第42節 雨に唄えば





 俺は百合ゆりさんの後ろを追いかけて雨が降りしきる池袋いけぶくろの街を越えて、どこかのマンションビルなどが立ち並ぶ住宅街までたどり着いた。


 冷たい雨の中を十分か十五分近く走っていたため、もうすで身体からだは全身がびしょぬれであった。


 そして百合ゆりさんが俺を案内して連れてきたのは、なんというか、随分と古めかしい二階建てのアパートだった。


――ここ、池袋いけぶくろのすぐ近くだろ?


――随分とボロいアパートだな。都内とないなのに。


――いや、都内とないだからこそか?


 そんなことを考えながら、手すりに赤錆あかさびの浮いた鉄製てつせい階段かいだんを登っていく。


 カン カン カン


 てつでできた階段かいだん靴底くつぞこらす音は、雨音あまおとの中に消え入っていく。


 もちろん、すぐ上にはその粗雑そざつめられた金髪きんぱつらして、百合ゆりさんが先導せんどうしている。


 また、先ほど見たところによると、このアパートの二階に登るための階段の下には、プロパンガスのボンベがいくつか設置されていた。


――どんだけ昔のアパートなんだっつーの。


 二階に上がって、むき出しの通路沿いにあるいくつかの部屋扉と台所の裏手っぽい格子窓を眺めた所で、ジャンパーを手に持っていた百合ゆりさんがダメージジーンズのポケットからシンプルで小さな鍵を取り出した。


――いえかぎ


 そして、なんのためらいもなくその内のひとつの扉の鍵穴に鍵を入れ、カチャリという音と共に鳴らした。


 百合ゆりさんが、そのいかにも安っぽいつくりの扉を手前に開いて俺の方に話しかける。


「さ、はいはいれ。今は誰もいねーからな」


 そんなことを言われたので、俺は軽く了承の言葉を返して、そのいかにも安アパートの部屋に入る。


 玄関の入り口から入ってすぐ左隣にはステンレス製の台所があり、みすぼらしい感じの流しがある。


 台所には二つのガスコンロがあり、その片方にヤカンが乗っかっている。


 そして、開いたままの引き戸の向こうにテレビモニタとかが置いてある四畳半よじょうはんほどのたたみ部屋べやがひとつ見える。奥の方には閉じられた引き戸となっているふすまがあり、もう一部屋あるのだろうということがわかる。


「ほらほら、早くくついではいれ。遠慮えんりょしねーで」


 百合ゆりさんがそんなことを言って外側に開いていた扉を閉めてくるので、身体が密着してくるような格好となった。


 俺は慌てて靴を脱いで、段差を上がる。


 みしっ


 床板がきしんだ。


 二の足をためらった俺に、百合ゆりさんが言葉をかけてくる。


「あー、気にすんな。そこらへんは前々からなんか音鳴るんだ」


 俺がずと冷たい床板を踏みしめて、ガスコンロのほうに避難すると、百合ゆりさんも靴を脱いで段差を上がる。


 俺はおそるおそる百合ゆりさんに尋ねる。


「えっと……百合ゆりさん? ご家族とかは……?」


「ん? 親父おやじはトラックにって仕事中しごとちゅうだし、おふくろはレジのパートだ。いまんところはもどってこねーよ」


 その受け答えに、俺は狼狽ろうばいしていた。


――ホテルとかはねーだろーと思ってたけど――


――まさかの自宅じたくかよ!?


 俺がそんなことを考えていると、頭頂部とうちょうぶが黒くなっている金髪きんぱつをぐっしょりとらした百合ゆりさんはその足で四畳半ようじょうはんの部屋に入り、その手に持っていたジャンパーをぶら下がっていた針金ハンガーにかける。


 そして、俺の方に振り返る。


「……なにしてんだ啓太けーた。おめーも部屋に入ってふくげ」


――え、ええーっ!


――こっちにも、こっちの都合つごうってもんがなー!!


 俺が困惑こんわくしていると、百合ゆりさんは奥にあるふすまを開けた。


 その向こうは六畳間の畳が敷かれた、外の光が入ってくる窓がある部屋のようであった。


 そして、天井からぶら下がっている蛍光灯の下には、なにやら紐で仕切りがしてある。

 

 俺が恐々こわごわと後をついていくと、百合ゆりさんは奥の部屋に入ったところで、その少し高めのところで部屋を仕切っているロープに器具で引っ掛けてあった布切れを引き広げ、カーテンでパーティションを区切るような格好となる。


 この天井近くに張られた紐は、狭い部屋を仕切るための簡易かんいのカーテンレールだったのである。


 カーテンの向こうに隠れた百合ゆりさんが、広い布切れの向こうから顔だけを出して少しだけ頬を染めて俺に告げる。


「じゃ、今から服脱ふくぬいでドライヤーでかわかすけどよ。わかってっとはおもうけど、のぞいたらブッコロスからな。啓太けーた


 そこで俺は理解した。


――たんふくいでかわかすだけだ。


――ふか意味いみはない。


 百合ゆりさんの言葉に、俺のこのずぶれの格好かっこうとは相反あいはんするかわいた声で、了承りょうしょうの言葉を返す。


「あーはいはい、のぞいたりなんかしねーよ」


 その言葉を聞いて、百合ゆりさんは完全にカーテンの向こうに隠れてしまった。


――あー、そりゃそーだろうな。


――いきなりそんなエロ漫画まんがみてーな展開てんかい、あるわけねーよな。


 師走しわすどきつめたいあめれていた俺の身体からだは、ますますもってややかさをしていた。



 


 とりあえず百合ゆりさんがカーテンの向こうでドライヤーを起動させたのであろう音が聞こえ、しばらくしたらカーテン越しに手を伸ばしてそのドライヤーを俺に手渡してくれた。


 羽織っていたパーカーフーディーと下に着ていたシャツを脱いだ俺は、上半身裸のままドライヤーの温風にて服を乾かしている。


 そして、それと同時にある疑惑が浮かび上がってた。


――いくらカーテンでへだてられてるからって。


――そう簡単かんたんに、男を家に上げてはだかにさせられるもんなんだろうか?


――この前も、不良から逃げた先の場所がホテルがいだったし。


――ヤンキーだし、わりとこーゆーのは慣れてんのかもな。


 そんな失礼しつれいなことを考えながら、俺は百合ゆりさんを隠しているカーテンを背にして、ドライヤーの温風を己の服に当て続けている。


 ブオオオオオ


 ドライヤーのニクロムせん接触せっしょくねっされた空気くうきが、雨粒あまつぶばすかのようにふく波打なみうたせる。


 俺は背中の方にある、閉められたカーテンの向こう側にいるはずの百合ゆりさんに尋ねる。


「なー百合ゆりさん」


「なんだ? 啓太けーた?」


「休める場所ってさ、えーっと……この前に不良から逃がしてくれた、あのあたりに案内あんないされるかと思っちまったよ」


――地雷を踏まないように、慎重に、慎重に。


 カーテンの向こうにいる百合ゆりさんが布と背中越しに俺に返してくる。


「あー、あのあたりな。ホテル沢山あっからな」


 俺は少しばかり躊躇ためらいつつも返す。


「もし目的地があーいうところだったら、どうしよーかと思ったよ」


「あぁーっ!? なわけねーだろ!!」


 そんな返し声に、俺は大きく息を吐き出す。


「そうだよなー、ついこの前知り合ったばかりなのにな」


 俺がそう言うと、百合ゆりさんがカーテンの向こうから声を返してくる。


「つーかさ、なん池袋ブクロいえあんのにホテルまんだ? かねがもったいねーだろ?」


――え?


 きょとんとした俺に構わず、カーテンの向こうにいる百合ゆりさんは何かごそごそと音を立てつつ言葉を続ける。


「それとも、ボンボンだから数千円くらいしくねーとかか? だったら少しムカつくけどよ」


 俺は戸惑とまどいの声を返す。


「えーっと、百合ゆりさん……あーいったホテルって、何のためにあるか知ってる?」


「ああぁっ!? バカにしてんじゃねーぞ!! そりゃホテルなんだから、まるためにあんに決まってんだろ!?」


「いや……間違まちがいじゃないんだけどな……休憩きゅうけいとかもあるし」


「あー、そりゃーあのあたりって観光客かんこうきゃくとかもおおいからな。中国人チャイニーズっぽいのが団体で入ってったとこ見かけたこともあんな」


「えーっと……じゃあ、この前に逃げたとき、俺をあのあたりに連れて行ったのはどういうことだよ?」


「あー、なんかあのあたり、警官マッポ大勢おおぜいいて治安ちあんいーんだ。だからな」


 そのカーテンの薄布の向こうにいるヤンキー少女、前田まえだ百合ゆりさんの口ぶりに、俺は当惑する。


――なんてこった、この少女はただのヤンキーじゃない。


――ピュアヤンキーだ。


――ラブホテルの意味、わかってねえ!


 俺がそんなことを思っていると、百合ゆりさんがカーテンの上から手を伸ばしてくる。


啓太けーた、ドライヤーもっかい貸せ」


「はいはい」


 俺はそんな簡単な受け答えをしてコンセントを抜き、百合ゆりさんが布の上に伸ばした手にドライヤーを握らせる。


 そこで俺は、ドライヤーをかけてたときには気付かなかったその死角に、シールが貼ってあるのに気付いた。


――人魚姫にんぎょひめ


 Wisneyウィズニー アニメに出てくるようなお姫様である、人魚姫にんぎょひめのステッカーがドライヤーに貼ってあったのがちらりと見えた。


――おとうとがいるって言ってたけど。


――いもうとがいるとかは、言ってなかったな。


――ってことは、あの乙女おとめチックなステッカーはもしや――


――いや待て、母親ははおや趣味しゅみということも考えられるか――


 俺がそんなことを考えてると、ドライヤーの温風が吹き出す音に加えて、百合ゆりさんの声がカーテン越しに俺に届く。


啓太けーた、すまねーけど台所のヤカンでかしといてくんね? やっぱ思ってた以上にさみ-わ」


「あー、わかったよ」


 そんなことを言いながら、上半身裸のまま入り口近くの台所に向かう。


 そして、ガスコンロの上に置いてあったヤカンを取って水道から水を入れ、もう一度ガスコンロにセットする。


――茶とか飲むとき、いっつもコンロで沸かしてんのかな?


――電気ケトルにしたほうが、光熱費かかんねーと思うけど。


 そんなことを思い、ガスコンロの火をつけた次の瞬間であった。


 ガチャリ。


 ステンレスの台所のすぐ近くにあった玄関ドアが開き、小さな男の子が一人入ってきた。


 その子は小学生になったかなってないかくらいで、前歯まえばが少しばかり飛び出している、どことなくトロンとした感じのを持った男の子であった。


「ただいまー、ねーちゃん帰ってるの?」


 そんなことを奥に向かって問いかけたな男の子は、横方向のすぐ近くにいる俺に気付く。


 場が固まる。


 男の子が、一拍いっぱくあと見開みひらいてさけぶ。


「だ、だれ!? 泥棒どろぼう!!?」


 百合ゆりさんの弟らしきその子の声に、俺は焦って返す。


「違う違う! 俺は前田まえださ……百合ゆりさんにまねかれたんだよ!! ほら、玄関げんかんくつあるだろ!!」


 すると、その男の子が玄関下に置かれている二足にそくくつを確認し、もう一度俺の方に向き直ってうきうきとした表情になる。


「確かにねーちゃんいる……ってことは……ねーちゃんの恋人こいびとさん!?」


――え?


「あ……いや……」


 上半身裸のまま、説得力のない弁明をしようとしたところで、おそらくは学校指定の黄色いジャージに着替えた百合ゆりさんがのしのしと足を踏み鳴らしつつ、少しばかり顔を赤らめて近づいてきた。


「ちげーよ! 啓太けーたたんなる友達だち友達だち!! 竜人たつひと!! おめーちゃんと挨拶あいさつしろ!!」

 

友達ともだち!? やだなー、だったらなんでそんな格好かっこうしてんの?」


 竜人たつひとくんと呼ばれた男の子がそう言うと、百合ゆりさんがその弟らしき子の両肩を掴む。


あめれたんだよ! だからふくかわかしてるだけだ! ほら、おめーも多田野ただのさんに挨拶あいさつしろ!!」


――え? 多田野ただのさん?


 俺が当惑とうわくしていると、男の子は俺に向き直りにっこりと笑う。


多田野ただのさん、ボク前田まえだ竜人たつひと!! よろしくね!!」


「ちゃんと敬語けーご使え敬語けーご! あたい同齢タメだぞ!!」


 その百合ゆりさんの言葉に、俺が彼女に自己紹介した時に伝えた言葉を思い出す。


――ただの啓太郎けいたろう、ケータとか太郎たろうくんって呼ばれてる――


――『多田野ただの啓太郎けいたろう』ってのがそのまんまフルネームだと勘違いされてたのか。


 俺が乾いた笑いを浮かべると、竜人たつひとくんと呼ばれた男の子はくつを脱いで、俺に詰め寄る。


「じゃあ、多田野ただのにーちゃんって呼んでいいですか?」


 俺は少しばかりって返す。


「えーっと、下の名前……啓太郎けいたろうだから、啓太けいたでいいよ」


――あえて間違いを訂正することもないだろう。


「うん! よろしくね啓太けーたにーちゃん! ねーちゃんをこれからも末永すえながくよろしく! で、いつ結婚けっこんするの?」


竜人たつひとぉー! だから、そーいうんじゃねーっての! ガキかてめー!!」


「ガキだよー! だってまだ小学一年生だもん!!」


 奥のほうに逃げる竜人たつひとくんを、顔を赤くした百合ゆりさんが狭い部屋の中で追いかける。


 俺は、そんなにぎやかな姉弟きょうだい光景こうけいながめながら心の中で思う。


――ま、億万長者だなんて知られたくねーし。


――本当のことは言わないでおくか。


 十二月のまちらす雨音あまおとは、相変あいかわらずそと世界せかいひびいていた。



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