高山テキスタイル株式会社 -ネゴシエーション-
「仲瀬さん、ちょっといいですか?」
トレース室の戸口から顔を出した豪が、篤郎を手招きした。豪はいつもみんなのいるところでは話を聞かせたくないのか、必ず呼び出すなどして個別を好む。また取引先に電話する時も時々隣の社長室に移動して電話する。多くの場合、納期遅れなどによる詫びの連絡を入れる時で、わざわざ部屋を出て行きながらも受話器を持つと大声で話すので壁越しに筒抜けとなる。
昼食休み明けの仲瀬は、栞里と安浦朋弥の三人で過去のパートの偉業話で盛り上がっていたところだったので、名残惜しそうに席を立った。
「あとでゆっくり聞かせてくださいね」
そう言い残して部屋をでると、トレース室を出た通路の階段手前で豪が待っていた。
「仲瀬さん、大賀さんの好きなものって分かります? 早いうちにお礼に行こうと思ってるんです。」
小さい声で豪が顔を寄せてきた。篤郎の身長一七三センチからもう少し長身の豪は、誰かに聞かれまいとこうして顔を近づける癖があり、正直気持ちが悪い。
「挨拶の手土産ですか? 丸藤での取引の時はそういうやり取りは嫌っておられたんですよ。受け取ると余計な義理が発生するからって」
「そうかぁ、一回どうするか相談してみますわ。それと、ちょっと母屋の方でうちのお袋が来てくれっちゅうとんのやけど、行ってみてもらえます」
「表の玄関から回ったらいいんですね?」
「そうです、給料の事と保険の話らしいですわ。判子もあれば一緒に持って行ってもらえますか」
「わかりました。判子はいつでも机に入れてるので大丈夫です」
給料面も厚遇する、最初の話ではそう上がっていたが、実際入社するまで給料をいくらにする話し合いはなかった。ようやく給料の話が出たことに安堵する篤郎だが、なぜ豪ではなく母靖子なのかと不審に思ったが、考えても始まらない。
トレース室に判子を取りに戻ると、栞里と朋弥の二人が獲物を得た様な目を向けてきた。
「豪さん何でした?」
朋弥が胸の前で両手を合わせながら目を輝かせて聞いてきた。何を期待していたのだろう。
「給料の交渉と保険の加入の話みたいですよ」
「ちゃんと言わんと値切られるから気を付けやー、最初が肝心やで」
栞里も冗談交じりに声を掛けた。
「前の会社以上は欲しいとは言うてるけどどうやろね、とりあえず行ってきますわ」
そう言って篤郎はトレース室を出た。すでに豪の姿はなく、休憩時間も終わっているのに部屋に来ない。もしかしたら家の方で一緒に待っているのかも、と急ぎ足で母屋へと向かった。
階段を下りて駐車場の坂を上がると、飛び石の玄関アプローチが篤郎を出迎え、先の玄関用網戸が締まっていた。母屋では豪夫婦に子供がいないことからか、アメリカンショートヘアのチャロが飼われており、脱走防止に常に施錠が掛けられている。
「こんにちは、仲瀬です」
呼び鈴を押さず網戸越しに声を掛けた篤郎は、つい亀岡の高山家の玄関先を思い出しながら見比べていた。上り框に大黒さんの木彫りの置物と大層な衝立が並んでいた亀岡に比べ、こちらは下駄箱上にゴルフバッグが三個並べられており無駄な装飾品は一切なく、社長邸でありながら人を迎える風体には程遠かった。
「はいはい、おまちどうさま」
抑揚のない靖子が奥の廊下から姿を現すと、網戸の施錠を外して篤郎を迎え入れた。
「今保険屋さんに来てもらってるので、どうぞ上がって下さい」
「はい、失礼します」
先客の黒い革靴の横に脱いだ靴を揃え、靖子を追って目隠しのレースの暖簾をくぐり廊下を進んだ。すぐ左手の部屋が応接間であり、中に入ると昭和のバブルを彷彿させるクリスタル製の灰皿を載せたガラステーブルと黒い革のソファというコテコテの応接セットにスーツ姿の男性が一人座っていた。壁に沿って並べたボードには高級ブランデーなどの瓶が並んでいるが、家人は飲まないのであろう、埃が積もっている。洋風なのに和風の吐き出し口の等身のガラス戸越しには玉砂利の敷かれた庭園が狭いながらもこじんまりと纏まっており、定期的に植木職人に剪定される松の木からは美しい緑芽がちらほら顔を出していた。
「こんにちは、S生命の五代と申します。よろしくお願いします」
男性は篤郎の入室に合わせて立ち上がり、胸元から取り出した名刺ケースから慣れた手つきで名刺を差し出した。
「仲瀬です。よろしくお願いします。S生命さんって法人もしておられるんですね、僕の個人契約で入ってる保険もS保険なんですよ。末永さんってご存知ですか? プライベートでもお世話になってる方なんですよ」
「末永さんですか、同じ部署で働かせていただいてますよ」
「はは、世間は狭いですね」
軽く世間話を交わしながら互いにソファに腰を下ろしたところに、コーヒーカップをトレイに乗せて靖子が入ってきた。
就業中の事故や怪我などに対する対応や離職時の退職金の説明を聞きながら、篤郎は退職金など遠い未来の話のように感じながら関心を他所に書類にサインと捺印を済ませると、五代は書類をまとめて席を立った。
「では今日からの受付として処理させていただきますので、今後ともよろしくお願いいたします」
一礼ののち応接室を出ようとする五代を玄関までと、靖子がいつもの「おほほほ」といった表情で付き添って部屋を出た。
「仲瀬さんお待たせ」
次に戻ってきた靖子の顔は先ほどまでの表情とは打って変わって真顔であり、むしろ面倒そうにも見えた。
「じゃあ仲瀬さんのお給料なんですけど、豪ちゃんは何も知らんで好きなことばっかり言ってるみたいだけど、うちの会社は儲かってないのよ」
面倒どころか盗人でも見るかのような目つきで篤郎を捉えるその口は口角を上げて笑っているように、口調はお道化ているように、しかし吐き出した言葉には険があった。
誰よりも早く来て欲しい、そう言ったのは自分ではないか。篤郎はそう声を出しそうになる。しかしここは答えず次の出方を待つしかなかった。
「でも仲瀬さんの腕を買ってるし、ごーちゃんをしっかり支えて欲しいのもあって最初はこれくらいの額でどうかしら? これ以上は厳しいのよね、うちホント儲かってないから」
靖子の一言一言に憤懣やるかたない気持ちが昂るが、給料明細は豪がこれくらいはと言っていた額面にほぼ近いものであったので、無理に値を張らず後々賃上げ請求すればいいかなと考え、
「最初はこれくらいで、また仕事内容が充実してきた際にはアップしていただけるんですかね?」
靖子の言葉を借りて言質を取ろうとすると
「うちは儲かってないから度々上げることは出来ないけど、あとは仲瀬さん次第やね」
ここぞとばかりに目を細めて「おほほほほ」と声を上げた。
会社を辞めてまで転職して入社した人間に向かい、儲かってないと連呼するこの経営者は何者なんだろうと嫌悪感を募らせるも、来てしまったからには後に引けない。この業界が斜陽産業である事も分かった上で、自分の居なかった「今まで」から、来てからの「今」なら、間違いなく「今」の方が良くなるはずだと篤郎は自分に言い聞かせた。
「わかりました。頑張って力になりますので、それでよろしくお願いします」
「こちらこそ、ごーちゃんをお願いしますね」
ようやく靖子が相好を崩したのを見て、篤郎はやっぱりもう少し額面交渉をすべきだったと後悔したが後の祭りである。
それまで一度として顔を出さなかった豪が次に篤郎の前に顔を出したのは終業間際で、
「大賀さんの手土産を買いに行ってたんですわ。明日和歌山まで一緒に挨拶に行きましょう」
給料の話には触れず、一体どこまで買いに行けばこの時間になるのだろうと篤郎は半ば呆れながら
「はい、わかりました。僕も大賀さんに紹介してもらったお礼も兼ねて紀ノ川染工を一度見てみたかったんです」
お礼ついでにこの会社の愚痴の一つも言わせてもらいたい、篤郎は心の中で呟いた。
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