第25節 評決のとき



 暗がりの公園でいきなり土下座どげざしてきた国枝くにえださんに、俺は声をかける。

国枝くにえださん! どうしたんだよいきなり! 顔を上げてくれよ!」


 すると、国枝くにえださんが地面すれすれにまでこうべを深く下げたまま俺につたえる。

「いえ……お友達同士でお金を貸し借りするのは、あってはならないことだということは……重々じゅうじゅう承知しょうちしています……だからこそ、こうするしかないんです……」


 俺は心の中で汗をかきながら言葉を伝える。

「とにかく、顔を上げて! 地面じゃなくてベンチに座ってくれよ!」


 その俺の言葉に、国枝くにえださんが顔を上げて、立ち上がりもせずに俺にその物悲ものがなしそうな表情ひょうじょうを見せる。


 そして、涙をぽろぽろと流しつつ、捨てられた野良犬のらいぬみたいな目をして俺に告げる。


啓太郎けいたろうさん……わたしのせいなんです……わたしが変なところに履歴書りれきしょを送ってしまったばかりに……わたし、わたし……なんてことを……」

 国枝くにえださんは、無表情ないつもの様子からは想像もつかないくらいに、涙をさめざめと流し続けていた。


 俺は内心焦りつつも、しっかりと言うべきことを告げる。

「とにかくベンチに座ってよ。俺はちゃんと対等に国枝くにえださんの話を聞くから、何があったか最初から話して欲しい」


 すると、国枝くにえださんが涙を流したまま応える。

「いえ……わたしは……そんな優しい言葉をかけてもらうわけには……いかないんです……」


 その声に俺は、先ほど萌実めぐみ可憐かれんと別れ際に話していたような、穏やかな感情を、柔らかな口調をできる限り思い出して国枝くにえださんに伝える。


「言ったろ? 出来できかぎりのことはちからになるって」


 俺がそこまで言うと、国枝くにえださんは無言で立ち上がり、その私服に付いた泥を払う様子すら見せずに、ベンチにて俺と並んで座ってくれた。


 そこで国枝くにえださんが俺に伝えた事実。


 それは、線のか細い少女にはとても背負いきれないような戦慄せんりつすべき事柄であった。



 国枝くにえださんは、公営団地のポストにアルバイト募集のビラ紙が入っていたのを見つけたので、お祖母ばあちゃんに内緒でそのアルバイト先に住所やメールアドレスや電話番号などを記入した履歴書りれきしょを郵送したらしい。


 しかし、そのアルバイト募集のビラ紙はどうやら、暴力団のようなグループが個人情報を集めるためのものだったらしい。


 そして、国枝くにえださんの話によるとやっぱり、彼女は元々秩父ちちぶにて三百年続いていた『鳥之枝とりのえ温泉旅館』の元お嬢様であり、世間せけんうといところがあるらしかった。


 一昨年おととしの秋までの国枝くにえださんのお祖父じいさんが生きていた間は、旅館は見た目上は何の問題もなく運営を続けていたのだが、内情は祖父そふ浪費ろうひや経営上の無駄などが多くて火の車だったらしい。


 そして、温泉旅館のオーナーであったその国枝くにえださんの母方の祖父そふが亡くなってから、家族の皆も知らなかった総額十億円以上という巨額の借金が明るみに出たのだという。


 結果、もう経営を続けられないと判断した国枝くにえださんのお祖母ばあちゃんが温泉旅館の法人格に私的整理してきせいりの適用を受けさせてもらったのだということだ。長い付き合いだった銀行やノンバンクなどの厚意こういもあって、温泉旅館は抵当権を実行されないまま新しいオーナーが見つかるまで債務さいむが凍結され休眠状態にあるらしい。

 

 お祖父じいさんが個人名でしていた消費者金融からの借金は、借金が明るみになってから三ヶ月以内に裁判所に申し立てて相続放棄をしたのでもう払う必要はなくなっているらしい。しかし、お祖父じいさんが個人的に持っていた所有財産は一般債権者に綺麗に分配されたので、相続する財産もなくなってしまったのだという。


 そこまで国枝くにえださんが俺に伝えたところで、涙声なみだごえのまま言葉を続ける。


「でも……お祖父じいちゃんは闇金やみきんからも借金をしていたようでして……そこの人たちは……いつまでもお金を返せって言ってきまして……」


闇金やみきん……!? お祖父じいさん、そんなところからも借りてたの!?」


「はい……闇金やみきんっていうのは法律の外にあるから……相続放棄なんか関係ないって言ってきまして……それでこの市に逃げるように引っ越してきたんですが……履歴書を送ったせいで住所が向こうに知られてしまいまして……ですから、夜行やこうバスに乗るための費用を啓太郎けいたろうさんにおししていただきたかったんです……」


――え? 夜行やこうバス?


 予想外な言葉に戸惑った俺は、国枝くにえださんに尋ねる。


「それってもしかして……夜逃げのお金を貸して欲しいってこと?」


 すると、横に座っている国枝くにえださんが、涙目なみだめのままうなずく。


「はい……お父さんもお母さんも……お仕事が忙しいみたいですぐには連絡が取れなくて……できれば数万円ほど……必ずお返しいたしますから……」


――俺は温泉旅館を買い戻してもいいって思ってるんだぞ。


――ちきしょう、俺はやっぱりどこまでいっても大馬鹿おおばかだ。


――数万円のために、こんなに人間は必死になるのだということを忘れかけていた。

 

 俺は、国枝くにえださんを傷つけないように、できるだけ柔らかく言葉をかける。


「どうしても……逃げなきゃいけないの?」


 すると、国枝くにえださんがガラケーを取り出して口を開く。


「はい……闇金やみきんの人からの……脅すようなメールが……わたしだけならまだしも……お祖母ばあちゃんまで無事じゃすまないとかって……内容でして……」


「貸して」


 俺はそう国枝くにえださんに伝えて、そのガラケーを受け取る。


 そしてガラケーを開けてボタン操作をして、その業者からのメールをざっと流し見る。


 そのメールの文章は、怒りという感情なくしてはとても読むことができないような、下劣げれつ下卑げびた内容であった。


 国枝くにえださんがお金を返さないならば、祖母が交通事故にあうかもしれないとの示唆しさ


 国枝くにえださんは若い綺麗な女の子だから、大人の男性相手にいやらしいサービス業をすれば、借金くらいすぐ返せるという誘い。


 そして何より、最後に添付されていた国枝くにえださんが自宅のある公営団地近くを歩いている写真。


 その毒々しい脅迫を含んだメール内容に俺は、刀を打つときに生まれる赤いはがねのような、熱くて硬い決意が心の中に生まれていた。


――こののために、俺も覚悟を決めなきゃな。


 今まで俺は、宝くじで数百億円が当たったことによって、クラスの皆の態度がコロッと変わったことに心の中のどこかで嫌悪感けんおかんがわいていた。


 それはおそらく多分、「俺の価値はかねだけなのか?」という自分自身の価値に対するうたがいのねんから生じるものだったのであろう。


 だが、もし俺の価値が「かね」だけだったとしても。


 「かね」を持っているということは「信頼しんらい」を持っているということだ。


 つまり「誰かを助けることができる」「誰かの役に立てる」という「信頼しんらい」を持っているということだ。


 俺の持っている「信頼しんらい」が国枝くにえださんの人生を助けてくれるのならば。


 俺の持つ「信頼しんらい」が国枝くにえださんの役に立つのならば。


 たとえ、金で人の心を動かそうとしている男として軽蔑けいべつされたとしても。


 それとも、国枝くにえださんに金目当ての目で見られるようになったとしても。


 この、純真無垢じゅんしんむくな少女との透き通った関係が壊れるようなことがあったとしても。


――それで国枝くにえださんを助けられるのならば、俺は喜んでそのリスクを負ってやる。


 そこまで思った俺は、ベンチで隣に座っている国枝くにえださんにゆっくりと尋ねる。


「……国枝くにえださん、以前俺がコンビニで落とした宝くじを持って、追いかけてくれたことあったよね? 覚えてる?」


 すると、国枝くにえださんがその整った目を俺に向けながら返す。


「ああ……はい、覚えてますけど」


「あの宝くじ……アメリカの宝くじだったんだけど……実は当たってたんだよ。それで、俺は今銀行口座に使えるお金が数百億円ほどあるんだ」


――ついに言ってしまった。


 そう思ってからのしばしの静寂。


 無表情な感じで俺に顔を向けている国枝くにえださんが発した言葉は、意外なものであった。


「えーっと……知って……ますけど?」


「えぇっ!?」


 間抜けな叫び声を出してしまった俺は、驚愕きょうがくの顔を国枝くにえださんに向ける。


「なんで知ってるんだよ!? だって、家にテレビもないし、スマホも持ってないんじゃなかったのかよ!?」


 俺がそう尋ねると、俺の大声にきょとんとした国枝くにえださんが返す。


「えーっと……コンビニエンスストアのお仕事で……スポーツ新聞を整理するってのもありましたから……その時に、一面に載っていたお名前と顔で……」


 その国枝くにえださんの言葉に、俺は唖然あぜんとする。


――そうだ、さとしが教室で俺に、スポーツ新聞を広げてきたじゃないか。


――ああいうスポーツ新聞は、コンビニだったらどこだって売っている。


――だったら当然、国枝くにえださんの目にも入ったはずだ。


 俺は尋ねる。


「えっと……だったらなんで、そのことに気づいてないふりをしたの?」


 すると、国枝くにえださんが視線を逸らして若干だけうつむく。


「えーっと……啓太郎けいたろうさん……顔を見られるのが面倒だとか言ってましたよね? だから……宝くじに当たったのを……なるべく話題にして欲しくないのかなって……思ってたんです……」


――ってことは、俺が億万長者だって知ってたのに。


――しかもあの宝くじが当たってたってことを知ってたのに。


――俺に対しておんせずに一切態度を変えなかったのか。


――なんだよこの天使てんしどころか女神めがみだよ。


 そう思った俺は、ベンチから立ち上がる。


 そして、一瞬の間だけ迷ったが、国枝くにえださんに対してみぎを差し出す。


国枝くにえださん、一緒に来てくれ。俺が国枝くにえださんの困っていることをつぶしてやる」


 俺がその言葉を伝えて手を伸ばしていたところ、国枝くにえださんはおそるおそるではあるが、俺の手を取って支えにして立ち上がってくれる。


 その小さな手の感触は、あのコンビニで初めて会った日に手を握られたときの感触と寸分すんぶんたがわず柔らかく、そして温かい感触であった。


 そして俺は、毅然きぜんとその線の細い少女に告げる。


「俺が、国枝くにえださんが闇金やみきんに要求されているお金を全部払うよ。要求されている金額は全部でいくら?」


 すると、国枝くにえださんが応える。


「えーっと……利子に利子が重なって……八百万円といってました」


「大丈夫、それくらいなら今の俺だったら軽く払える! 一緒についてきて!」


 俺がそう叫ぶと、国枝くにえださんは「……はい!」とだけ言って俺の手を握ったままついてきてくれる。


 夜空の下、暗がりの公園から住宅街の道路に向かう。


 百万円以上のお金を動かすので、島津しまづさんの了解をとらなければならない。それは以前に俺がした、島津しまづさんとの約束だ。


 走る。走る。国枝くにえださんのか弱く小さな手を取って、明日に向かって疾走しっそうする。


 片側二車線道路に出たところ、ちょうど歩行者信号が赤から青に変わったところだったので、待ち時間なく二人で、俺とこの不幸だった少女とで一緒に横断歩道を駆け抜ける。


 この少女は、野良犬のらいぬのような目をしてていい少女じゃない。


 彼女は、俺が億万長者であることを知っていても普通に接してくれた。


 そして、俺に「どうするか判断するための時間」をくれた。


 その時間はもしかしたら、彼女の未来を潰すことにもなりえた時間だ。


 つまり国枝くにえださんは「俺を信じてくれた」ということだ。


 彼女が俺に対して「信頼しんらい」をくれなかったら、俺はすくわれなかった。


――彼女が「信頼しんらい」をもって俺をすくってくれたなら。


――俺も、俺をすくってくれたこの少女をすくうべきだ!


 そんな激情げきじょうある意思を胸の中であつたぎらせ、俺は彼女を不幸な少女のままにしないためにも、国枝くにえださんの手を取ってタクシーへと疾走しっそうした。


 そのタクシーで向かうべき目的地はもちろん、島津しまづさんの勤める、東京の丸の内にある大きな法律事務所であった。


 くら夜空よぞらにはすでに、やみの中にある希望を示すかのような明るい一等星が、いくつも輝いていた。

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