高山テキスタイル株式会社 -イリーガルコピー-
「おはようございます」
二月某日の木曜日、本職のローテーションで休みを取った篤朗は、朝十時前にトレース室に出勤した。
会社の就業時間は朝九時から夕方六時までだが、休日の朝はゆっくり体を休めてからにした方がいいと孝子の忠告に従い、少し遅れての出勤でアルバイトに就いた。
「おはよう」
トレース室に入ると直近の優紀子がだみ声で篤朗を迎えた。モニタにはインターネットをブラウジングのご様子だ。
「おはようございます」
栞里の声も濁る。唯一ソプラノの朋弥は隔日のアルバイトで今日は休みだった。こちらのモニタには見たことのない製図のような画面で、栞里は電卓を叩きながら何かしらの数値を書き込んでいた。
「仲瀬さん、おはようございます。とりあえず今はちょっと待機中なのでこっちの席でパソコン見ててもらえますか」
豪は自分の左横の席を示し、今さっきまで開いていたインターネット画面をそっと消した。
「だいたい朝一番に韓国からデータが届くんですけど、昨日に大分終らせていて今日はちょっと待機の状態なんですわ」
フィルム時代は図案を韓国へ郵送し、納品時はフィルムと図案が返される流れであったが、現在はインターネットの普及に伴い、FTTPの光ファイバーによる通信サービスで日本、韓国間で自由にデータを送受信する事を可能にした。
「そうなんですか、分かりました。そしたらこちらのパソコン借りてちょっと環境見させてもらいますね」
「どうぞ、どうぞ」
見学に来た時からこの席は空いており、以前この席で勤めていた人が辞めたのだろうかと、マウスを動かすとスリープ状態のモニタがふっと明るくなった。
『もはや化石』
デスクトップに貼り付けられた真っ白な壁紙の中央にこの一言。
「あーそれは! 新しいパソコンに機種変更するたびにどんどん追いやられたパソコンなんです、それ」
横から覗き込んでいた栞里が、モニタを見て固まる篤朗に笑って解説した。
「あの、仲瀬さんが本格的にここ来てもらった時はちゃんとしたパソコン使ってもらいますし!」
慌てて取り成すように説明を入れる豪の態度には、親切を感じさせながらも少々やりすぎ感も否めない。その間、辻崎は何も話すことも挨拶することも無く黙々と一人モニタのドットと格闘していた。
システム情報やコントロールパネルを開きパソコンのスペックを確認しながら、素人好みのメンテナンス系のフリーウエアなどがごちゃごちゃと入っているのが気になった。トレースで使用するフォトショップを起動すると、バージョン5のダイアログに親近感を覚えて思わず笑みが出た。
「このトレース室のフォトショップって全部バージョン5ですか? 新しいのは入ってないんですか?」
「5以降のバージョンにしたらパターンが使えんなるって言われて入れてないんですわ」
渋顔で豪が答えた。
「ああ、やっぱり」
フォトショップは毎年アップグレードを重ね高機能を備える一方、これまで使い慣れた操作方法や機能をあっさり捨てることもあった。このパターンとは、複数のチャンネルデータを任意の選択範囲でパターン登録し、広範囲にそのパターンを繰り返し塗りつぶす事の出来る機能である。しかしバージョン5以降、パターンは単独チャンネルでしか登録が出来なくなり、一送りの図案を生地幅まで繰り返すトレース作業にとって、この機能を削られるのは致命的であった。
「実は僕もむこうでトレースしてる時はこのバージョンだったんですよ。ウインドウズじゃなくマックでしたけどね。でも今のCS3は処理も速くなってるので導入を検討するのもいいかと思いますよ」
当時はトレースするならマッキントッシュが定番であったが、時代と共にウインドウズマシンが急成長すると、コスト面においてもウインドウズマシンが主流となり始めた。
「そうなんですか? でも今は特にこれで困ってるってこともないんでそのままにしときますわ」
「そうですね、何でも新しいのが良いわけではないですからね」
「あと買うとお金も必要になるしね」
息を吐くように豪は呟き、ブラウジングに戻った。ここで使っているバージョン5はどこかで手に入れたものをコピーし、一つのシリアルナンバーを複数台に使用しているようで、バージョン4の本CDが棚に置かれていたが、アップグレードした形跡はない。
高山テキスタイル製作所でも、初めて訪れたときはどこかで仕入れたマッキントッシュ用バージョン三のコピーを使っていた。当時はコピーガードが無かったため、複数台に同じシリアル番号を入れて起動する事が出来た。
新しいバージョンを手に入れるため、篤朗が個人で買っていたフォトショップを会社の経費でアップグレードを順次行い、最終バージョン6まで更新した。バージョン6からは同一LAN上で複数のパソコンに同シリアルナンバーを入れることが出来なくなると、鳥養の父がどこからか複数のシリアルナンバーを送ってくるのであった。
篤朗は自分のアカウントを使って安くアップグレードが出来ることを伝えると、豪はそれならばと前向きに検討を始めた。機材は買い揃えるのに対し、無料で手に入るものには金を出さないようだ。
篤朗は早速インターネットでアドビのサポートセンターに繋ぐと、アップグレードの手続きをしようとするが、アカウント情報が思い出せない。電話によるコールセンターも用意されていたので、会社の電話を借りて電話すること数分、長い順番待ちの末回答されたのは認証できませんの一点張り。当初登録したメールアドレスが必須との事だが、プロバイダを乗り換えて数年、すっかりアカウント管理を怠ったため、メールアドレスの変更手続きを忘れていた。住所や名前まで確認できても、最期のメールアドレスが答えられないと再発行出来ないというのだ。
フォトショップとイラストレータ、一から揃えると十数万円の資産がたった一つのメールアドレスで消滅したのだ。
「だめでした。期待させてすみません。それより、今トレースの検収とかで困ってることとかないですか? せっかく来たのでなにか役立てることが出来たらいいんですけど・・・・・・」
「ティフファイル開けるソフトってあります?」
待ってましたとばかりに優紀子が椅子を回転させて篤朗に向き合う。向き合うといっても間に栞里を挟んでいるので足を蹴って椅子ごとデスクから離して回転させたのである。
TIFファイルとは高解像度の画像データを保存するファイル形式の一つであり、一般のフリーソフトウエアのビューワや、使っているフォトショップでも十分に開くはずである。
「豪さん前に言うてはったでしょ。直接TIFファイルが開けられたら便利やのにって。豪さん?」
「え? 俺? え、なんやったかいな」
決してコソコソ話をしていたわけではなく、席の離れた優紀子の声はだみ声だがよく通り、聞こえなかった振りかなと思ったが本気で聞こえていなかったようだ。優紀子がもう一度説明すると、
「そうそう、仲瀬さん、製版したデータをいじる事が出来ないんですけど、なんか方法はあるんですかね?」
豪は自分のパソコンを操作すると、問題のTIFファイルをクリックする。フォトショップが起動し、ファイルを読み込もうとするも、ファイルの容量が大きすぎるとエラーメッセ字が表示され、強制終了するまでの一部始終を確認する。
「そのデータの解像度っていくつですか?」
「720DPIなんでかなりでかいです」
「あー、フォトショップって言っても古いバージョンですからね、フリーの画像処理ソフトを探してみましょうか? 」
「ぜひお願いします」
篤郎は何しに会社に来てるんだろうという疑問が湧かなくもなかったが、目の前にある問題は今後にも影響すると判断し、インターネットで該当するフリーウェアを検索した。すぐに見つかり自分のパソコンに試しにインストールする。
社内LANで繋がれたパソコン同士で問題のデータを受け取ると、数十秒後にファイルの画像が表示された。
「おお!」
篤郎のパソコン前まで椅子を移動してきた優紀子と後ろに立った豪、そして横から栞里が同時に声を上げた。
フォトショップでトレースしたデータの解像度は、製版ソフトでインクジェット用に加工される際に720解像度に変換されてファイル容量が大きくなるため、加工後のファイルを編集しようとしても古いフォトショップでは開くことが出来ずにいた。そのため、小さな編集一つを前工程かやり直すという手間を取っていたのだが、篤郎の見つけてきたフリーウェアによって解決した。
その後、待機状態が昼休憩にまで続いたため、
「またもう少し忙しい時に出直します」
無駄に時間を過ごしても双方気を使い続けることなるだけと判断し、早々に切り上げることにした。
「いやほんと、今日みたいなんは珍しいんですよ。いつもはもう少し忙しいんですけどね」
「でもこの業界、二月から四月くらいまでちょっと暇になりません? 向こうもそうでしたし」
無駄足にさせたことに気を遣う豪に、篤郎もフォローを入れる。
「また密に連絡させていただきますので、次来た時にはもっと役立てられるように頑張りますね。あと、今度フォトショップの最新版用意しますね。ちょっと見繕ってみます」
「はい、是非お願いしますわ」
篤郎はトレース室のみんなに会釈をすると、昼食前の会社を後にした。
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