまま、ふたた仕事しごととしてショーウィンドーのガラスをはじめた。



 ◇



 そんなことを思い返しつつ夕飯を食べ終えて自分の部屋に戻った俺は、リクライニングチェアーに身体を落ち着け、ひとり考えていた。


 かなでさんは今頃、洗い物などの家政婦メイドさんとしての仕事にいそしんでいることだろう。


 そんなおり百合ゆりさんが俺に言った言葉が思い起こされる。


――かねなんて、所詮しょせんうばいじゃねーか――


――おかねうばい、か。


 だれかがとくをすれば、どこかでかならだれかがそんをする。


 それは、かつての俺にとっては至極しごくもっともな、納得なっとくがいく内容ないようであった。


 しかし、その仮定かていただしいとすると疑問ぎもんこる。


――だとすれば、かなでさんは俺からおかねうばっていることになるのだろうか?


 かなでさんは、俺たち家族かぞくいえ毎日まいにち毎日まいにち本当によくはたらいてくれている。


 本当は労働ろうどう基準法きじゅんほうもとづいて年少者ねんしょうしゃ時間外じかんがい労働ろうどうは禁止されているし、一週間に少なくとも一日の休日を設定しなければいけないのだが、かなでさんはその時間外や休日さえも俺たちのためにささげてはたらいてくれている。


 かなでさんいわく「これはわたしの、みずからの意思いしもとづくボランティアですから……お気になさらないでください……」とのことだ。


 今のところ俺は、期間きかん契約けいやく社員しゃいんであるかなでさんに関しては毎月十六万円の基本給の他に、本来であれば支払しはらわれるべき残業代ざんぎょうだい休日きゅうじつ出勤しゅっきん手当てあて賞与しょうよとしててており、同時に社会しゃかい保険料ほけんりょうもろもろを支払しはらっているので、毎月二十万円以上の人件費じんけんひ支出ししゅつする格好かっこうとなっている。


――もし、お金が単なるうばいならば。


――かなでさんは、俺からお金をうばっているってことになるけど。


――俺は、甲斐甲斐かいがいしくはたらいてくれている彼女かのじょから。


――おかねうばわれているとは、とても思えない。


――それとも、俺がかなでさんから『労働力ろうどうりょく』という形で価値かちうばっているのか?


 更に俺は考えていた。


――それに、新庄しんじょうさんたちとの関係にしてもそうだ。


――俺は、パティスリー・ソレイユにて最低さいてい賃金ちんぎんギリギリの時給じきゅうはたらいているけど。


――俺と新庄しんじょうさん一家が、おかねうばっているというのも不自然だ。


――礼於れおさんや亜理紗ありささんは、借金ローンがあるらしいのに。


――大金持おおがねもちだと分かっている俺をえてやとってくれている。


――しかも、かねしてくれとかの無心むしんを一切言ってこない。


 それに、はたらはじめてわかったことなのだが、パンとかコーヒーとかの原価げんかはかなり安い。


 例えば、200円ほどの惣菜そうざいパンであったら原価げんかは60円から90円くらいらしい。


 食パンやフランスパンになると更に原価率は低く、二階で飲める一杯250円のコーヒーに至っては原価は15円ほど。


――しかし、それはお店が、パンなどを買う人からお金を「うばう」ことになるのだろうか?


――お店にもパンが売れ残るリスクだってあるし、そもそも利益りえきがないとお店は続かない。


――お店が利益りえきを出せなくなったとしたらお店はなくなるし、そしたら買いたい人もパンを買えなくなる。


――やすって、たかるという行為こうい――


 それは、商売しょうばいをする人たち当たり前におこなっていることだけど――


 例えば世の中には転売てんばいばれるような、チケットをやすってたかって非難ひなんされるような行為こういをしている人たちもいる。


 と、との違いは、いったいなんなのだろうか?


 おそらく、そのあたりに「お金持かねもちになれる人と、なれない人のちがい」――


 つまり、「お金持かねもちになる方法ほうほう」のヒントがかくされているんじゃないか?


 お金とは「信頼しんらい」を数値化すうちかしたもの――


 そして、社会全体ではおかね価値かちは使えば使うほどにえていく――


 そこまで考えた俺は、かなでさんと俺、俺とパティスリー・ソレイユとの雇用こよう関係かんけい意識いしきそそぐ。


 そんな俺の頭の中で、ひとつの気付きづきが芽生めばえる。


――俺たちがおかねのやりりをかいしておこなっていることは――


――殺伐さつばつとした「うばい」なんかじゃなく――


――平和へいわにより縁取ふちどられた――


――「たすい」なんじゃないのだろうか?




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