高山テキスタイル製作所 -就業-

 篤郎が高山テキスタイル製作所に勤めて五年目の夏、思い描いていた未来は訪れることなく、日々ストレスと気怠さが鬱積するばかりで、トラック運送の運転にも影響が表れていた。

 亀岡市から取引先の大阪の泉佐野にある豊橋染工場までの道のりに高速道路を利用するが、関西で最も事故の多発な阪神高速の往復路途中で重い睡魔に毎度襲われていた。途中の走行記憶が無くなり、気がつけば隣レーンまで蛇行運転、高速道路上で30キロ程の速度でのノロノロ運転を繰り返していた。数年前までは和歌山市内までもう一件の取引先があり、より遠くまで走っていた時に比べ楽になったにも関わらずである。

 原因は、その和歌山の取引先が不景気によって廃業し、仕事量が半減した事からトレースの一人当たりの配分量も減り、週の数日、しかも日に数時間しか作業時間を与えられていない篤郎に配られる図案は、納期の十分にある手の掛かる仕事ばかりとなった。

 当初にいた佳苗は篤朗が入社した数日後に、高山から納期に遅れる事が多いからという理由でその月に仕上げた柄のすべての単価を一律三十パーセント下げられ、理不尽に耐えかねて涙乍ら退職した。人数調整は高山の暴挙で成され、現在トレース職人は鳥養と阿部、そして三重県の鳥養の父親だけとなっていた。篤郎は補欠に過ぎない状態であった。

簡単で短納期の仕事を従来の外注に分配され、朝から夕方まで現場仕事をさせられた篤郎は、夕刻から深夜にかけてペンを走らせることになる。仕上がれば配当金は大きいが、仕上げる時間数や深夜残業続きでは採算が合わない。

 高山にこれまでに再三、一日トレース業務についている人に納期のある仕事を、作業時間の少ない自分に納期は短いが簡単な仕事を、と嘆願するも

「作業時間が少ないのに短納期が仕上げられるか。何度か渡してもお前ミスするやないかい!」

「手の込んだ柄を深夜までやってても納期ギリギリなんですよ? ミスって言いますが、僕に見直す時間さえあると思います?」

 入社当時は「悪いようにはせん」の効果はあった。しかしそれは束の間の事で、何かに理由をつけてトレース業務から現場に重点させるよう仕向けてきたのだ。さらに外注には配当金の請求に満額を支払うが、現場の平均収入を超える篤郎の手取り額を調整すべく、請求額を数か月に分けて支払う事もあった。

 収入は減り、残業と言ってもトレース業務は外注扱いになるため深夜零時を回ることがあっても手当ては付かず、挙句に納期に追われてのミスを生み出す悪循環に苛まれる一方。

 取引先においては製版枠を納品した際、現場が忙しいとそのまま手伝わされる悪しき慣習に遭い、往復三時間少しの距離を正午に会社を出て、帰路はどっぷり日が沈んだ夜更けになることもしばしばあった。それを高山に申告すると、山内と一緒になって

「取引先には逆らったらあかん」

 の一点張りだった。

 何もかもにも疲れ、寝てもうなされる状態でまともな睡眠が取れているはずもなく、そしていつ大事故を起こすとも限らないトラック運転の居眠り運転は休日のドライブにも影響を及ぼし、幾度となく助手席に座る長男が寝入りそうなのを阻止するという笑えない命がけな遊びを繰り返した。


 社内では篤郎が入社する前からトレース職人と現場職人との間に埋まる事のない深い溝があり、それは業界の急成長時代の経営者が時代についてこれてないのが主な原因である。

 染工業界が好景気の時代、仕事の受注は黙っていても飛び込んでくる程で、断っても納期はいいからとりあえず受けてくれ、と常に図案が手付かずで山積みにされていた。テキスタイル事業は一気に急成長し、多くの参入企業が名乗り出るほどで京都には多くの染工場が点在した。

 そうすると今度は技術職のトレース職人が引く手あまたとなり、優秀な職人は常に引き抜き合戦でより高額な条件で自社に留めようと争った。

 経営者にとっては優秀なトレース職人こそ会社の要であると主張するが、現場に言わせるとそれを製版して納品できる状態にするのは自分たちだと主張する。「ニワトリが先か、タマゴが先か」の言い合いである。

 トレース職と肉体労働で汗水たらす現場職を唯一掛け持ちで働く篤郎は、誰よりも両社の言い分を理解できていた。しかしそれ以上に、辛いトラック運送で取引先でこき使われながら手にした図案を、鳥養たちにだけ分配されて手元にはゼロを何度も経験し、それを鳥養らは当たり前のように振る舞う。

 トレース職人を恨んでいた。趣味を活かし望んで入社を決めたトレースの仕事を憎んだ。トレース職人の配当金は、現場に比べて高すぎると!


 現場でフィルムの焼き付けをする春日野雅也は、山内と同郷の福井出身で高校卒業時に一緒に入社したが、山内の厚遇の秘密を知っているだけに、自分の立場に常に愚痴を吐いていた。

 焼き付けの技術職人としての腕前は、この会社で担当している三人の中でもダントツであったが、作業のこだわりは昔気質に繊細で効率度外視のため人の半分の作業も出来ない始末であり、また他人のゴシップに目がなく、常に誰かの悪態をついてないと治まらなかったので誰からも敬遠されていた。

「まーやん(雅也)はあんまり相手にせんときや。話だしたら作業の手を止めるから仕事にならん」

 ほかの従業員は忙しい日は特に春日野を相手にしないよう気を付けていた。

 篤郎は幅広く話題のジャンルを揃えていたのと、現場の持ち場を持っておらずフリーということもあり、マニアックな春日野にとっては絶好の話し相手として、この日も焼き付け部屋でいつもの他愛もない話で過ごしていた。

「あっちゃん、上の連中ってどれくらい給料もろとんの?」

 夏のボーナスが思った以上に少なく、給料の話の流れて春日野が尋ねた。

 高山はこれまで何度も外注の請求書を元に、複数の架空請求書を作成して篤朗に清書させていたので、鳥養、阿部の毎月の収入を把握していた。この時にはすでに高山に反発し、悪事に手を貸すほど従順ではなかったが、仕事の上がり量でおよその金額は分かるので、

「だいたい五十万ほどやろ」と軽く答える。もうトレース職人に配慮はない。

「あいつらそんなもろとるん!?」

「ちょっと前は八十万ほどもろとったで」

「あっちゃんもそれくらいもろとるん?」

「現場就かされて休憩時間すら上に行かせてもらえんのにどうやって稼ぐねん」

「それだけ受注量増えたら俺らの作業も増えるんわかるやろ、それやのになんで給料固定やねん」

「阿部ちん、俺らがやらな現場の仕事なくなるやろって言うとったで。鳥養君なんかは、仕事無い月は収入ガクッと下がるから安定してないし、現場はボーナスもらてるからいいやんって。ぶっちゃけ、俺らの給料下回る月なんて見たことないけどな」

「一回斎藤のばばぁに言うたるわ。あほらしくてやってられるか!」

 会話はそこで終わり春日野は焼き付けに戻り、篤郎は現場でする仕事もなく手持ち無沙汰になったので、現場の目もないことから納期の迫った柄を心配しトレース室に向かって行った。

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