高山テキスタイル株式会社 -ドライブ-
翌朝の九時丁度、篤郎がトレース室に通勤用のリュックを置いて駐車場に下りてくると、母屋の玄関前につけられたゴルフはすでにアイドリング中で、豪と靖子、そして豪の妻真理子が立ち話をしながら待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます、仲瀬さん。主人がいつもお世話になっております」
篤郎が駐車場の坂を上りながら挨拶すると、真理子が軽くお辞儀して返した。中肉中背で優しい笑顔で迎える真理子に、よくこんな平屋の家で二世帯住居に耐えながら明るくしておられるもんだなと感心し、自分が一緒に行くと知って出てきたのだろうかと、見送りに朝から母と嫁が出てくる違和感を顔に出すまいと努めねばならなかった。
「おはようございます。じゃあ行きましょうか」
豪は母と妻に手を上げ、右ハンドルの運転席に滑り込んだ。
「おはようございます。仲瀬さん、大賀さんによろしくお伝えくださいね」
眼尻に皺を寄せて微笑む靖子からは昨日の鋭い眼光は消えていた。靖子の裏の顔を見たことで、篤郎は靖子に対する警戒心が強く張りどうしても顔を強張らせた笑顔での反応となった。気付いたかどうか、靖子の顔からも笑みが消える。
「はい、では行ってきます」
篤郎が助手席に乗り込みシートベルトを着けている間、靖子と真理子は運転席側の豪の脇に移動しており、開いた窓から豪が声を掛けて車を発進させた。
「綺麗な奥さんですね、同級生だそうですね」
「えーそうですか、って誰に聞いたんですか、そんな話」
お世辞でもなく素直に言った篤郎に、満更でもないような反応を示した瞬間、低いトーンになり怪訝な顔で山道から細い車道を走らせる豪には余裕がなく前を見ながら聞いてきた。
「安浦さんだったかな、子供がいるのが僕だけやなって話の流れでそんな話が出てましたよ」
「そうですか、仲瀬さんところはお子さん何歳なんですか?」
篤郎が上げた名前のせいか、張った空気が急に和らいだ雰囲気に戻り、興味はなくも社交辞令のような会話が交わされた。もっとも朋弥の雰囲気は、誰の怒気をも吸収するような柔らかく、悪く言うと間の抜けたような、それでいて甘く優しい気持ちになるのである。
学生時代から付き合い、結婚して二十数年間、一人っ子である豪は子供に恵まれず、高山家の血筋は豪の代で絶えてしまうのだろうと思うと、真理子の笑顔の下にどれだけの苦渋を味わってきたのだろうと篤郎は思う。そう思うと子供の話は早々に断ち切って別の話題へと振ろうとするのであった。
大山崎インターチェンジから京滋バイパスを経て第二京阪道路へ進み、門真ジャンクションから近畿自動車道、そして阪和自動車と車を走らせる豪の運転は安定しており、長年走ってきた運転慣れを感じさせる。
高山テキスタイル製作所では、亀岡市から池田街道という四二三号線の峠道を抜け、阪神高速池田線から阪神高速四号湾岸線を経て泉佐野市に向かっていたため、阪神高速道路の魔の環状線での度重なる車線変更に神経を擦り減らしていた。
その点、和歌山へ向かう道は数回のジャンクションは回るものの、道はほぼ一直線上なのでいつか自分が走ることになっても安心ですねと篤郎は感想を述べ、互いに高速道路を運転する苦労話や、こんな事故を見た、覆面パトカーの特徴や過去にあった居眠り運転の話で会話は盛り上がっていた。
「トイレ休憩とかいりませんか?」
豪が気を利かせて言ってくれたのだろう。会社を出てから優に一時間を超えており、運転してもらっている豪にも休憩が必要だろうと篤郎も気を回した。
「大分走ってますもんね、一旦休憩とりましょうか」
「いつもは休憩無しで行くんですけど、紀ノ川染工着く前にいっぺんとっときましょか」
何だろうこの既視感は、と篤郎は感じた。そうだ、昨日の靖子の言葉だ。「うちは儲かってないから」と前条件を出すあの口調と一緒なのだ。親子はこういうところまで似るもんだと思うと、なんとなくその後の会話が続かなくなり、紀ノ川サービスエリアに到着するまでは助手席の窓から延々と続く山の風景を眺めながら、そういえば和歌山の丸藤紡績へ配達に行ってる時にあの下道を走っていたなと懐かしんだ。
泉佐野から上之郷インターチェンジを入って阪和道路を走る高速代を浮かして小遣いにするために、細く険しい山道をトラックで快走していた道が高速道路の脇に見え隠れするのだ。
山中渓駅の桜並木は今も健在なんだろうかと思いめぐらせている間に雄ノ山峠を見下ろす赤い高架橋に差し掛かり、豪は紀ノ川サービスエリアの駐車場へと車を滑り込ませた。
車を停めた豪の開口一番、
「ちょっとトイレ行ってきますわ。仲瀬さんも行きますか?」
「あ、行きましょうか」
休憩をとりたかったのは豪ではなかったか。一瞬唖然とする篤郎だが、紀ノ川染工に到着してからトイレに行くのも憚れるのでここは素直に従った。
用を足し終え駐車場に向かう間、篤郎はズラッと並べられた自動販売機に目をやり、一人豪に運転を任せた労いにコーヒーでも買おうかと頭に過るが、要望したことが実現したお礼にと車を走らせる豪こそが労ってくれてもいいのではないかと、ブツブツ頭を巡らせていると、
「じゃ、もうすぐなんで行きましょうか」
ポケットから出したハンカチで手を拭きながら豪が後ろから声を掛けた。
今時ハンカチをポケットに入れてるのを珍しく思い、しかしこれまでに幾度も長距離を走ってきたドライバーの習慣なのだろうと納得し、篤郎は豪の後をついていく。
和歌山インターチェンジを下りて府道を走って間もなく、当時泉佐野の染工場へ何度も足を運んだ懐かしい同じような風景が、助手席の窓から見えてきた。
プラント工場のように複雑に入り込んだボイラーの配管からは白い蒸気が上がり、全盛期に社屋の拡張を何度も行われた跡が残る継ぎ接ぎのコンクリート壁、工場への数か所の出入り口には完成品の反物を運び出すトレーラーや、原料を持ち込む業者のトラックが停まっていた。
「あそこが紀ノ川染工です。」
窓の外を無心に眺めている篤郎に気付いた豪が説明を加える。細い交差点を左折させると、工場は目の前に広がった。
「大きい工場ですね。」
感慨深く篤郎は声を吐いた。遠くまで通った和歌山の丸藤紡績株式会社が閉鎖してから数年、京都や大阪、和歌山で主要な染工場が次々に倒産、廃業していった事を瀬田から聞いていた。
毎日、しかも多い時には二往復することもあり、常に荷台はアルミ枠を満載にして走っていたのも遠い昔で、最近は週に二度走る程度まで仕事量が減り、同業者の廃業を喜んでみても分配量が増えるわけでもなく、ただただ仕事量が減るだけでしかないジリ貧な状況で、いつか国内からは染業がなくなるのではないかと危惧していると。
それでも今目の前に立っている染工場は活気があり人の動きがあり、いつまでもボイラーの白い蒸気は空高く上がっているように見えた。
車を正門横の車道に路上駐車し守衛室に来社の受付を済ませると、豪は図案の発注、色の指示などの打ち合わせを行う事務所へ篤郎を連れた。
「おおきに、こんにちは。今日は新しく入った仲瀬君の紹介とお礼に伺いました」
慣れた手つきで事務所の扉を開けると、豪は手土産の紙袋を差し出して篤郎を中へ手招いた。
「初めまして、こんにちは。高山でお世話になることになりました仲瀬です。トレースを中心に以前も同業で勤めてましたので即戦力として頑張ります。
仲瀬は入って礼をすると、事務所の奥方に立って笑っている大賀を見つけた。
「おー、わざわざ来てくれたんやね、おおきに。こちらこそまたよろしく頼むわ」
大賀は仲瀬の元に来ると、手を取り固く握手をした。
「ここではなんやし、ちょっと外でよか。ちょっと外で話してきます」
そう言い、大賀は仲瀬を事務所から連れ出した。豪は挨拶だけのつもりが納品した絵刷りの事で説明を求められており、手だけで大賀に答えた。
「どうや、高山さんはちゃんとしてくれとるか?」
大賀は心配そうに、それでいて悪戯っぽく聞いてくる。
「はい、辞めた会社分以上の給料と、豪さんの補佐みたいな役割として待遇面もよくしてもらってます。」
篤郎にも大賀が「製作所」の一件で、自分がこの高山の血筋に憂えていることに心配しているのが分かっていた。
長男の高山博康と三男の博隆は仲違いをしており絶縁に近い状態であった。豪の口からは博康のワンマンに対する蔑みと、博隆からは昔に取引を決めようとしていた丸藤紡績を、社名が似すぎていることから横取りされたと嘘か本当か笑い話のような顛末を聞かされていた。ワンマンであった博康とは正反対の博隆の口癖は、「そうや、その通りや」と誰かしらの意見に同調する様で、至って温厚である。実権はどうやら靖子であろうと篤郎は考えていた。少なくとも今自分に実害的なものはない、篤郎はそう判断していた。
「そうか、それやったらええんや。わしからも亀岡で相当ひどい目にあってるから頼むでって何度も念をおしといたんや」
「それ、よう効いてますよ。そうとう兄弟さんで仲悪いみたいですね。こっちは社長より奥さんがしっかりしてはる感じですわ。息子の豪さんはちょっと頼りなさそうですけどね」
笑いながら篤郎は、昨日の靖子とのやり取りを思い出して探るように言うと、それを察してか大賀がニヤリと笑う。
「豪君もおやっさんに引っ張られてなんも分からん状態から始めとるからな。仲瀬君がようフォローしたってくれるか。なんにせよ、よかったわ。わしも縁あってこっちで拾ってもろとるさいの。またお互い頑張ろうや」
「はい、また僕も和歌山来ることあると思いますんで、これからもよろしくお願いします」
このカラッと腹の無い大賀の性格を目の前にして、ようやく篤郎はこの業界に戻ってきて良かったと思えた。丸藤紡績時代には厳しいことも言われたし、バイクの話で盛り上がったこともある。奥さんが出来て新婚旅行でしばらく休みを取る話を楽しそうにしていた大賀と縁があって、またこうして同じ業界で仕事が出来る。
一度は辞め、取引もなくなり連絡することもない自分を、京都から遠く離れた和歌山から電話番号を消さずに残しておいてくれた大賀に、感謝の気持ちでいっぱいだった。
「さぁ、仲瀬さん、帰りましょうか。お昼なんか食べていきましょう」
豪が事務所から出てくると、仲瀬と大賀は顔を見合わせてもう一度笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます