第17節 靴をなくした天使



 以前に俺はその少女を、高級な西洋人形のようだと比喩ひゆした記憶があるが、血の通った人間にそのようなたとえは相応ふさわしくなかったのだということを、昼間の太陽光のもとでまざまざと思い知らされた。


 後ろに亜麻色あまいろの髪を垂らし、両耳の近くからそれぞれ小さく三つ編みをって垂らしているその少女は、十二日前の晩に会ったときより玲瓏れいろうとして美しく見えた。


 その、芙蓉ふようの花のようなせんの細い色素の薄い美少女が、ほんの少しだけ赤みを帯びたほほと共に俺の元に走りよってきて、近づいてきてから発した言葉はこうだった。


啓太郎けいたろうさん……お久しぶりです……お元気でした?」


 俺はベンチから立ち上がり、内心ドギマギしながら返す。

「あ、ああ! 元気だったよ! えっと……国枝くにえださんも……元気そうでよかったよ」


 すると、国枝くにえださんが少しだけ微笑ほほえんで応える。


「ええ……何回かお電話は掛けようと思ったんですけど……啓太郎けいたろうさんの都合つごうが悪かったらいけませんでしたから……」


都合つごうって? 別にいつでも掛けてくれて良かったのに」


 俺が応えると、国枝くにえださんが返す。


啓太郎けいたろうさんは……高校生ですよね? だから……授業中とか勉強中とか……お友達と遊んでいる時間とかがありますから……いつ電話をかけたらいいのかわからなかったんです」


 その言葉に、俺は内心動揺どうようする。


「えっと……? だったら SMS でメールを送ってくれたら良かったのに」


 すると、国枝くにえださんが申し訳なさそうに返す。


「わたしはガラケーですから……スマートフォンに SMS は送れないんです。探せば方法があったのかもしれませんけど……ほら……わたし、機械オンチですから」


 その言葉に、俺は唖然あぜんとする。


――やっちまった!


 俺はなんとか言葉をしぼす。

「えっと……ってことは国枝くにえださん、ずっと連絡待っててくれてたってこと?」


 すると、国枝くにえださんは無言でこくりとうなずく。


――しまった、完璧かんぺきにやっちまった。


 そう思った俺は、弁明べんめいの言葉を出す。


「えっと……ごめんなさい。そこまで気が回りませんでした」


 俺が謝ると、国枝くにえださんは気にしないといった感じでかすかなみを見せる。


「いえ……今日きょうちゃんと連絡をいただけてよかったです……それにしても啓太郎けいたろうさん? 随分と……雰囲気ふんいき変わりましたね? イメチェンしたんですか……?」


 彼女のその言動は、俺の深くかぶっているニット帽と伊達だて眼鏡めがねを見れば、当然のことだろう。


 俺は返す。

「あー、いや。写真撮られたりして顔を知られるのがいやだからさ……色々と面倒だし」


 すると、国枝くにえださんは無表情のまま返してくる。

啓太郎けいたろうさん……顔を知られるのが……ひょっとしていやなんですか?」


――え?


 国枝くにえださんが電話番号を交換した後、公営こうえい団地だんちにあると思われる彼女の自宅に帰ってテレビを見たのだとしたら、いやおうにも宝くじが当たってからの俺の記者会見の様子が目に入ったはずだ。


 俺は、少し後ろめたく国枝くにえださんに尋ねる。

「えっと……ごめん。ひとつきたいことあるんだけど……いい?」


「ええ……なんですか?」


国枝くにえださんの家ってもしかして……テレビとか見なかったりする?」


 俺がそこまで言うと、国枝くにえださんは少しずかしそうにうつむいた。


「はい……おずかしながら……受信料じゅしんりょう節約せつやくで……テレビとかは置いてないんです……」


 その国枝くにえださんの言葉に、俺は一瞬だけ頭の中が真っ白になる。


 そして、一言だけ伝えることしかできなかった。

「えっと……とりあえず、ベンチに座って話さない?」


 国枝くにえださんは無言のまま、こくりとうなずいた。





 ベンチの隣に座った国枝くにえださんから話を聞いたところ、公営団地こうえいだんちにある彼女の家にはテレビモニターやワンセグ付き携帯電話などの日本公共放送局N K Hの番組を受信できる機器は一切置いていないらしい。


 なんでも、受信機じゅしんきを置いているだけで、裁判さいばんを起こされたら受信料じゅしんりょう裁判費用さいばんひようふくめて徴収ちょうしゅうされてしまうかららしい。


 国枝くにえださんは経済的理由から、その月々数千円の受信料をも節約しなければならないのだという。


 その言葉の内容ないように、俺は頭の中で推論すいろんを働かせる。


――ってことは、国枝くにえださんは俺が億万長者だって知らないのか。


――家にテレビもないし、スマホも持ってないんだったらそうだよな。


――なんて間抜まぬけなんだ俺は。


――そんなありえそうな可能性も想定そうていできなかった。


 俺は、ベンチのとなりにいる国枝くにえださんに顔を向ける。


 そして、国枝くにえださんはその整った清楚せいそな顔をこちらに向ける。その純真可憐じゅんしんかれんひとみの視線と、俺の後ろめたい視線とが交差する。


 俺が口を開く。

「えっと……国枝くにえださん? えっとさ……」


 すると、国枝くにえださんは至近距離で丸い目を俺に向けたまま答える。

「はい? 何でしょうか……?」


――俺、実は預金よきんが三百億円近くあるんだ。


 喉元のどもとまでその言葉が出かかった所で、俺は心のブレーキベダルを大きく踏みしめて、座ったまま腰を折り曲げて頭を抱える。


――んなこと言えるかぁー!!


 三百億円も預金よきんがあるなんて、いくら事実だとしても普通はヨタ話にしか聞こえないだろう。


 黙ってうつむいてしまった俺に、国枝くにえださんが心配そうな声をかける。


啓太郎けいたろうさん……? どうしたんですか……?」


 顔を上げた俺は、気を取り直して国枝くにえださんに伝える。

「あー、いや。だったらちょっと大変だろうなー……って思って」


 すると、国枝くにえださんは少しだけ表情を暗くする。


「去年の初めまで秩父ちちぶ実家じっかにいたころは……教育テレビとかけっこう好きだったんですけど……こちらに引っ越してきてからはさっぱりでして……ニュースの話題とかも中学を卒業してからは最新のはまったく……」


 俺は返す。


秩父ちちぶ……? 実家じっか秩父ちちぶにあるの?」


「はい……その家はもうわたしの家じゃありませんけど……お祖父じいちゃんが亡くなった一昨年おととしの秋までが少しめぐまれ過ぎていたんです……」


 そこまで言うと、国枝くにえださんはまた押し黙ってしまった。


 経験不足な高校生の頭で精一杯考えた俺は、できるだけ慎重しんちょうに言葉を渡す。

随分ずいぶんと……苦労したんだね」


「はい……お父さんとお母さんとも今は離れて暮らしていて……二人とも元気で働いてはいるんですが……お仕事しごとが忙しいみたいで中々連絡がとれないんです……」


 俺は頭の中で、国枝くにえださんが今現在置かれている状況を、懸命けんめいに推理する。


――もし高校を卒業しているのならば、中学を卒業しているなんてわざわざ言わないはずだ。


――ってことは、国枝くにえださんは高校を卒業していないってことか。


――平日の昼間に働いていたってことは、つまり。


――経済的な理由で高校に行けなかったってことか。


――なんてこった、言葉を充分じゅうぶんに選んでいかないと大火傷おおやけどするぞ。


「えーっと……」


 少しだけ考えた俺は、言葉をしぼり出す。

「あーっと……俺、実は国枝くにえださんから連絡来なかったからさ、けっこう不安だったんだよ。引越しするからっていきなり電話番号を交換して欲しいなんて言って……実は国枝くにえださんにとって迷惑だったんじゃないかな? って思ってたんだ」


 すると、国枝くにえださんが少しだけ語気を強めて返す。

「いえ……迷惑なんかじゃありません……! わたしだって……ずっとお友達が欲しかったですから……! わたし、この市に来てから啓太郎けいたろうさんに出会うまで……おずかしながら……お友達がいませんでしたから……」


 段々と小さくなるその言葉に、俺は少し焦って返す。

「あーっと! 大丈夫だいじょうぶ大丈夫だいじょうぶ! 俺の妹なんか引きこもりで友達ゼロだから! 全然大丈夫だいじょうぶ! 国枝くにえださんの方が上だから!」


 俺がそうフォローを返すと、国枝くにえださんは少しだけ微笑ほほえんでくれた。


 国枝くにえださんが俺に顔を向けつつ、柔和にゅうわな感じで話しかけてくれる。

啓太郎けいたろうさん……お姉さんだけじゃなくって……妹さんもいらっしゃるんですね……どんな方なんですか……?」


「あーっと、美登里みどりっていうんだけどね。毎日毎日、自宅で勝手気ままにごろごろしてゲームして遊んでるよ。自堕落じだらくな生活してるんで、ちょっと将来が心配なんだ」


「でも……お姉さんと妹さんとで一緒に暮らせてるってのは……素敵すてきなことだと思いますよ……? わたしは一人っ子ですから……すこしさびしいんです……」


 その国枝くにえださんのはかなげな言葉に、俺の頭の中を閃光せんこうが突き抜けた。


――さびしいって言ってる!?


――つまり、俺に助けを求めてる!?


 俺の心臓は相変わらず、ドキドキと鳴っている。


――いや、落ち着け。落ち着け。


――俺は紳士しんしとして、一人の紳士しんしとして国枝くにえださんに接しなきゃ。


――萌実めぐみにアプローチして、見事なまでに玉砕ぎょくさいした過去を忘れるな。


 なんと言おうかあれこれ言葉を考えていた俺に、国枝くにえださんが携帯電話を取り出して伝える。


啓太郎けいたろうさん……? それで……もしよろしかったら、メールアドレスを交換していただきたいのですが……」


 その言葉に、俺は焦ってスマートフォンを取り出す。


「あ! ああ! 喜んで!」


 そして俺は、あまり使ってなかったスマートフォンのメール設定を確認し、メールアドレスをお互いに交換した。


 すると、国枝くにえださんが少しだけ笑顔になる。

「これで……わたしたち……メルともですね」


「ああ、そうだね」

 俺が精一杯のぎこちない顔で返したところ、昼間の公園に音が鳴り響く。


 ぐー きゅるるる


 彼女自身の細い胴体から発せられた、腹をかせたという胃のうったえを聞き、国枝くにえださんはゆきのようなはだをしているその顔を赤らめる。


「ご、ごめんなさい……! お昼を抜いてたので……お恥ずかしいです」


 俺は口を開く。

「昼ごはん、食べてないの?」


 すると、国枝くにえださん躊躇ためらいながら返す。

「えーっと……以前にはたらいていたコンビニでお弁当をもらえなくなってしまいましたので……今までは廃棄はいきする予定のお弁当を店長さんのご厚意こういいただいていたんですけど……ちょっとそれが本部ほんぶの方に伝わって問題になってしまいまして……」


 その言葉に、俺はコンビニの中年女性が言っていた言葉を思い出す。


――そうか、国枝くにえださんがめた理由ってそれか。


――廃棄はいきする予定の弁当をもらってたってことで、働きづらくなったんだな。


 国枝くにえださんは、無言になってしまった俺の考えを察したのかこんなことを言った。


「あ……でも気にしないでください。今はもう……新しい仕事を探している最中ですので……履歴書りれきしょ丁度ちょうど昨日……新しく書いて郵送ゆうそうしたところなんですよ……」


「そうだったんだ……頑張ってるんだね」

 俺は色々と思案しあんした結果、そんな短い言葉しか返すことができなかった。


 つまり国枝くにえださんは、ちょうがつくほど貧困ひんこんな生活を送っているということだ。


 そして、俺は考える。


 あの宝くじが当たって、今の俺は億万長者になっているけど。


 もし、そのことを伝えてあからさまにアピールしたら、どうなるのか。


 もしかしたら、金で人心じんしんを動かそうとしている男として軽蔑けいべつされるかもしれない。


 それとも、目の色を変えてはじ外聞がいぶんててお金を求めてくるかもしれない。


 国枝くにえださんは俺が億万長者であることを知らないのに、普通に接してくれ、友達としての好意さえ寄せてくれている。


 そんな純粋じゅんすい無垢むく心持こころもちで俺に接してくれている人間を、むざむざと失いたくはない。


 そう思った俺は、国枝くにえださんに伝える。

「あのさ国枝くにえださん……もし、何か困ったことがあったらいつでも俺にメールしてよ。出来できかぎりのことはちからになるから」


 その言葉を聞いて、国枝くにえださんはわずかに微笑ほほえむ。


有難ありがとうございます……そう言っていただけるお友達ができて……うれしいです」


 国枝くにえださんがそこまで言ったところで、再び晴天の下の昼間の公園に、胃の音が鳴り響いた。


 ぐー きゅるるるるるる


 今度は、さっきより音が少し長かった。


 国枝くにえださんはほほを赤らめて、恥ずかしそうにうつむく。


 俺は少々焦りつつ、立ち上がりながら言葉を渡す。

「あーっと! 国枝くにえださん! ちょっとここで待ってて! 勝手に帰らないでよ! 絶対に!」


 俺の言葉に国枝くにえださんがこくりとうなずいたのを確認し、俺は公園から先ほどのコンビニまで猛ダッシュで駆けて行く。


 コンビニに入った俺は、さっきのレジ番をしていた中年女性に頼み、例の東京駅百周年記念 Suika スイカにお金を最大限度までチャージしてもらった。


 結果的にこの Suika スイカには二万円弱がチャージされ、それとは別にサンドイッチを数個、現金で購入した。


 サンドイッチを数個入れたコンビ二袋を揺らしつつ、先ほどの公園に走る。


 そこで国枝くにえださんは指先を動かして、ベンチの上にいるスズメと何やら無言でやりとりをしていた。


国枝くにえださん! よかったらこれ一緒に食べない!? 俺も実は昼飯ひるめしまだなんだよ!」


 俺がサンドイッチの入った袋を掲げると、国枝くにえださんは表情筋を少しだけ動かしてうれしそうな微笑ほほえみを見せてくれた。


 そして、昼過ぎの公園で俺は国枝くにえださんと一緒にサンドイッチを食べることになった。


 実は俺は、もうすでに昼飯を食べていたのだが、ちょっと無理をしてサンドイッチを胃の中に押し込んだ。


 なお、国枝くにえださんはパンのかけらをなついていたスズメに少しだけあげていた。


――なんていいなんだこの


――本当に、天使てんしみたいなだな。


 ベンチの上で一緒に軽い昼食を取っていた俺は、そのうち彼女と別れてそれぞれの家に帰らなければいけないことを、心の中で深く深く惜しんでいた。





 楽しい昼食時間が過ぎて、残念ではあるが国枝くにえださんと別れる運びとなった。


 片側二車線道路の歩道を並んで歩き、俺は国枝くにえださんの家があるという公営団地の入り口付近にて彼女と共に足を進めていた。


 国枝くにえださんが俺に振り向き、手を振って告げる。

「では……啓太郎けいたろうさん……今日はご連絡とお昼……有難ありがとうございました」


「あーっと、いや。こちらこそ長い事連絡しなくてごめん」

「いえ、別にかまいませんよ……少しどおしかったですけど」


 国枝くにえださんの無表情な様子に似合わないような言葉が、俺の心に刺さる。


 そして俺は自分の財布から、さきほどコンビニにて最大限度までチャージした、東京駅百周年記念 Suika スイカを取り出して、伝える。


「あーっとさ……これ、おびの気持ちって事で……受け取ってくれない? なんか、色々と苦労してるみたいだしさ」


 すると国枝くにえださんは、とんでもない、といったそぶりを見せて両手を横に振る。


「いえ……そんなわけにはいきません……! それは啓太郎けいたろうさんの大事な記念の Suika スイカじゃないですか……!?」


 俺は返す。


「いや、新しいカードをこの前に申請したばかりなんだよ。デビットカードっていう奴なんだけど……だからこのカードは、もう使わないんだ」


――嘘ではない。


 俺はついこの前に銀行で、使った分だけ現金が銀行から引き落とされる便利なキャッシュレスカード、デビットカードの発行を申請したばかりなのである。


 おそらく、この東京駅百周年記念 Suika スイカ が俺の手で使われることはもうないだろう。


 俺は言葉を続ける。


「この百周年記念の Suika スイカ国枝くにえださんがずっと見たかった奴なんだよね……? だったら国枝くにえださんの手元にあったほうが、このカードも幸せだと思う」


 俺がそこまで言うと、国枝くにえださんは表情をわずかに緩めて、俺の伝えた気持ちとともに、その Suika スイカ カードを受け取ってくれた。


有難ありがとうございます……いつか、啓太郎けいたろうさんに……何かで必ずお返しします……」


 その、無表情な少女の感謝の言葉を受け取れたこと。


 そして、俺がお金持ちかどうかに関係なくまた会ってくれるという彼女の意思。


 その二つが、俺は嬉しかった。


――俺が、あの宝くじが当たって億万長者になったってことは。


――まあ、きっかけがあれば言えばいいか。


 青々あおあおいたあめりそうにないあきれたそらの下で、俺はそんなことを暢気のんきに思っていた。




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