第30節 いつか晴れた日に




 高校をいつものように終えた俺は、大宮おおみや駅から歩いてすぐの所にある高層建築物の、上昇する高速エレベータに乗っていた。


 さいたま市内にある俺の通っている県立高校、『埼玉県立大宮第二高等学校』、通称つうしょう二高ふたこう』には、三十近くの部活動ぶかつどうがある。


 きわめて自由じゆう校風こうふうりなその高校に相応ふさわしく、部活動ぶかつどうに入るのは生徒にとって強制きょうせいされるものではなく、転部てんぶちも許可されているという。


 さらには、学校には認可にんかされていない同好会どうこうかいレベルの集まりが、水面下にてかなりのかず存在そんざいしているらしい。


 本当に好きなことをやりたい人間だけが部活動ぶかつどうをしているので、どれも小規模ながらそこそこレベルが高い。


 だが、俺のようにどの部活にも入らずに帰宅部生きたくぶせいとしての高校生活を送っている生徒もわりと大勢いる。



 先月の十月に俺は、宝くじが当たって三百億円を超える資産を持つ億万長者になってからの流れで、部活動ぶかつどうへの振興しんこう活動費かつどうひ名目めいもくで高校に二千万円を小切手で寄付することとなった。


 それがかく部活動ぶかつどうにどのように配分はいぶんされるかはわからないが、茶道部さどうぶに所属している萌実めぐみの話によると、その配分額はいぶんがくが決まるのは今年度こんねんどまつ、つまり来年の二月から三月くらいになるらしい。


 そんなことを考えながら、俺は高速エレベーターを出て、四十階以上の高層マンションの最上階にあるかぎ人差ひとさゆび指紋しもんいて扉を開けて帰宅する。


 するといつものように、メイド服姿のかなでさんが、嬉しそうにパタパタとスリッパの音を鳴らしつつ俺の帰宅を出迎えてくれ、くつぐ俺のためにかばんあずかってくれた。


 つい先月に即金そっきんで購入したばかりのこの三億円以上の豪邸ごうていが入っている富裕層セレブ向け高層タワーマンションは、住民用じゅうみんよう ICアイシー カードを持っている人間か、住民じゅうみん訪問ほうもん許可きょかされた人間しか入ることができない。


 俺が一階の入り口で ICアイシー カードを持ってゲートをくぐけたという情報は、すぐにそれぞれの住居じゅうきょに上げられて住民じゅうみん告知こくちされるので、メイドのかなでさんは準備を調ととのえていつも俺をタイミングよく出迎でむかえてくれる、というわけなのである。


 俺はくつを脱いで玄関を上がって、かなでさんからかばんを返してもらって、一緒に歩いて広めの廊下を抜ける。


 その最中で、俺はかなでさんに問いかける。

幸代さちよさんはもう来てる?」


 幸代さちよさんというのはかなでさんの母方の祖母そぼであり、夕食を作るときだけかよいで手伝てつだいをしにてくれている七十近くのおばあさんである。


 すると、かなでさんがわずかばかりに表情をゆるめてこたえる。


「はい……今日の晩御飯ばんごはんはお天麩羅てんぷらですので……早めに来てくれたお祖母ばあちゃんと一緒に……駅前近くにあるいつもの商店街しょうてんがいでおものをしてきたんですよ……」


「へー、天麩羅てんぷらか。俺、けっこう天麩羅てんぷら好きなんだよ」


 そんなめのない会話かいわをしながらリビングに出ると、部屋の中央近くには平たい机を乗せたシックなグレーのカーペットがあり、その三方向から囲むようにふかふかなレザーブラックの高級ソファーがそれぞれ置いてあるのが目に入る。


 表面がくろかわでできたソファーの上では、ふたつのリボンで長い黒髪をツインテールにしてっている中学二年生の妹の美登里みどり部屋着へやぎを着たままワイヤレスヘッドホンを頭にかぶり、興奮こうふんしているのがわかるくらいに頻繁ひんぱんに体をらしながら、テレビモニターのある正面に向かってしていた。


 そして、美登里みどりが座っているソファーのテーブルを挟んで向かい側に設置されている、カタログスペックでは150インチあるというこれでもかというくらい大迫力だいはくりょくなテレビモニター上では、ドレスを着た美少女変身ヒロインがうごまわって活躍かつやくするような、少し絵柄が古いアニメが無音むおんきとあざやかに上映じょうえいされている。


 無音むおんなのは、おそらくは美登里みどりかぶっているヘッドホンのみに音声が届くように設定されているからなのであろう。


 アニメーションの映像に付随ふずいされているはずの音声はリビングにはひびいておらず、台所の方からの幸代さちよさんが天麩羅てんぷらを調理しているのであろう油の跳ねる音が、ただパチパチと聞こえてくる。


 無音のテレビモニターの前で、興奮したように体を揺らしつつ物語に見入っている妹の姿に、俺はため息をらす。


 俺は、ぐぅたらな妹の姿を見てかなでさんに尋ねる。


美登里みどりはずっとこんな感じ?」


 すると、かなでさんが答える。


「はい……ちにっていたアニメの……記念きねんのあーかいばる? ディスクが全部届いたとかで……お昼過ぎからずっとこんな感じです……」


 これが、俺がどんなに大金を持っていても解決できない、見通しの立たない悩みのタネのひとつだ。 


 今月の下旬、11月の28日に十四歳の誕生日をむかえる中学二年生の妹の美登里みどりは、一学期が始まってから半年以上も不登校ふとうこうで引きこもりなのである。


 大学二年生の明日香あすか姉ちゃんは「お金あるんだからいーじゃん、啓太郎けいたろうが一生面倒めんどうみてあげなよー」とか、相変わらず物事を深く考えてなさそうなノリで軽く言っていたが、妹の将来を真剣しんけんに考えている俺としてはそういうわけにはいかない。


 俺は兄として、美登里みどりにはしっかりと高校まで通って、あって良かったと思えるような青春を過ごしてほしいからだ。


 俺はソファーに座っている妹に対して裏から近づき、後ろから声をかける。


美登里みどり、ただいま」


 すると、美登里みどりはぴくりと反応し、手元に置いてあったリモコンを操作して、流れていたアニメーションを一時停止させた。


 そして、ワイヤレスヘッドホンを取り外して首にかけ、ふたつのリボンでわれた長いツインテールの黒髪をらして俺の方に振り返り、その口を開く。


「……あ、おかえり。お兄ちゃん」


「ああ、ただいま。パジャマ姿でないのは一応いちおうめといてやる」


「……うーん、かなでちゃんだけならパジャマ姿でも良かったんだけど。さちばあちゃんも来るからね、一応だよ、一応」


 そんな妹のかたぐさに俺は、真正面にある大画面だいがめんのテレビモニターに映し出された、黒いドレス衣装と白いドレス衣装を着ているヒロイン二人組が出ている静止したアニメーションのシーンを見て返す。


「このアニメ、絵柄えがら随分ずいぶんむかしっぽいけどプリピュアか?」


「……そうだよ、無印むじるしの初代プリピュア。20周年記念の ADアーカイヴァルディスクフルセットがようやく届いたから、一番はじめっからたのしんでるの」


「20年前っつーと、2003年か。俺が生まれる前じゃそりゃ知らないよな」


「……正確には初放送は2004年の2月1日だけどね」


美登里みどり……お前、そういう漫画まんがとかアニメとかのマニアックな知識ちしき無駄むだによく知ってるよな」


 そんなあきれたこえで妹に返すと、美登里みどりはほんの少しだけほほめて、気持きも猫撫ねこなごえ口調くちょうになって俺に甘えたようにうったえかける。


「……ねぇー、よかったらお兄ちゃんもとなりに座って一緒に見ようよ。ワイヤレスヘッドホン、部屋にもうひとつあるから」


 その言葉に俺は、子供のわがままをあしらうようにゆるやかに返す。


「いや、やめとくよ。そもそも俺、アニメとかのテレビ番組そんなに見ないし。小さな女の子向けのアニメとか見たら、多分全身がむずがゆくなる」


 すると、美登里みどりが頬を膨らませて口をすぼめて不満そうに息を吹き出す。


「……ぷー、大人でも熱狂的ねっきょうてきなファンが物凄ものすごく多いのに。……ま、お兄ちゃんに合わないなら仕方しかたないけど」


 美登里みどりはそこまで言うと正面に向き直り、首にかけていたヘッドホンを再び頭にかぶってリモコンを操作して一時停止を解除する。


 すると再び、大画面のテレビモニター内の美少女変身ヒロインたちに命が吹き込まれ、躍動感やくどうかんある感じで動き始める。


 俺はもちろん心中しんちゅうでは、兄としての立場で大切な妹の将来を心配していた。


――こいつ、このまま引きこもってたらどんな大人になるんだろうな。


――せめて、現実世界におなどしの友達が一人でもいたら、随分と違うんだろうけど。


 妹の美登里みどりには少々引っ込み思案な傾向けいこうがあり、面と向かって対等たいとうな人間関係をきずくのが苦手なところがある。


 メイドのかなでさんや、お手伝いの幸代さちよさんに物怖ものおじなくせっすることができるのは、美登里みどりにとってはそれが主従関係しゅじゅうかんけいであるからだ。


 ブレザー制服を着たままだった俺はもう一度大きくため息をいて、近くにおまし顔で立っているかなでさんに伝える。


「じゃ、俺は部屋で着替えてくるよ」


「はい……では、わたしはお祖母ばあちゃんのお手伝てつだいに戻ります……」


 かなでさんからそんな言葉を聞いて、俺はリビングから出て下の階にある自分の部屋に戻った。





 この一室いっしつ二階にかいのある豪邸ごうていしたかいにある自分じぶん部屋へやもどった俺は、ブレザー制服せいふくからいつも部屋へやているようないろのデニムジーンズとスウェットシャツに着替きがえた。


 部屋着へやぎに着替え終わった俺は、北欧製の勉強机の上に置いてある黒い大きなノートパソコンを起動させながら、置いてあるリクライニングチェアーに座る。


 このノートパソコンは先週の日曜日、文化祭が終わった翌日にインターネット通販で届いた高性能ノートパソコンであり、部屋に飛んでいる Wi-Fyワイファイ によって 無線 LANラン でインターネットとつながるように設定してある。


 俺は以前に、顧問こもん弁護士べんごしの先生から『投資とうし』について言及げんきゅうされたことがあり、そういった調べものをするために買ったパソコンであった。


 その弁護士べんごしの先生の話を信じるとすれば、俺は資産の三分の一である百億円ほどを投資とうしにまわすだけで、年に数億円近くの大金が働かなくても入ってくるのだという。

 

 スマホ世代の俺は、慣れていなかったキーボード操作を一つ一つキーの位置を確かめながらタイピングをして、なんとかかんとかパソコンの使い方を勉強していった。


 そんなわけでここ十日余り、赤ん坊が歩く練習をするようによたよたと少しずつキーボード操作を繰り返しながら、色々と投資とうしについての情報を集めていたのである。


 俺は、置いてある無線マウスをドラッグしてクリックして、とあるウェブページを表示させる。


 そこには、十五億円ほどで売りに出されている、同じ埼玉県さいたまけん秩父ちちぶにあるという古めかしい温泉旅館の不動産情報が表示されていた。


――鳥之枝とりのえ温泉旅館――


 うちはたらいてくれている、メイドのかなでさんとお手伝てつだいの幸代さちよさんの元実家もとじっかである。


 諸事情しょじじょうあって、俺はその経営破綻した温泉旅館のもと嬢様じょうさま元女将もとおかみさんをいえ保護ほごしつつやとうことになったのであった。


 そして、俺は本心ではこの温泉旅館を買い戻してもいいと思っている。


――なんせ、かなでさんの行動がなかったら、宝くじには当たってなかったからな。


 俺は自分の部屋にある窓から太陽のないひがしの方角の、俺の心境しんきょうがそうさせているのかもしれない、どこかモノクロ調ちょう青空あおぞらを見上げる。


――でも、どうやってそんなことを切り出せばいいんだろうか?


――十五億円のプレゼントなんて、絶対にかれるだろうし。


 そんなことを考えながら、俺はなんとなく沈痛ちんつう心持こころもちで、窓の外のくもかたまりがいくつかただよっている、手を届かせるにはあまりにも遠い空を見上げていた。






 それからしばらくの時間が経って、が沈んでから俺たち家族はリビングにあるダイニングテーブルに並べられた夕飯を、三人姉兄妹きょうだいそろってともにしていた。


 すぐ近くには妹の美登里みどりとその向こうにもう一人ひとりおんな姉妹きょうだい、東京にキャンパスがある大学から帰ってきた茶髪ショートカットの体育会系女子である明日香あすか姉ちゃんが、座って一緒に天麩羅てんぷらをおかずにしてごはんを食べている。


 幸代さちよさんはすでに、管理人かんりにんとしてんでもらっている俺たちの元々の家に帰ってしまったので、この場にはいない。


 七福神しちふくじん神様かみさまえがかれた高級こうきゅう日本にほんビールのロングかんを、テーブルのちかくにいているねえちゃんが、はし天麩羅てんぷらを口に運んでご満悦まんえつの声を出す。


「うーん! 美味おーいしー! かなでちゃんも幸代さちよさんも、本当に料理上手だよねー!!」


 すると、メイド服を着たまま近くに立って待機たいきをしているかなでさんが、謝辞しゃじべてから両サイドのみを揺らして軽く会釈えしゃくをする。


「おめの言葉ことば、ありがとうございます……明日香あすか嬢様じょうさま……」


「もー、だからそのお嬢様じょうさまってばれるの、ちょーっと背中がこそばゆいんだけどなー。あたし、そーいうの慣れてないからー」


「いえ……啓太郎けいたろうさんのおねえさんもわたしのやとぬしさまのご家族かぞくさまですから……立派りっぱなお嬢様じょうさまです……」


 姉ちゃんとかなでさんがそんなやり取りをしていると、姉ちゃんの隣に座っている美登里みどり言葉ことばはさむ。


「……お姉ちゃん、お姉ちゃん。せっかくお金持ちになったんだから、それくらいってもらわなきゃそんだよ」


 上座かみざに座っている俺は、そんな美登里みどり言葉ことばさとす。


美登里みどり、お前も海老えびとか竹輪ちくわとかばっか食べてんじゃないぞ。栄養えいようかたよるから、椎茸しいたけとか獅子唐ししとうとかの野菜やさい天麩羅てんぷらもちゃんと食べろ」


「……はいはい、わかってるって」


 美登里みどりは少しだけ不満そうに口をとがらせて、はし椎茸しいたけ天麩羅てんぷらてんつゆにつけて口に運ぶ。そして、もぐもぐと食べたまま言葉を続ける。


「……ま、美味おいしいからいいけど。でも、たまには洋食も食べたいな。最近は和食ばっかりだもの」


 すると、かなでさんが反応する。


「わたしの実家は、和風わふうのお食事しょくじ旅館りょかんでしたから……でも、美登里みどり嬢様じょうさまがりたいのでしたら……これからはお祖母ばあちゃんと一緒いっしょ挑戦ちょうせんしてみます……」

 

「……うむ、よきにはからえ」


 そんな妹の傲岸不遜ごうがんふそんな態度に、俺は釘を刺す。


「こら美登里みどり、調子に乗るな」


 俺の言葉に、美登里みどりは少し調子に乗りすぎたのに気付いたのか、若干しょぼんとした表情をみせる。


「……ごめん、お兄ちゃん」


――あ、やべ。


「あー、いや、たまにだったらピザくらいなら頼んでもいいぞ。いっつも和食ばっかりってのもなんだからな」


 俺がそう返すと、美登里みどりかがやかせてうれしそうな表情を俺に向ける。


「……ホント!? さすがお兄ちゃん!!」


 するとかなでさんも、その言動げんどうっかる。


「はい……流石さすがいもうとさんおもいの啓太郎けいたろうさんですね……」


 そんなじりっけない純粋じゅんすい少女しょうじょ言葉ことばに、少々しょうしょう気恥きはずかしくなった俺は返す。


「ピザを頼んだらかなでさんも一緒に食べるといいよ。たまには昼食ちゅうしょくくらい休んでもらってもいいから」


 すると、かなでさんがわずかばかりに微笑ほほえむ。


「お気遣きづかいありがとうございます……」


 俺に対するかなでさんのそんな受け答えを聞いて、姉ちゃんはなんとなくニヤニヤしている。


 そして、明日香あすか姉ちゃんが大げさなまでに声を出す。


「あーあー、それにしてもだーれかイケメンがあたしを口説くどいてくれないかなー。今だったら、ちょう大金持おおがねもちのおとうとがオプションでれなくついてくるってのにー」


「俺はオプションかよ」


 姉ちゃんはそんな俺の文句を聞きながら、持っていた高級そうなロングビール缶をぐいっと上にかたむけてあおす。



 姉ちゃんは、アメリカの宝くじに当たってから、おとうとである俺が数百億円の当選金を手に入れたという事は大学の友達に一応は話してはみたのだが、まったくもって信じてもらえなかったらしい。


 そして、姉ちゃんが近くで待機たいきしているかなでさんに伝える。


かなでちゃん、冷蔵庫れいぞうこ駅近えきちかくで買ってきたびんのビールがもう一本あるからさー。持ってきてよー」


「はい、わかりました……」


 メイド服姿のかなでさんは、パタパタとスリッパの音を鳴らしつつ、大きな冷蔵庫のある台所に向かう。

 

 そして間もなく、かなでさんがラベルにドイツ語が書かれたびんビールとピカピカなコップをひとつ、栓抜せんぬきと共に戻ってきた。

 

 その様子を見て、表情を明るくした姉ちゃんが言葉を放つ。


「あー、くじゃーん。かなでちゃん、おしゃくしてよー」


「はい、わかりました……」


 そう言って、かなでさんは机の上に置いたお盆の上で、ビールの王冠を栓抜きで開けようとする。


 俺は、そんな姉ちゃんに文句を言う。


「ちょっと姉ちゃん、おしゃくってかなでさん未成年だぞ?」


――かなでさんは、まだ十五歳なんだぞ。


「ええー、別にいーじゃん?」


 姉ちゃんの言葉につなげるかのように、王冠おうかんせんを抜き終わったかなでさんが少し表情をゆるめて俺に伝える。


啓太郎けいたろうさん……わたしのおかあさんも、十六歳からお座敷ざしきに上がってお客様きゃくさまにおしゃくをしていたとうかがっています……ですから、わたしは明日香あすか嬢様じょうさまにおさけぐのはまったくかまいませんよ……?」


 そんなかなでさんのおだやかな口調くちょうに降参した俺は、何も言えなくなる。


 そしてかなでさんは、姉ちゃんが手に持つコップに、甲斐甲斐かいがいしくビールをそそはじめる。


 ドイツ語なのでラベルの文字はちょっと読みにくいが、姉ちゃんいわくヴァルなんとかという名前のドイツの有名な高級ビールらしい。


 すると隣に座っていた妹が、姉ちゃんに尋ねる。


「……お姉ちゃん。お姉ちゃんは、大学でいいなっていう男の人とかいないの?」


「んーっとねー、いないこともないんだけどー、大抵たいてい彼女かのじょちなんだよねー。やっぱフリーなイケメンは大学にはほとんどいないー」


「……そっか、大学もやっぱり世知辛せちがらいんだね」


 妹のそんな言葉に、コップになみなみとビールをいでもらった姉ちゃんが、その琥珀色こはくいろの液体をんでは言葉を返す。


「そーだねー。ほら、あたしってそんなにあたまくないからさー。むかしっからあたまさそーな知的ちてきな男の人が好きだって言ってたじゃーん? でも、そーゆーのはぜーんぜんアプローチかけてこないんだよねー。なんでだろなー?」


――多分、そのゴリラみたいにムキムキな筋肉きんにくが原因だと思う。


 そんな、人間ひととしてくちに出してはいけない事を心の中で思いながら、俺は無言のままごはんはしで口に運ぶ。


 姉ちゃんは、コップにがれたドイツのヴァルなんとかという高級輸入ビールをみながら愚痴ぐちをこぼす。


「まーったく、世の中上手うまくいかないもんだよねー。あたしの通ってた高校じゃー、男なんてなーんにも将来のこと考えてなさそーなチャラいのか、ぜーんぶ力任ちからまかせの脳筋のうきんしかいなかったしー。せーっかく頑張ってスポーツ推薦すいせんわくもぎ取ったってのに、大学じゃー今度は女と見られないときたからねー。もー、どーすればいいのかわかんなーい」


 姉ちゃんはそういった感じで一人ぶちぶちとくだを巻きつつ、コップの小麦色の泡立っているアルコール飲料を飲み干す。


 そして俺は、夕飯を食べ終わったので箸置はしおきの上にはしを置いて、自分の両手を合わせて、食事を食べ終わったことを示す日本古来よりの挨拶あいさつを口に出す。


「ごちそうさま」


 俺がそう言うと、再び姉ちゃんのコップに琥珀色こはくいろ麦酒びーるわったかなでさんが、俺に声をかける。


啓太郎けいたろうさん……お食事しょくじみましたら、お風呂ふろかしていますので……おさきに入っていただけませんか……?」


「ああ、ありがとうかなでさん。じゃあそうするよ」


 俺はそうお礼を言って、椅子から立ち上がりお風呂に向かう。


 すると、ちょっとだけ酔っぱらった感じで姉ちゃんが後ろから声をかける。


啓太郎けいたろう、せっかくだしさー、かなでちゃんに背中流してもらいなよー」


 そんな姉ちゃんの声に、俺は家族に背中を向けたまま応える。


「冗談はやめろっつーの」


 俺は振り返らずに、姉ちゃんと妹、そしてメイドのかなでさんに後ろ姿を見せながらリビングを歩いて浴室に向かう。


 顔を見せなかったのはもちろん、内心ないしんれていたのがばれないようにするためだった。


 




 風呂に入っていた俺は、大きな窓から夜景を見ることができる、泡が出るジャグジー付きの広い広い浴槽よくそうのお湯にかりながら、天井を見上げてほうけた感じの吐息といきらしていた。


――背中流してもらいなよ、か。


 先ほど姉ちゃんに言われた言葉の内容をはらの中で反芻はんすうしながら、はだかで湯にかったままの俺は小声こごえつぶやく。


「……俺が、どんなに気を使ってると思ってんだよ。姉ちゃん」


 かなでさんは経済的な問題があって高校にこそ通っていないものの、学年的には俺とおなどしの、はなのように手折たおれてしまいそうなほどの可憐かれんはかなげな、年頃としごろの美少女なのである。


 上半身はだかで部屋を歩き回る姉ちゃんの姿すがたや、バスタオル一枚いちまいのみを頭からかぶったまま家の中をうろつきまわる妹の様子ようすだったら前の家からちょくちょく目にはしていたが、それとはまったく次元が違う。


 何せ、だ。


――はだかなんか、見ていいわけがない。

 

 そんなわけで、かなでさんがこの家で住み込みで働くようになってから、下階かかいにふたつあるトイレも男子用と女子用にきっちりと分けたし、かなでさんがお風呂ふろに入っている時間じかん間違まちがっても浴室よくしつつながっている洗面所せんめんじょには入らないように心掛こころがけている。


――まったく、姉ちゃんも美登里みどりも、俺がどれだけんでると思ってんだ。


 そんなことを考えながら俺は湯舟を出て、数人が同時に体を洗えそうな広い洗い場の脇を通り抜け、くもりガラスの扉を開けて洗面所に出る。


 洗面所には、浴室の扉から出て向かって反対側にある大理石でできた洗面所の上一面に、大きな鏡が設置されている。


 そしてそこには、取り立てて特徴のない黒いミディアムヘアーの髪型をしている男子高校生である俺の、全裸ぜんら姿が映し出されていた。


 鏡に向かって、少しだけ気取って笑顔を見せた俺は、体をひるがして着替えを手に取るために背後にある衣類棚いるいだなに向き直る。


 するとそこには、しゃがんでいるメイド服姿のかなでさんが、たないてあるかごの中で、何やら衣類いるいととのえていた。


「って、えっ! かなでさん!?」


 俺の声に、しゃがんだままのかなでさんが振り向いて俺の方を見上げて、少しだけ微笑ほほえむ。


「ああ、啓太郎けいたろうさん……お風呂上がったんですね……。いいおでしたか……?」


 そんな何気なにげない口調くちょうに、すこあせった俺は返す。


「何で洗面所に?」


「妹さんに、お背中を流してもらいたいから一緒に入って欲しいと誘われまして……ですから、お部屋へやから寝間着ねまぎ下着したぎを持ってきて……調ととのえておいたんです……」


 そんなことを言いながら、しゃがんでいたかなでさんが立ち上がると、そのメイド服のロングスカートがふわっと広がる。


 思春期ししゅんき男子だんしとしての青臭あおくさ本能ほんのうは、俺の視線しせんさきを、たなにある衣類籠いるいかごに持ってきたというその中身に強制的に移動させる。


――あのかごの中に、かなでさんの下着が!?


――いや、駄目だめだ。落ち着け。COOLクールだ、COOLクールになれ、啓太郎けいたろう


――そんないやらしい目で、欲望よくぼうかたまりのような視線しせんで、かなでさんの下着なんて見るわけにはいかない。


 そんな風に理性りせい欲望よくぼうとが心の中でデッドヒートを繰り広げていたところ、かなでさんはきょとんとした感じで俺に問いかける。


「あの……ところで啓太郎けいたろうさん? うかがってもよろしいですか……?」


「え? なに?」


 立ち上がって俺の顔を正面から見ていたかなでさんは、少しだけ視線を下にずらして、いつものような無表情な感じで言葉を放つ。


まえ……かくさないんですか……?」


――え? まえ


 その言葉に俺は顔を下に向けて、かなでさんの少し下げた視線の先にある、俺の下半身に注目点ちゅうもくてんを移動させる。


 全裸ぜんらのままだった俺の両足りょうあしには男性として当然のごとく、俺のジョニー息子があられもない姿でぶら下がっていた。


「って! うわっ! ごめん!」


 俺は、かなでさんの視線から逃げるように再び浴室に入り、勢いよく扉を閉める。


 扉の外から、かなでさんが俺に心配そうにたずねてくる。


啓太郎けいたろうさん……? どうされたんですか……?」


「いや、だって……! はだか! 変なもの見せてごめん!」


 俺がドキドキと心臓しんぞうらしながら返すと、かなでさんが扉を通して声をかけてくる。


「わたしは平気ですよ……? 実家じっか温泉おんせんでは小学生のころまで混浴こんよくに入っていましたし……おとこかたはだかは、つるつるのちいさなおとこからしわしわのおじいさんまで見慣みなれていますから……気にしないでください……」


「いや……気にしないでくださいって言われても……俺、体が冷えたからもうちょっと湯舟に入っとくよ」


 俺が顔に熱を帯びながらなんとかかんとかそんな言葉を返すと、曇りガラスの扉の向こうからかなでさんが声を伝えてくれる。


「では、わたしは洗面所から出ますので……どうぞごゆっくり……」


 半透明の扉の向こうからスリッパを鳴らす音が聞こえ、かなでさんの気配が消える。


 まだ心臓がドキドキしている俺は、もう一度湯舟に入り、心ごと冷えてしまった体を温めなおす。


――完全に、俺の男性自身イチモツられた。


――そりゃあ、同居どうきょしてりゃこういうこともあるんだろうけど。


――ラッキースケベだったら、普通ふつうぎゃくだろ。


――まさかあんなにも長時間、まじまじとられるなんて。


 そんなことを考えながら俺は、広い窓から星の見えないくもった夜空を見上げる。


――前途洋々ぜんとようようとは、いかないか。


 美登里みどりの引きこもり問題にしても、姉ちゃんに彼氏ができそうにない問題にしても、その他の様々な問題にしても、まだまだ解決の見通しは立ってない。


――明日は、晴れるといいな。


 湯舟ゆぶねになみなみとられたあたたかいおかたまでかった俺は、そんなことをただ漠然ばくぜんと考えていた。


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