高山テキスタイル株式会社 -来日-
「アンニョンハセヨ、こんにちは」
昼の微睡む三時過ぎ、トレース室の扉が開くとようやく韓国からPTDoricの朴社長が入ってきた。
午前中は朴が関空に来るので送迎に空港まで行くだの、昼をどこで食べるだので豪と靖子が内線でお互いを呼びつけあってはてんやわんやで仕事にならず、ドライブ好きの博隆が何度も空港までの出迎えを名乗り出たが相手にされることはなかった。
篤郎は、栞里と朋弥、辻崎で現状のPTDoricとの問題点を上げてはノートにまとめ、打ち合わせの準備を整ていた。PTDoricには難易度の高い図案を手掛けてもらっている分ミスも多く、修正依頼に対する受け入れ態勢も言語の壁というよりはお国柄の性質の問題で、実際に検修をどのようにやっているかを見てもらえるいい機会になると篤郎は胸を膨らませて待っていたのだ。
朴に続いて豪が入って来ると改めて挨拶と紹介がそれぞれに交わされた。
「関空から結構時間かかったんですね」
十一時に韓国発の飛行機は関西空港に到着しており、結局京都駅まで豪一家が車で出迎えると昼過ぎに会社を出て行った。
「どうせどこかで美味しいお昼でもたべてきはるやろう。お酒も飲んでくるんちゃうか。朴ちゃん来たときはいっつもやで。夜は夜でまた飲みに出かけるのにな」
一家が出て行ったあと、松永豊美が過去から蓄積された鬱憤を吐き出した通りとなり、豪の顔はうっすら色づいていた。篤郎はすかさず嫌味ったらしく言うと、
「忙しい中折角来てもらったんですからお昼くらいご馳走しないとね」
豪は嫌味に気付くことなく朴を顔を合わせて笑い飛ばし、
「ちょっと家の方に戻りますんで、仲瀬さん、しばらくお願いしますね」
とトレース室を出て行った。仕事上がりの夕食会の相談よろしく、靖子の元へと軽やかに階段を下りていった。
「朴さん、美味しいもの食べてこられましたか」
篤郎がビールジョッキを口に持っていく仕草をして見せると
「ああ、ちょっとだけね。夜にまた食べに行きます。仲瀬さんは行きますか?」
「やっぱりな、松永さんの言った通りやったな」
チッと顔を歪めて栞里に言うと、すでに栞里も同じ顔をしていた。
「いや、僕は誘されてませんから。豪さんの家族とだけで行かれるんじゃないですか。それより、折角来てもらったのでいろいろ相談したいことがあるんですよ。ちょっと見てもらえますか」
豪は誘ってこないと篤郎にはなぜか絶対的な確信があった。歓迎会をするならこのトレース室のメンバーであり、家族ではない。しかし豊美曰くはこれまでにも朴の来日が何度かあったが、社員が呼ばれたことはなく、経費を使った家族の食事会に朴が参加するといったバカげたものたっだ。今回もそうであろうことは目に見えていた。
長身の朴はそろそろ還暦を迎える年相応の薄い髪と口髭の無精ひげを少し伸ばしており、目は小さく常に額に皺を寄せていた。長く日本との付き合いで大方の日本語の会話と筆記が出来るのが篤郎は羨ましく思い、今後を考えると自分も韓国語を学ばねばと学習意欲を掻き立てられた。
穏やかな面持ちから飛び出す韓国語独特のアクセントが、機嫌でも悪いのかと思わせたが改善点などの説明を聞く眼差しは真剣で、その実理解してもらうにはパソコン操作には疎く多くを得ることは出来なかった。
コンピュータトレーサーは日々パソコンの前で何時間も複雑な操作を行っているが、それはあくまで一ソフトウェアを操作しているだけで、パソコンそのものを理解している人は意外に少ない。事務所でエクセルに数値を叩いてる多くのオフィスオペレータも、ルーチンワークを知っているだけでパソコンを知っているわけではない。
インターネットのグーグル翻訳サービスを使って、日本語を韓国語に変換した文字をコピーペーストして指図を送っている事を朴に説明し、出来る事なら質問などを韓国語から日本語に変換して同じように送って欲しいというのだが、
「インターネットは関係ないですね。事務所の人たち、日本語よくわかっていません」
「だから……」
説明するのも空しくなり篤郎は考えた。
そもそも日本語環境のウインドウズ機のデスクトップで説明しても、PTDoricではマッキントッシュ機を韓国語環境で使っているので要領が掴めないことに気が付いた。さらにスカイプを説明するも機材が手元にないので、パソコンで電話が出来ると言ったところで年配の人にしてみれば手品かなにかにしか理解されないことを悟るのである。
結局朴が来日しても得ることはほとんどなく、ただ顔見知りになれたことと、共通の敵が豪であることの意見が一致した。
「豪さんはトレースの事、何もわかっていません。こうしてください、ああしてください、早くしてください、無理です。なにもかも酷過ぎます」
朴は大きくため息をついた。豪がトレースの指図をするようになってからの苦労は堪え難く、何度も電話口で口論になるも結局は仕事を受けてる立場上従わざるを得なかったことを打ち明けた。
「仲瀬さんトレースよく知ってます。仲瀬さんが指図してくださいよ。私すごく助かります」
「朴さん、出来る限りは僕も協力しますけど、豪さんから指図の仕事奪ったらあの人なにも仕事出来ないんですわ。その指図ですら仕事になってないんですけどね」
篤郎の横で栞里が失笑してしまう。
「ほんと豪ちゃんなんの役にもたたへんなぁ」
「でも、細かいところに気付いたり、絵刷りの検収はたぶんピカイチやと思うで。人の粗探しは得意なんちゃう?」
さらに栞里は大笑いした。
「いつか僕が韓国行くことがあればみんな集めて講習会とかしましょうよ。これからも長い付き合いなんで、協力し合いましょう」
「ぜひ来てください。すぐにでも来てください。仲瀬さん、歓迎しますよ」
朴が篤郎の手を強く握って握手する。
「今日夜豪さんらと飲みに行くでしょ。その時にも韓国来てくれって朴さんからも言うてくれますか。僕も何度も言ってるんですけどなかなか行かせてもらえないんですよ」
「仲瀬さん一人で来るですか? 豪さんは来なくていいです。あの人いりません」
今度は篤郎と栞里、朴が顔を合わせて大笑いした。
結局豪がトレース室に現れたのは五時過ぎで、
「今日はちょっと朴くんと出かけてくるから、その用意にちょっと早めに終わらせてもらいますわ。仲瀬さんらも適当に終わって下さい。朴くん、お母ちゃんが呼んでるんで家の方いきましょか」
そう言って朴を連れて出て行った。
栞里と顔を見合わせてて篤郎は、
「あほらしなったし、もう終わろうか。そんな急いでる仕事ないやろ?」
「ないない、結局PTほとんど休みで朝に一個送ってきただけやったし」
栞里も早速帰りの身支度で鞄にペットボトルなどを詰め込むと、周辺機器の電源を落として回った。
「つっちー、プリンタの電源切ってよい?」
栞里は複合機の前までやってくると、これまでひたすらモニタに向かって一ドットの点を編集していた辻崎が顔を上げた。
「あ、それだけ置いといてもらえますか。あとで自分で消しますわ」
フォトショップに表示されたデータを最大にまで拡大し、コンピュータグラフィックの素となるドット単位で細かな書き足し、削り取りの作業をマウスで操作している辻崎にはトレース室一同がストレスを抱えていた。紙にプリントすれば一ミリにも満たないドットの編集を、何度説得しても止めようとしない拘りは、人間でいうところの病気ではないかと篤郎は怒りも呆れも通り越して笑いのネタにするしかなかった。
翌日、朝から何の修得も得られない朴とどう接すればいいのかと考えながら篤郎が出勤すると、始業の九時過ぎに現れた豪があっさり解決してくれた。
「どうせ丸一日朴くんおってもしゃあないから、親父とお袋と嫁の三人で朴くん連れてゴルフ行きましたわ」
しれっと報告を済ませた豪は、自分だけがお留守番になったことに不満を漏らしながらインターネットでゴルフ場をグーグルマップで眺めていた。すでに前もって経費での接待ゴルフの話が出来上がっていたようだ。
「え? そうなんですか? せっかく韓国から来てもらったのにまったくの無駄足ですね」
完全な肩透かしにあって落胆する篤郎に追い打ちをかけるように、
「いつもこんなんですよ、朴くんは日本にどんな仕事があって、どれだけ自分のところに出してくれてるかをチェックしにきてるだけですわ。他の所に出してないかを探りに来てるんですわ」
豪は得意気に畳み込んだ。
そんな訳がない。篤郎は大声で反論しそうになるも一気に萎えてしまい、喉元まで出てきた言葉を飲み込んだ。
午後を過ぎ、自慢のベンツでゴルフに出かけた一行が会社の駐車場に戻ってくると、豪だけがトレース室を出ていき、帰ってくるときには靖子が京都駅まで送っていったと伝えるだけで、結局一日朴社長の顔を見ることなく韓国からの訪問劇は幕を閉じた。
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