2.ザシキワラシ 事件篇



 長時間の移動の直後ということもあり、ひとまずは温泉に入ってひと息つこうということになった。何でも大浴場には露天風呂があるという。浴衣ゆかたやらタオルやらを携え、細い廊下を兄と往く。

 すると、対向方向から男女の二人連れが近づいてくるのが見えた。酷く見覚えのあるシルエットだ。だらしなく髪を長くした女と、彼女に付き従う長身で坊主頭の男。そして両者ともに、目に馴染んだ制服に身を包んでいる。二人は何事かを話し合いながら歩いていたが、ふと女のほうがこちらに気づき――、


「あら。暮樫くれがしさん……と、ええ、妹の言鳥ことりさんではないですか」


 ――それは、私たちの通う高校の生徒会長、針見はりみりよんだった。


「えっ、針見先輩……!? どうしてここに!?」


 さすがの兄も面食らった様子だった。

 私が何をしても、滅多な事では動じないというのに。…………私も今度、兄の思いも寄らぬ場所から現れてみようか。


「私たちは、ええ、生徒会の課外活動の下見でこちらに滞在しておりまして。暮樫さんたちはご旅行ですか?」

「ああ……はい。僕は妹と家族旅行で……」

「あらあら、それはよいですねえ。私たちも二人で――ええ、こちらの副会長、堂主どうず慈恩じおんさんと私とでですね、連休を利用しまして、この近辺の地域が課外活動に適切かどうか、生徒の視点から実地調査をするということを、ええ、しておりますね」


 紹介を受け、堂主副会長は無言のまま会釈した。大柄で精悍なその風貌は、生徒会役員というよりも野球部か柔道部の主将が相応しいという印象を受ける。

 兄も会話の流れで会釈を返し、


「それは偶然ですね」

「ええ、偶然ですね」


 しばし、二人で笑い合う。

 そんな偶然があるものか。



                  *



 生徒会の二人と別れ、温泉へと向かった。

 兄とは浴後にロビーで落ち合う旨を取り決め、各々浴場に入る。

 暖簾を潜るなり混雑に出くわした。脱衣所と風呂場を客がつねに出入りしており、背後の人とぶつかり合わないように気を遣う。こんなにも客が多いというのは、ここは世間では余程名の知れた宿だったりするのだろうか。私が知らないだけで。

 そそくさと体を流して髪をまとめ、湯船に浸かった。岩風呂の湯船は風情があったが、浴場一帯の湯気が濃く、頗る視界が悪い。

 薄く白濁した水面。じっとりとした硫黄の匂いが鼻腔に纏う。周囲の人々は悉く湯気に隠され、その顔貌の殆どが灰色の影と化してしまっていた。

 今ひとつ落ち着かない。


 ――時間帯を改めて入り直そうか。


 そしてここでもまた、怪異の気配を感じた。

 ゆらゆらと揺れる湯気の狭間。人ならざるものの視線を察知して私は振り返る。だが、見回してもあるのは一般客の姿ばかりだ。あるいは人間に紛れているモノがいるのか。

 怪異の正体を明かそうと私は意識を研ぎ澄ませようとする。しかし、満ち満ちた湯気と熱気が集中力を奪う。

 先程から、頭の奥が霞むような感覚が抜け切らない。

 何かがおかしい。


 ――少しのぼせたのかもしれない。


 懸念と違和感を残しつつも湯船から上がる。

 手早く浴衣に着替え、私は大浴場を後にした。



                  *



 兄とロビーで合流する。

 人混みの中に兄の姿を認めて、私は漸く安堵した。

 同じく浴衣姿になった兄と並ぶと、今更ながら旅行に来ているという実感が湧いてきた。柄にもなく気分が高揚する。

 湯上がり特有の触れる空気の冷たい感じ。自分の身から湯気が立ち昇っているような、ふわふわとした心地が妙にくすぐったい。


 何か冷たいものでも飲んで休もうかと兄が言うので、私は黙って頷く。

 私もちょうど喉が渇いていたところだった。

 横目に見た兄の表情は常の如く泰然としていて、相変わらず何を考えているのか分からない。兄妹二人きりのこの状況を、兄はどう思っているのだろう。

 私の視線に気づいた兄が、ついと私を見る。

 と思えば、数秒私を見つめて、


「言鳥」


 真剣な面持ちで呼びかける。


「な、なに」

「いやあ、言鳥の浴衣姿が可愛くて。見惚れてしまったよ」

「なっ。……に、兄さんと着てるものは同じでしょ」

「ああうん。そうだね」

「なら」

「言鳥は何を着ても可愛いけれど。和服は一段と似合うなと思ってね」


 頬がいやに火照るのは、湯に浸かりすぎた所為だろう。

 兄の変わらぬ白い肌が、今は恨めしく思えた。



                  *



「お嬢ちゃんたちは兄妹?」


 ロビーの自販機コーナー。備え付けのソファで兄と休憩していると、向かいに座っていた老婦人が声をかけてきた。私たちと同じように旅館の浴衣を着用し、柔和な笑みを湛えている。


「は、はい。そうです、けど」


 つっかえながらも私は返答する。

 何だろうか。随分と親しげな雰囲気の女性だ。

 今度は知り合いというワケではなさそうだが……。

 すると老婦人は私の不審感を感じ取ったのか、


「あら、ごめんなさいね。あんまり仲が好さそうに見えたものだから。私ったら、ついつい」

「いえ、こちらこそ……」


 こういうとき、どういったふうに会話を継げばよいものか。自然、私は俯きがちになる。人と話すのは苦手だ。かと言って、隣にいる兄は缶ジュースを片手にのほほんと構えていて当てにならない。度し難い。


「お兄さんと妹さんと、素敵ねえ。ご家族でご旅行?」


 老婦人が続けて話しかけてくる。

 素敵だと思うのであれば、どうか私などに絡んでこないでほしい。


「いえ。私たち二人だけですが……」

「あらあら。ますます仲が好いわね。羨ましいこと!」

「……それはどうも」

「私は――私はねえ。気がついたらここにいて……」


 老婦人の声が急にか細くなる。


「そうね。ここにいて――そういえば、ここは……私は何だったかしら?」

「え……?」


 次に顔を上げたとき、正面のソファには誰も座っていなかった。



                  *



 夕飯までにはまだ、だいぶ時間があった。

 私たちは少し旅館の中を見て回ることにした。

 再び、板張りの廊下を兄と歩く。長い廊下だ。足を下ろすと歪んだ音が鳴る。

 廊下の両側は座敷になっていた。突き当たりまで白い障子が隙間なく連なっている。広間に団体客が来ているらしく、並んだ障子の向こうから大人数の騒がしい気配が伝わってきていた。

 廊下の途中では幾度か宿泊客と擦れ違った。

 それはよいのだが、


「こんにちは!」

「……どうも」

「ごきげんよう?」

「……はい」


 擦れ違うたびに何故か仰々しく挨拶を投げられる。

 この旅館は陽気な客が多いらしい。

 その都度軽く返していたが、少々気疲れする。


 ――山も嫌いだが、人が多いところもまた嫌いだ。


 憂鬱になる。



                  *



 廊下を曲がったところで、膝のあたりに何かがぶつかった感触がした。

 見下ろすと、藍色の着物の少女が佇んでいた。小学校低学年くらいだろうか。胸元には、今まで何度か目にした赤い着物のキャラクター人形が抱きかかえられている。

 彼女は何か怖ろしいものにでも遭ったような目で私を仰いでいた。


「すみません、ウチの子が」


 母親と思われる女性が現れ、申し訳なさそうに頭を下げる。


「いえ」

「すみませんね」


 母親はお詫びの言葉を繰り返す。

 少女のほうは素早く母親の後ろに隠れてしまった。


「本当に失礼しました。お怪我とかなかったですか?」

「大丈夫ですよ」

「この子にはよく言って聞かせますので。すみません」

「大丈夫ですよ。気にしていませんから」


 あまり恐縮されると、私もやりづらい。

 少女はまだ私への警戒を解いていないようで、母親の腰に縋りながらじっとこちらを窺っている。しかし綺麗な着物だ。つややかな濃紺の地。細やかな刺繍。黒髪に添えられた琥珀色のかんざしがまたいっそう彩りを与えている。よく見れば、

 ……ん、角?

 瞬間、強烈な違和感に襲われた。

 ふらつく私に、振り返って兄が告げる。


「言鳥、さっきから誰と話しているんだい?」


 私は愕然とした。



                  *



 何度廊下を曲がっただろうか。

 まるで終わりのない迷路だ。山奥の旅館でこんなに廊下が長く続いているのはどう考えても可怪おかしい。入り組んだ旅館の中を、浴衣姿のままに私は駆けていた。

 兄にはすぐに戻るからと念押しし、荷物を押しつけて先に部屋へ帰ってもらった。

 大丈夫だ。私の力を以てすれば、怪異のひとつやふたつ瞬時に解決してみせる。

 心配することは何もない。


 廊下から適当な箇所で襖を開き、畳の広間へ這入はいる。

 中では多くの宿泊客が飲み食いに興じていた。騒がしい宴会場を突っ切る。駆けているうちに入浴後に留めていた髪がほどけてしまうが、構っている暇はない。ただ前だけを見て、違和感の正体を目指す。

 走っても走っても座敷が途切れることはなかった。

 旅館内部全体が異界化しているようだ。

 はじめは人間の容姿をしていた客たちが、部屋を数えるに従い次第にかたちが崩れ、異形へと成り果てる。明らかに鬼のなりをしたものや、化け狐やむじな、首だけで転がるものや、定形を保たずに浮遊するものなどがどんちゃん騒ぎを繰り広げている。

 この旅館には、怪異本来の外貌や気配を変容させる何かがあるのだ。

 故に、私もその存在に気づかなかった。気づけなかった。相当強固な力が働いていると見える。


 ――オオ、なんだなんだ。

 ――オイ、危ないじゃないか。

 ――オヤ、人の子がいるね。

 ――ヤイ、取って喰ってしまおうか。

 ――イヤ、あれは人の子じゃないよ。

 ――イヤ、人の子だろう。

 ――オイ、そっちは……。


 異形たちの声が飛び交う。突として踊り込んできた私に動揺しているようだ。私を捕えようと手を伸ばしてくるものもあったが、多少の妖怪変化は私の敵ではない。

 字面通り降りかかる火の粉を跳ね返し、雑音を振り切って、次々襖を開け放つ。

 そして、無数の座敷を抜けた頃――。

 際立って古色を帯びた襖が立ち塞がる。

 襖を勢いよく開くと、暗がりの和室にたどり着いた。

 恐らくは、ここが最奥部だろう。

 背後から照明の灯かりが差し込み、床の間に白く光を落とす。

 しんとしたその座敷の中央には――小箱が一つ置かれていた。

 それは黒い立方体だった。


「――これだ」


 絶えず漂っていた違和感の中心。

 化け物たちを人の姿へと転じさせていたからくり。

 怪異存在を隠匿するまじない道具。

 怪異に対する感覚を遮断する装置。

 私はそっと小箱へと手を伸ばす。

 が、途端にぞわり、と小箱から黒い煙が漏れ出た。


 ――オイデ。


 軋んだ声が耳に届いたときには既に遅かった。


「しまっ――!!」


 刹那、すべてが暗闇に塗り替えられる。

 忽ち四肢は自由を失い、冷たい虚空に全身が吸い込まれていくのが分かった。


「にい、さん……」


 最後に絞り出した私の声は、漆黒に掻き消された。



                  *



                  *













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