高山テキスタイル株式会社 -革命-

 普段は終業前になると翌日回しにする検修作業が、月末になると残業をしてでも完了させる習慣がいつまでも続いていた。

 篤郎が入った最初の月末からその異様な習慣は、おかげで自分だけ残業代の手当てが付いてないことの発覚につながり、豪に問いただすと後からあわてて靖子が経理士さんが忘れてたみたいやねと苦しい弁明にやってきた。入社日に遡ってそれまでの残業手当代を受け取ったものの、豊美からはここは指摘しないとどこで誤魔化されてるかわからへんから気を付けやと物騒なアドバイスを頂いた。

 最も悲惨なのは瀬田で、入社した時からこれまでにも一度として残業代を受けたことがない。すでに社員であった知人からトラック運転手に欠員が出たからと勤務していた会社を辞めてまで転職してくると、早朝五時から浜松に走り、和歌山までは多い時で二往復、みんなの出勤前に出てきてトラックで会社に着くとすでに真っ暗な社屋だけが迎えてくれた。それでも靖子からは膠も無い説明を受ける事になる。

「あんたはトラック乗りで来てるんやから、渋滞とかあるやろ。その分差し引いたら残業代は出せへんわ」

 渋滞は勤務時間外と言うのが靖子の言い分である。会社の就業規則にはトラック運送は一日五万円の手当てを支給と書かれてあるも、創業時のあまりに過酷なトラック配送を皆が嫌がったための苦肉の策で、就業規則はその後変更されることなく今に至るが誰も指摘をしなかった。

 瀬田は入社時に誘った知人からアドバイスを受けていた。

「ここのトップは社長やのうて奥さんや。奥さんさえご機嫌取っといたら良いようにしてくれるわ」

 実際そうして給料を上げてもらう社員もいたが、瀬田はその日に靖子と衝突した。世の中金だけで人は動かない。瀬田は靖子にそれを証明したのだが、以後瀬田は日の目を見ることなく、誘った知人にも先に去られ気が付けば一番の古株となってしまっていた。


 この日も終業三十分前になると豪のモニタはデスクトップの背景画が映し出されているだけで、回転いすを揺らしながら時間を潰していた。共有フォルダには一つファイルが入っており、篤郎は自社トレースを、栞里、辻崎は検修作業を行っていた。

「豪さん、完成ファイル一個到着してるので、プリントまで出しといて下さい」

 篤郎はモニタを見据えたまま隣の豪に声を掛ける。

「え?」

 素っ頓狂な顔で篤郎に振り向くと、次の瞬間には不満そうな表情に入れ替わる。チラッと横目で豪を見るもすぐにモニタに視線を戻して同じトーンで諭すように言った。

「まだ時間あるし、修正必要になったら早めに送り返さないとなんぼでも納期遅れますよ」

「いや、これ布団柄やし、納期なんてあってないようなもんやから……」

 豪は頑として篤郎に視線を向けたままである。それすらも篤郎は無視を続けて作業の手を止めない。

「でも納期は納期ですよね。遅れて納品するより期日を守った方が信用得られますよね」

「納期納期って布団は予め多めにとってあるんやからきっちり守らんでもええんや」

「折角外注さんが早く仕上げてくれてるのに、時間余らせて明日に持ち越しって違うんじゃないですか? 今豪さんだけが手を空けてるから頼んだんですけど」

 篤郎が一気に捲し立てると、豪もさすがに腹に据えかねたのかガタリと椅子から立ち上がった。篤郎よりも数センチ身長の高い豪は、追い込まれる度に立ち上がりこれまでのパートの女性陣に威圧を与えてきた時と同じように篤郎を見下ろした。

「仲瀬さん、あれもこれもといろいろ変えようとしてくらはんのは有難いんやけど、ちょっと干渉し過ぎたはるんとちゃいますか?」

 篤郎は短くため息を吐き椅子を回して豪と向き合うと、目の前に立つ豪の顔を見上げる形になった。威圧をかけようとも道理が通らない事には憶するはずもない。せいぜい怖い顔が通じるのは女子供までで社会では通用しない。ましてや上司からの威圧や脅しは職場環境配慮義務違反に抵当する恐れもあり、これまでにどれだけこんな陳腐な手段を重ねてきたのだろうと篤郎は失笑しそうになる。

「あのね、豪さん。豪さんが和歌山行ってきたはる間に奥さんがここに来て、無駄な残業や経費を抑えるようにできひんかって言うてはったんですよ。僕が最近検修じゃなくトレースをするのも外注費を抑えるためも納期を確実にするためでもあるんです。納品を早めることは、早く手が空くことで次の仕事に取り掛かれるでしょ。それが売り上げの向上、延いては取引先との信頼を高める事にもつながるんです。今までは様子見てましたけど、奥さんは僕らの責任で売り上げが落ち込んでるみたいに言わはるからびっくりしましたわ。実際は豪さんの指揮で動いてるし、残業するのも仕事ほって帰るのも豪さんの指示ですよって言ったら息子の尻叩いてもらうのがあんたの役目でしょって僕が怒られる始末ですわ」

「そんなん何時……わし聞いてへんで」

 一瞬血の気の引いた豪の表情が、また一段と真っ赤になる。

「そもそもね、売り上げが上がるだの下がるだのをなんで専務である息子の豪さんに相談しないんですか? 家で経営者が集まってるのに社長も何も言わないんですか? なんで奥さんがこの部屋に来てまで僕らに言わはるって結局は豪さんに言っても無駄って思っておられるんじゃないですか。」

 篤郎の早口にも熱がこもる。入社して数か月では期待してなかった夏のボーナスは、自分だけではなく社員全員がもらえないことが分かり、しかも豊美に言わせるとここ数年ボーナスなんて支給されたことが無く、それについて誰も声を上げることなく大人しく従っているという。ボーナスは必ず出せねばならない法律はないまでも、売り上げが順調であれば請求として声を上げるのはごく当たり前の事。いつしかこの会社は誰一人として経営陣に声を上げるものは存在しなかった。

 現場の樹脂場作業だけに参加する社長になんの発言力もなく、実権を握る靖子にとって可愛い一人息子の豪を操り人形に仕立てている構成がおよそ見えてきた。その豪の立ち位置が会社の要であるトレース室なのだから、豪を改革させるか、あるいは指揮権を奪うかしかないのである。しかし、指揮権を奪うことは責任も伴いリスクも増える。ならば靖子の言う通り豪の尻を叩いて改革するしかない。ただし緩急は必要だ。

 篤郎は黙ったまま反撃の言葉の見つからない豪から視線を外すと、モニタに向かい作業に戻る。

「とりあえず、仕事がある以上は時間一杯まで仕事をする。少なくとも色確認してプリントするくらいは出来るでしょ。それだけでも翌日の研修が早く着手できるでしょ」

「そうですね、わかりました」

 まるで拗ねた子供が反省もないままただその場しのぎの「ごめんなさい」を言うかのような口調で言い捨てると、黙って席に戻りモニタに向かい始めた。

 共有フォルダを確認すると、先ほどまであったファイルは削除されており、終業直前に大判プリンタがヘッドを動かす機械音をたてながら色鮮やかな辻が花を彩った布団の模様を吐き出した。

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