第3話 テンカン

「はぁ…………」


 清々しい青空とは正反対に、非常階段の踊り場で手すりに肘をつきながら僕はため息をついた。

 同級生たちは授業中で先生の話を教室で聞いているのだろうが僕はそれどころではなくて仮病で抜け出してきている。

 その原因はもちろんあの手紙をやり取りしていた相手のことだ。


 あの日、不良グループに手紙を焼かれ相手への好意を自覚した直後、僕の中に手紙の主に直接会いたいという思いが湧いた。

 いままでは自分が変わることばかり考えて微塵も顔を合わせたいなど思わなかったのに好意を自覚した途端、生まれた情動に僕は戸惑ってしまう。


 考えてみればただの一通の手紙であんな行動を起こすなんてよほどのことである。僕は最初からあの手紙の単語、文節、文体、そのすべてから見えた相手の姿に無意識に恋をしていたのだろう。

 そして思いに負けた僕は手紙の相手に自分の心情をつらつらと書いて本に挟みこんだのだ。

 この時、僕は相手が無条件に姿を現し、自分の願いが叶うと盲目的に信じていた。

 しかし、ちょうど二週間になる今日まで本に新たな折り鶴が挟まれることはなく、僕は悶々とした日々を過ごすことになっている。


 やはり直接会いたいと申し出たのは間違いだっただろうか。

 ふとそんな考えがよぎる。

 すべては僕の妄想で相手からは既に見限られているのではないのか。

 そんな思考が頭を埋め尽くして気だるげに頭をガックリと落とした時だった。カツン、カツンと誰かが非常階段をのぼってくる音が聞こえたのは。


「奇遇ね。こんなところで会うなんて」


 気さくな調子でそう声をかけてきたのはあの生徒会長だった。

 突然の優等生の登場に僕は怪訝そうな声で訊ねる。


「授業中だろ、なにしてんだ?」

「気が乗らないから逃げてきたの。あなたはどうしてここにいるのかしら?」

「別に。優等生さんには関係ねぇよ」


 嫌味混じりに答えながら視線を彼女から逸らす。

 こんな時に殴った相手で出会うとは今日は厄日かもしれない。

 大げさにため息をついて負のオーラを発する僕に生徒会長はわざわざ踊り場まで来ると隣に立って本を静かに読み始めた。


 なぜ僕の側に来るのかわからなかったが、理由を聞くのもその場から立ち去るのも億劫で、僕はとなりの生徒会長を放置する。

 互いの存在を意識しつつも無言の時がしばらく続き、風の音だけが鼓膜を震わせる。


「私を殴ったこと後悔してる?」


 本に目を落としたまま唐突に生徒会長が呟く。

 小説の一文かなにかだと思った僕は数秒遅れてそれが自分に投げかけられたものだと気づき、彼女のほうを見る。

 同時に彼女が手にしていたドストエフスキーの罪と罰のタイトルが目に入った。


「いや、あれは俺が変わるために必要なことだったんだ。悪いとは思ってる。けど、後悔はしていない」


 そう僕は率直な意見を述べる。

 悪いことをしたとは思っているが、いまの自分が変わるためにはこれくらいのことなど平気にならないといけないから。

 だからこの問いにもしていないと答えないと僕のやったことはまったくの無意味になってしまう。それはそれで生徒会長に失礼だと思った。

 生徒会長はなにも言わずに文庫本を閉じる。


「うん。じゃあ、あなたなら任せられそうね」


 そう意味深な呟きとともに笑みを浮かべる生徒会長を僕は得体の知れない気味悪さを覚えつつ注視した。

 僕の視線に気づいた生徒会長はマジックの種明かしをする子供のように、笑いかけながらポケットから一羽の折り鶴を取り出す。


「あなたは私の望みを叶えるにふさわしい。だから最後の任務を与えます」


 そう言って生徒会長――折り鶴の手紙の相手は満面の笑みで告げた。


「私を殺しなさい」


 短く、単純明快な言葉。

 しかし、僕は一瞬なにを言われたのかわからなかった。


 なぜ折り鶴のやり取りを知っている?

 からかわれているのか?

 そもそもどうして彼女を僕が殺さなければならない?

 状況に置いてけぼりな僕に生徒会長は恋人のように身を寄せてくる。


「ねぇ、あなたはどんな風に私を殺してくれるの?」

「ッ! な、なにいってんだアンタは。やめてくれッ……」


 色気すら帯びた声で囁く声に僕は思わず彼女の手を振り払う。


「なぜ、どうして僕が君を殺さなきゃならないんだ」

「私の望みは最初から死ぬことだよ」


 なんの屈託もなく生徒会長はそう告げる。

 むしろなぜそんなことを聞くのかとばかりな表情をする生徒会長になにも言えなかったが彼女は続けた。


「でも、一人じゃ死ねないから誰かに背中を押して欲しいの」

「僕は……君を殺したいわけじゃない」


 混乱したように僕は無意識に手で髪をかきあげる。あまりに突発的な言葉の連続に処理が追いつかず、心なしか頭がズキズキと痛いような気までしてくる。

 そんな僕に生徒会長は子どもを落ち着ける母親のように優しく語りかけてきた。


「でも好きな人の願いを叶えるのは恋をした人にとって本望でしょ」

「…………」


 その言葉に僕はただ口を動かすだけでなにも答えられない。

 僕はただ、


「……考え、させてくれ」


 と答えることしかできなかった。

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