第5話木箱

 聖輝はほとんど眠れなかったために、朦朧とした頭で校門をくぐった。昨夜は自分の家のすぐ近くで殺人が起きたのだ。寝床に入ってもしばらく眠れなかった聖輝は、パトカーが現れ外がざわざわしているのもよく判った。そしていつまでも騒がしかったので、聖輝はいつまでも不安から解放されなかった。昨日の、ある一つの疑惑のために。

 運悪く、今日の一時間目は体育だった。まだ目覚めきらぬ表情のまま体育着に着替えていた聖輝は、剣也と目が合ってはっとした。

 剣也は相変わらず挨拶もしなければニコリともしない。それでも、今までは見ていても気づきもしなかった彼が、あの日―教会で出会った日―以来、度々目が合うようになっていた。聖輝はあの日一度行ったきり、教会を訪れてはいなかった。あの祈りを捧げていた時、彼と出会ったことは、いや、たまたま行った教会が彼の家だったことは、単なる偶然だろうか。

 聖輝は剣也の腕を見た。半袖のTシャツから覗く両腕は、特別太いわけでも、筋肉質なわけでもなかった。全体的に逞しい体をしていて、それは聖輝にとって眩しいほどだが、普段、体育の授業で特に目立っているわけではなく、何に対してもあまり一生懸命に取り組む人ではなかった。

 体育の授業はマット運動だった。聖輝は未だ体が目覚めぬまま、一人でマットを出しに行った。マットを一枚思い切り引っ張った。しかし少しずつしか出て来ない。聖輝はだるい体でただ無心にマットを引っ張っていた。

 上の方でガタッという物音がして何気なく見上げると、棚の上に置かれている木箱が傾いていた。マットの端が棚の脚をぐいぐいと押して揺していたのだ。聖輝はマットに手をかけたまま動けずにいた。危ないのは判っているのに体が固まってしまったようだ。箱はゆっくりと傾き、中に入っているたくさんの鉄アレイが見えた。聖輝はギョッとした。あんなに重い物が頭の上へ落ちてきたら死ぬ。逃げようかどうしようか体が迷っている。聖輝は思わず目をつぶった。

 バシッ

激しい音が頭上で響いた。聖輝は体を硬張らせたままゆっくりと目を開けた。

「危ないぞ」

剣也だった。剣也が箱を片手で支えていたのだ。その腕を見ると、普段のスラリとした腕からは想像できないほど筋肉が隆起していた。固く筋張った腕を見て、聖輝は未だ動けずに呆然としていた。

「春名」

剣也は箱を元に戻すと、自分の腕から目を離さずにいる聖輝を見た。

「え?」

目が合った。二人はしばらく見つめ合った。薄暗い体育倉庫の中、熱でもあるように呆然としている聖輝は、教会で見た時と同じくらい美しかった。剣也は思わず聖輝の髪を結っているゴムを取ってみたくなった。そしてゆっくりと剣也は手を伸ばした。聖輝は何も言わず、動かず、じっとしていた。

 すると他の生徒が体育倉庫へ向かって歩いてきた。剣也はぱっと手を引っ込めるとマットを一つさっと引っ張りだし、

「そっち持て」

と聖輝に言った。

「ああ」

聖輝はマットの端を持った。聖輝は混乱していた。剣也は人並み外れた力を持っている。しかしそれだけのことだ。何も悩む必要はない筈だった。しかし、それをなぜ隠しているのか。そしてなぜ、自分を助けてくれたのか。力を知られる危険を冒してまで。

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