2.
放課後の教室に斜陽が差し込む。
暮れなずむ夕刻の空。
窓から覗く外の景色は不気味なまでに赤く染まっている。
校内には既に闇の幕が下りつつあり、刻一刻とその色を濃くしていた。
教室の入り口に立つ。
昼間の喧騒を忘れさせる静寂が、まるで別世界に迷い込んでしまったかの如き錯覚を惹起する。
無人と思われた教室だったが、その後方の窓際に目を遣れば――、茜空を背にして立つ人物が一人。逆光で顔は見えない。
全身を
と――、私がその人物に意識を向けたそのとき、
*
「あっ。
場違いなまでに明るい声が響いた。
否、明らかに場違いであるだろう。
声の主が、その影色の女子生徒当人だと言うのであれば尚更である。
私が教室の中央に足を踏み入れていくと、彼女も窓際を離れて私のほうへと足先を近づけてきた。光の加減が変化し、返照が淡く彼女を映し出す。
浮かび上がったのは、平均並みの背格好に茶褐色のポニーテール。
つぶらな明眸が私を捉える。
「やっほー。元気してるー?」
無意味に両手をひらひらさせて私を迎えた彼女は、しかし例によってこの世のものではない。
クラスメイトからそう呼ばれる彼女は――、いわゆる幽霊の少女であった。
*
「私はあなたと仲好くお喋りに来たのではありません」
「ええー、つれない!」
私が拒絶の意を示すと、彼女は大袈裟にショックを受けたジェスチャーを取る。
人外の戯れにいちいち付き合う義理はない。
「先の事件のこと、詳しく聞かせてもらえませんか」
「そういう難しい話ならさあ、生徒会の人に聞けばいいんじゃん。ほら――、あの生徒会長さんとか?」
「あの人に会いたくないから、あなたに訊ねているのです」
私は苛立ちを露わにする。
*
「またそんなコワい顔する。どうせ大まかな話はもう知ってるんでしょ?」
「それはまあ……、だいたいのことは。ですが――」
ひとつ嘆息する。
「――私は、あなたの口から話を聞く必要があるのです」
「うーん、そうだねえ……」
彼女は適当な机に腰かけ、耳まわりに垂れた髪を指でくるくると弄る。
「そこまで言うのなら、お返事しないわけにもいかないかな。……うん、他でもない、
彼女は今ひとつひっかかる言い方を残した。
だが、一応の了解は得られたものと解釈しよう。
私はあらためて彼女を見据える。
*
「では、先週の一連の出来事ですが……あなたはどこからどこまでかかわっていたのですか?」
「どこからって言うなら、最初からかな」
彼女は即答した。
「最初から?」
「うん。最初から」
兄が
それが最初から、というのは……須奧三埜奈と洞ノ木らが動き出した月曜日の時点から、ということだろうか。
「え、ああ違うよ違うよ。最初って言うのは、四月の始業式の日からだね」
*
「もっと正確に言うと、或人君がこの教室に来たとき、かな」
「兄さんが……」
「そうっ! 或人君がこのクラスにいることになったあのときから、わたしはわたしという自己を発見したのです!」
何故か得意げに彼女は言い放った。
*
それは兄、或人も例外ではない。
兄がこのクラスに来たことで暮樫の能力が発動し、怪異である彼女は他者に知覚され出した。そうしてクラスメイトとの生活に当たり前に混ざるようになったことで、彼女は今の姿を為すに至ったのだ。
「兄が発端というのは分かりました。が……では、須奧三埜奈とはどういう?」
「三埜奈ちゃんはね、あのクラスでのわたしの初めての友達だったの」
*
須奧三埜奈は従来、霊的な現象に過敏な体質にあった。
クラスメイトたちが怪異を知覚するようになる中で、特に賀井藤梨々に接近したのが、須奧三埜奈だったのだ。
ちょうどその折に巻き起こったのが、先月の〝学校の怪談〟騒動。
学校中が怪現象に見舞われていたあの日。
騒動により憑霊体質を刺激された須奧三埜奈は、教室で顕在化していた賀井藤梨々をその身に憑依させることとなったが――――、
「倒れていたところを発見されて、兄に保健室に運ばれたというあれですか」
「そうそう。三埜奈ちゃん、霊感は強いんだけど、感度のコントロールが上手くいかないときがあるみたいでね。たまに、自分が霊を憑依させている側なのか、憑依している霊の側なのかって、頭の中での認識がごっちゃになっていたっぽいね」
「……ああ。それで、自分が幽霊だ、などと」
須奧三埜奈が兄に相談を持ちかけていた際、自分の霊能力の未熟さを頻りに嘆いていたことを私は思い出す。
「それは分かりましたが……それがどうして、兄に相談に来ることになるのです」
「三埜奈ちゃんは、言ってくれたんだ。わたしが或人君に想いを伝えるのに協力してくれるって」
*
話を聞けば、賀井藤梨々は自分という存在を固定化するきっかけをくれた兄に、一言お礼が言いたかったのだという。
その目的のために、須奧三埜奈は自分の憑霊能力を使うことを提案した。
それは死者の代弁――いわゆる、口寄せである。
「でも、なかなか上手くいかなくってね」
「それは……そうでしょう」
兄には一切の怪異の声が聞こえない。
たとえ、その方法が人間を介する口寄せであったとしても同じことだ。
*
「そこに現れたのが洞ノ木君と烏目さんだってワケ」
洞ノ木悠星と烏目いと。
学園に突如として現れた、須奧三埜奈と賀井藤梨々の応援者。
いわく、三埜奈ちゃん応援し隊――だっただろうか。
まったく
「……結局、あの二人は何者だったのです」
「うん。洞ノ木君と烏目さんはねえ、超心理領域開発システムの技術部の特別研究員だったんだって」
*
以下要約すると――、
今回の事件は、超心理領域開発システムの組織内における内部対立が原因ということだった。
超常的な事象や技術を研究し開発する組織、超心理領域開発システム。
〈裏の業界〉において専ら〝システム社〟と称されるこの組織は、ここ
しかし一方で、システム社内には実験に慎重になるべきだという声も大きかった。
組織は実験の推進派と慎重派とに二分されていた。
……ちなみに、慎重派にいたのが、件の
*
推進派にあった技術部の二人は、実験を強行すべく、自ら生徒を装い教室に潜入。独自の心霊科学に基づく催眠技術を駆使してクラスメイトたちを洗脳した。
彼らはまず賀井藤梨々を利用し、須奧三埜奈を利用し、そして兄を利用し――、ついには私までをも利用したのである。
実験は順調に進行した。
実際、およそ一週間に渡って、四十名近い人数を一度に催眠の支配下に置いたのであるから、その技術は相当のものなのだと思われる。
ただ、技術を補強するあまり、計画の根幹である催眠術に暮樫家由来の〈山の怪異の力〉を合成したことが
*
「つまりあなたたちは組織に利用されたと、そういうことですか」
「そういうことかな……?」
彼女はきょとんとして首を傾げる。
「真面目に答えてください」
「そう言われても、わたしも詳しい事情は分からないんだよー。気がついたら始まっていて、気がついたら終わっていた感じっていうか」
「……その様子では、本当に知らないようですね」
彼女もまた実験の被害者ということか。
ここであまり追及するのも酷かもしれない。
私は思い直す。
でも。
*
「でも――、そこまで心霊主義者たちが執着したあなたは何者なのです」
「わたしは何者でもないよ」
間を置かず、彼女は至って平板な声で答えた。
瞬間、すうっと彼女の目が細くなる。
彼女の相貌が揺らいで霞んだ。
人物としての輪郭が崩れ、瞳から光が消える。
気づけば夕陽はほぼ落ちかけていた。
窓の外の藍色と教室内の薄闇の境が溶解する。
「いや……何者でもなかった、かな――そう、或人君が来るまでは」
そして彼女は語り始める。
彼女の――教室の幽霊リリーさんの物語を。
*
「もともとのわたしは、いるかいないかすら分からない〝何か〟でしかなかった」
抑揚なく彼女は語る。
淡々とした声が静寂に吸い込まれていくかと思われた。
言葉を紡ぐ口元はもう
彼女は変わらず私の正面にいるはずなのに、それが本当に彼女だったのか――記憶が、視界が、認識そのものが不明瞭になる。
*
「言鳥ちゃんも聞いたでしょ? この教室に伝わる怪談を。教室の一番後ろの席には幽霊の女の子がいて、だからその席は空けとかなきゃいけない――」
怪談の中の登場人物が自らの怪談を語る。
本来、現実ではあり得ない事象を私は看取している。
では。
私が今いるこの場所は現実か、虚構か。現実だと答えるとすれば、それを保証することは出来るのか――その思考に至ったところで、ずきりと頭の奥が痛んだ。
「一番後ろのリリーさん。わたしはそうやって語られるお話の中の存在だった」
俯く彼女の佇まいは、もはや周囲の闇と区別がつかない。
彼女だった何かが、ぐじゅぐじゅと暗い塊となって蠢く。
*
「見える幽霊でもあるし、見えない幽霊でもある。洞ノ木君たちが目を付けたのはそんなわたしの性質だったんだね。それまでのわたしは、自分の存在にどんな意味があるなんてちっとも分かってはいなかった」
たったひとり、誰からもその存在を認められることなく――、
自分が何者かも分からず、いるのかいないのかも曖昧なままに、ただ教室を
「それを変えてくれたのが、或人君。或人君の力――と言ったほうがいいのかな。或人君がこのクラスに来てくれたから、わたしはみんなの中に入っていくことが出来たの」
そう言って彼女は顔を上げた。
途端に、ぱっと白い笑みが甦った。
暗闇と一体に成りかけていた彼女の容姿が、再び元のかたちを取り戻していく。
「だから、或人君が感動系幽霊成仏ストーリーって言ってくれたときには嬉しかったんだよね。自分がクラスの物語の中心にいるんだ、っていう実感が生まれたの」
*
このクラスの生徒たちは、兄が提案し、洞ノ木悠星が構築した物語をすっかり信じてしまっていた。それはもちろん催眠による強制力もあったのだろうが、〝感動系幽霊成仏ストーリー〟という、ある種ありがちな物語の枠が生徒たちに滞りなく共通認識をもたらしていたのである。物語の登場人物を演じることで、
「そうやってどんどんわたしを認める力が強くなっていって、みんなもわたしを見てくれていて――最終的にはその力が溢れてあんなことになっちゃったんだけどね。言鳥ちゃんにはホント、迷惑かけたよ」
催眠によって存在を強められた彼女は、幽霊らしい幽霊というャラクター性を何度も上書きされ、しまいには怨霊化し、暴走した。
催眠を施した技術部の彼らは、特殊な装置によって霊視の認識を制御できると考えていたらしい。が、それもどの程度の蓋然性があっての計画だったのか――今となっては詳らかにする術はない。
*
「確かに、洞ノ木君たちがやろうとしていたことは独断的で、危険なことだったのかもしれない。だけど、あの実験を通してわたしはこの姿を得たし、今もこうしてクラスにいられている……悪いことばかりでもなかったのかなって、そう思うんだ」
クラスの人たちには悪いことしたとは思うけどね――バツの悪そうに付け加えて、彼女は笑って見せる。
「或人君のおかげだよ」
「兄のおかげ……ですか」
彼女の微笑みに、私は素直に首肯することが出来ない。
それは彼女が怪異として認められることはあっても、怪異であるという事実を覆すことにはならないからだ。
「……あなたが過去に未練を残して死んだ生徒の亡霊の成れの果てなのか、不特定多数の生徒の感情から生まれた
怪異が存在するのに理由らしい理由などない。
怪異が其処にあることに意味を求めてはいけない。
怪異と対峙するに当たっての、私の信念だ。
*
「あなたは怪異なんです。幽霊なんです。あなたの姿がどれだけ認められて、どれだけ教室の日常に溶け込んだとしても、兄にはあなたの姿は見えていないし、声も聞こえていない。それが分かって――っ」
「ありがとう言鳥ちゃん」
彼女のはっきりと強い声が、私の言葉をさえぎる。
「……でも、いいんだよ。わたしは或人君の側にいられればそれでいいの。それに、クラスのみんなは以前と同じように接してくれるし」
「それは……、兄さんが同じクラスにいるから……」
暮樫の一族の者の近くにいると、その〝力〟の影響で、周囲の人間にも霊視の能力が誘発される。兄が在籍していることによって、このクラスの生徒たちは霊的存在に対する知覚が一般より鋭くなっているのである。
その結果。この教室に所属している限り、幽霊の彼女も一般の生徒と認識の隔たりなく暮らすことができるのだ。
…………ただひとり、兄自身を除いて。
*
「以前は、わたしが話しかけても答えてくれる子は稀だったんだけど、今じゃあ普通にクラスの会話に参加できるんだよ」
「……でも、そうしているのは兄さん以外の生徒の場合でしょう?」
「うん……或人君は、どれだけ話しかけても気づいてくれないかな。わたし、ずっと後ろの席にいるんだけどねえ……。へへっ」
彼女は儚げに笑う。
その笑顔が酷く悲痛なものに見えて、私は目を逸らしてしまう。
彼女をクラスメイトの一員として認識づけているのは、兄が無自覚に発揮する暮樫一族の〝力〟によるものだ。
いわば、兄がいる世界にこそ彼女はいられる。
しかし、兄が見る世界に彼女の居場所はない。
兄は知らずに怪異を引き寄せるが、自身がそれら怪異を認識することはないのだ。
兄に群れ集う怪異の一片をも、兄の視界には入っていない。
*
「あなたは……あなたはそれでいいのですか」
「うん。それに――」
と、そこで一転して声が明るくなる。
「それに、今回のことで幾ら或人君が普段から鈍感でも、状況によってはわたしの存在に気づかなくもない……ということも分かったもんね!」
「えっ」
「要は、幽霊がいてもおかしくないっていう場面に或人君を引きずり込めばOKなワケでしょう? うん、イケるイケる!」
「ちょ――」
あのような状況、そう何度も引き起こされては堪ったものではない。
これだから兄と怪異を引き合わせるのは厭なのだ。
「ねえねえ、これはわたしにもワンチャンあるって思ってもいいんじゃない!?」
「あんまり調子に乗っていると本当に除霊しますよ……?」
「きゃーっ、コワーいッ!」
彼女はおどけた悲鳴を上げるが、本気で怖がっている様子はない。
私だって不用意に怪異を排除したくはないのだ。
特に先日の心霊スポット巡り以降、幽霊狩りは暫く御免被りたい。
それに、むやみに力を振るい、肝心なときに兄を守る余力が残っていないのであれば元も子もない。脅威となり得るのは何も直接的な怪異だけではないのだ。
兄のもとに引き寄せられてくる幽霊や妖怪に、怪異に巻き込まれ相談に訪れる一般の人々。そしてそれを利用しようと画策する〈裏の業界〉の人間たち……。
それらすべての可能性を排除しなければ、十全に安心できるとは言えない。
*
技術部の彼らは私だけでなく、兄にも何か測り知れない霊能力が備わっているに違いないと勝手に推測していたらしい。端的に言って誤解もいいところである。むしろそのレベルの判断材料で私たちに挑もうとしたことに驚嘆を禁じ得ない。
現代最新鋭の心霊科学とやらも、たかが知れているというものだ。
余談だが、今回の件について叔父に連絡を入れ問い質したところ、
「ああ、あれ。システム社の内輪揉めに手を出すほど、私も暇じゃあないよ」
そう言っていた。
……矢張り、知っていたのではないか。
私はまた小さくため息をつく。
*
「あれ? 言鳥ちゃんどうしたの、疲れた顔して?」
「誰のせいだと思っているのですか」
「え、もしかして、わたし?」
「他にいないでしょう」
どうして私のまわりの怪異は、こんなのばかりなのだろう。
疾うに日は落ちていた。
夕焼けに彩られていた外の景色は、押し並べて夜の闇に沈んでいた。
「あーあ。わたしの言葉、いつか或人君に届けられるかなぁ……」
窓越しに宵の空を見上げて、彼女が呟く。
ぽろりと漏れ出たその台詞は、彼女の本心のように思えた。
怪異の少女が伝えたかった、たったひとつの尊く凡常な想い。
それが今回の事件の始まりだった。
その声が届く日はあるのだろうか。
*
怪異のいる世界と、いない世界。
決して交わることのない二つの世界。
私は自分自身の境遇に思いを馳せる。
私の兄は怪異が視えない。
この世ならざるものたちの声を聞くことができない。
静まり返った教室に、幽霊と二人。
私と彼女は互いに何も言わず、ただじっと雲のかかる夜空を眺めていた。
*
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