第26節 道


 さいたま市から東京駅近くの丸の内にある大きな弁護士事務所にタクシーで乗りつけ、刑事事件の担当のために残業をしていた島津しまづさんにことの次第を話すと、法律を熟知している弁護士として返してきた第一声はこうだった。


闇金やみきんのお金は、払わなくていいよ」


 法律事務所の衝立ついたてで区切られた応接おうせつスペースにて、来客用ソファーに座っている俺は目を丸くして、机の向こうのソファーに座っている島津しまづさんに尋ねる。


「え……そうなんですか?」


「ああ、闇金やみきんってのは法律ほうりつの外にある存在だからね。だから当然に『借りたお金は返さなきゃいけない』っていう国の定めた法律ほうりつにより守られないし、闇金やみきんからお金を借りた人は金利きんりどころか元金がんきんも一切返さなくていいんだ」


 スーツを着て眼鏡をかけた島津しまづさんの声に、俺の隣でソファーに座っている国枝くにえださんが、持っているガラケーを取り出して口を開く。


「でも……払わないとお祖母ばあちゃんが事故にあうって……いろいろ脅されてきたんですけど……」


 すると、島津しまづさんは手を伸ばして「貸して」と言って、国枝くにえださんの携帯電話を受け取る。


 そしてそのガラケーを開いて、操作をしながら息を大きく吐いてつぶやく。


「……メールで脅すような間の抜けた業者って、まだいたんだね」


 その言葉に、俺は尋ねる。


「まだいたって……どういうことですか?」


「ああ、この業者は支払いの義務がない者にお金を支払わせようとしていて、しかもそうしないと家族に危険が及ぶことも示唆しさしている。しかも女性を無理やり性風俗店で働かせようとしているし、相手の写真を畏怖いふを与える目的で添付している。今時こんなことをする業者は、よっぽどの世間知らずだ」


「世間知らず?」


 俺が返すと、島津しまづさんが応える。


「こういうメールの文面ぶんめん脅迫罪きょうはくざいの要件を立派に構成する。こういった脅迫きょうはく行為こういをメールで行うとね、送信者にも受信者にも、事業者キャリアのサーバーにもしっかりと日付と時刻つきで証拠が残ってしまうんだよ。つまり、出すべきところに出してしまえば、すぐにでも相手をおりの中に入れることができるんだ」


 その言葉に、国枝くにえださんが手を口元に当てて指を曲げ、一瞬だけ戸惑いの表情を見せた。


 その国枝くにえださんの様子を見た俺は、即座に島津しまづさんにしずかなたしかな声でうったえる。


おりの中に、入れてください」


 すると、島津しまづさんがガラケーを持ったまま、少しだけ微笑む。


「わかったよ、じゃあ明日あしたの朝一番で刑事事件にするね。この携帯電話、ちょっとだけ貸してもらってもいいかな? データを吸い出して保存したいから」


 その言葉に、国枝くにえださんが放心したような声を出す。


「……お願いします……」


 すると、島津しまづさんは国枝くにえださんの携帯電話を折りたたみ、ソファーから立ち上がって応接スペースから出て行ってしまった。


 そして、国枝くにえださんが何を考えているかわからない無表情で隣に座っている俺に伝える。


「……なんか、あっけなかったですね……」


 俺は返す。


「あーっと……そうだね。国枝くにえださんが、俺に相談してくれて良かったよ」


 その言葉に、国枝くにえださんは隣に座る俺に顔を向けて、ほんの少しだけ表情筋を動かして確かに微笑んでくれた。







 国枝くにえださんと一緒に、東京駅近くの喫茶店で軽く夕食を取った俺は、皇居前広場の近くにある噴水公園に訪れていた。


 もう午後九時を過ぎた夜であるせいか、公園に人影は俺と国枝くにえださんの他には見当たらない。


 少し離れたところから俺は、長い円柱を横にしたようなベンチに座っている国枝くにえださんに呼びかける。


「はい、お茶買ってきたよ。温かいやつ」


 そう言って俺は、ベンチに座っている国枝くにえださんにペットボトルの温かいお茶を渡す。


「ありがとうございます……」


 国枝くにえださんがそう言って、その両耳の近くから垂らされた、二つの小さい三つ編みを揺らしてお礼をする。


 俺は、国枝くにえださんが座っている石っぽい円柱を横にしたようなベンチの上に、隣に並ぶように座る。


 そして、お茶を飲んでいる国枝くにえださんに話しかける。


島津しまづさん、闇金やみきんグループの組織壊滅そしきかいめつまでやってくれるっていってくれてよかったね」


 すると、国枝くにえださんが両手でペットボトルを持ちつつ、少し遠慮しているかのような目をこちらに向けて恥ずかしそうな口調くちょうで返してくれる。


「……はい、それもこれも……何から何まで……啓太郎けいたろうさんのおかげです……」


 その言葉に、俺は返す。


「いや、国枝くにえださんが勇気を出して俺に言ってくれてよかったよ。それにしても、俺のあの宝くじが当たってたってこと知ってたんだね」


「ええ……啓太郎けいたろうさんと電話番号を交換した翌日に一応……コンビニエンスストアのスポーツ新聞で知ったんですけど……ご迷惑になったらいけないと思いましたので……誰にも伝えていません……」


 俺は尋ね返す。


「お祖母ばあちゃんにも?」


「はい……お祖母ばあちゃんにもです……」


 その言葉に、俺は考える。


――ってことは、俺と国枝くにえださんをつなげる線ってのは世間には知られていないのか。


――島津しまづさんは、闇金やみきんグループの壊滅かいめつには少し時間がかかるって言ってたからな。


――仲間の報復とかもありうるから、国枝くにえださんに引っ越してもらったほうがいいってのは事実だし。


――とりあえずは、俺たち家族が元々住んでいた家に住んでもらうって手も――


 そこまで俺が考えていたところで、国枝くにえださんが夜空を見上げて口を開く。


「それにしても今日は……子供の頃からの夢が叶ってしまうなんて……思いもしませんでした……」


 その言葉に、疑問を感じた俺は尋ねる。


「……夢? 子供の頃からの夢って何?」


 すると、国枝くにえださんが穏やかな口調で答える。


「東京駅を、この目で見ることです……夢だったんですよ……子供の頃から……」


「……そうなんだ? 東京駅を見たことなかったんだ? っていうか、そんなに東京駅にこだわりあるんだね。東京駅の Suikaスイカ にも随分と関心があったようだったし」


「はい……わたしの実家だったあの旅館は……建物が建てられたのが大正たいしょう三年ですから……東京駅と同じなんですよ……だからなんとなく……この目で見たことがなかったのに……赤レンガのレトロな東京駅とうきょうえきあこがれがあったんです」


 その国枝くにえださんの言葉に、俺は息を呑む。


 ベンチに座ったまま国枝くにえださんは、夜空を見上げつつどこか声を震わせて俺に語りかける。


「あの旅館は……わたしにとって……わたしたち家族にとって……いえ、あそこで働いていらした従業員の全ての方々かたがたにとって……大切な大切な、掛け替えのない場所だったんです……。わたしは今まで……空を見上げるときは……その旅館があった昨日きのうまでのことを思い返していたんです……」


 その言葉に、俺は返す。


「えーっとさ……そんなに大切な旅館だったんだね。そういうのがあるっていうことは、とても大事なことだと思うよ」


 俺がそこまで言うと、国枝くにえださんはペットボトルを持ったまま立ち上がる。そして後ろに垂らした長い亜麻色あまいろの髪を俺に見せるかのように揺らし、ビルの上の赤い光が明滅する夜空よぞら見上みあげる。


「はい……とても大事な大事な……夢の詰まった旅館でした……でもだからこそ……そんな掛け替えのない思い出があるからこそ……わたしはもう昨日までのことを考えたりしません……わたしはこれからは空を見上げる時……その空の向こうにある明日あすさがすことにします……」


 そのしんのある確かな声に、俺は心の中で安心する。


――このは、もう大丈夫だ。


 そう思ったところ、国枝くにえださんが振り向いて、俺に対して声をかけてくる。


「だから啓太郎けいたろうさん……こんなによくしてもらって……ものすごく勝手なお願いがあるんですが……いいですか?」


――たか。


――とうとう、たか。


「ああ、こたえられることならなんでも」


 俺がそう言うと、国枝くにえださんはその西洋人形っぽい顔を少しだけ微笑ませて、その口を開く。


「もう一度……今度は日の光の下で東京駅を見てみたいので……いつかまた、ご一緒していただけませんか?」


「え?」


 俺は声を出してポカンとする。


「……だめなら、いいですけど……」


 国枝くにえださんがそう言うので、俺は焦って立ち上がりつつ返す。


「あーっ! いやいや! 大丈夫大丈夫! 約束する!」


 そう言って焦る俺の目の前で、国枝くにえださんはわずかに微笑む。


「約束ですよ……?」


――まったく、この少女は。


 俺がそう思ったところ、頭の中に考えが浮かんだ。


 その考えはおそらく、俺のよこしまこころと呼べなくもない庇護欲ひごよくの一部だったのだろうが、これくらい頼んでもバチは当たらないと思っていた。


「じゃあ、俺からも国枝くにえださんにひとつ、お願いっていうか頼みごとがあるんだけど」


 俺がそう言うと、国枝くにえださんがお澄ましがおで応える。


「……はい、なんですか……?」


 そして、俺はその要望ようぼう国枝くにえださんに伝えた。


 今俺たち家族が住んでいる家に入って、メイドとして働いて欲しいという、そのとてもではないが常識離れした意思と着想を。


 俺は、少し歯切れが悪かったものの、しっかりと自分自身の意思として伝えた。


 俺のその申し込みに対する国枝くにえださんの答えは、彼女のいつもの無表情な様子からは思いもつかないような満面の笑顔であった。


 その笑顔はまるで、鉛色なまりいろの雲の切れ間からしこんだ太陽の光によって形作られた、天使が登るための明るく輝く光の梯子はしごでできたみちであるかのようであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る