2.



 ひどく眠い。

 目の奥に重い何かがこごっているようだ。

 朝の陽光がきらきらと視界を強襲して痛い。

 満たされたばかりの空腹が僕の思考力を鈍くさせた。


 ――が、そんな眠気も倦怠感も、妹と通学をともにしているという現実によって打ち消される。



                  *



 ばたばたとした朝食の時間を終え、僕たちは学校へと向かっていた。

 言鳥ことりは僕の数歩前を歩いている。

 彼女の解かれた長い黒髪が新緑の風にさらさらと流れる。


 五月中旬。


 風薫る――などとも形容される時節だが、通学路に並ぶ街路樹の葉の匂いに先月ととくべつ違った趣きがあるようには感じられない。

 学校に至る城址公園沿いの遊歩道は緩い勾配が続いていて、通学時間には少し早いのか、僕たち兄妹以外に人通りはほとんどなかった。



                  *



「ねえ兄さん、今度の休みにその……どこか、行かない?」


 僕のほうへ目を合わせずに言鳥が言った。

 それは僕からすると些か唐突な発言だった。


「うん? どこかって?」

「どこかはその……どこかでしょ」


 妹の答えは要領を得ない。


「なんだい。旅行なら行ったじゃないか、こないだの連休に」

「……あんなのを旅行と、私は認めない」


 断じて認めないから、と言鳥は力強くつけ加えた。

 彼女の中では何か確固とした線引きがあるらしい。



                  *



「というか兄さん、そうでなく」

「えーと……そうでない、というと……」

「だから旅行とか遠出でなくて、ちょっとその、もっと近場で……?」

「近場で、ねえ……」


 妹の希望には兄として最大限応じてやりたいが、『どこか』『近場で』と漠然と言われてもすぐには思い当たらない。

 この場合、何と回答するのが適切か。


「だからその……」

「その?」

「そんな旅行とかあれじゃなくて……ほら、お店で買い物とかさ、あるじゃ、ない……?」

「ああ、買い物」



                  *



 ようやく少し合点がいく。

 遠出でなく、近場で買い物。

 つまり言鳥は僕にショッピングにつき合ってほしいと言っているようだった。

 それならそうと言ってくれればいいのに。

 妹は昔からどうも言葉に足らないところがあった。


「……兄さんの察しが悪いだけでしょ」


 僕が悪いのだろうか。

 でも、妹が言うのだからそうなのかもしれない。



                  *



「それで何か大きなものでも買うの? 運ぶのに頼みにくいようなものかい?」


 我が妹は人づき合いが苦手である。

 もし何か人手が要りようなことがあっても、易々とは言い出せなかったという可能性は大いにあった。

 そう思って訊いたのだが、何故だか恨みがましい目で睨み返される。

 きりりとした瞳は今日も実にエッジが効いている。


「……兄さんがそう思っているのならそれでいいけど?」


 言鳥の態度は冷たかった。

 僕はまた何か間違っただろうか。


 ここはなんとか機嫌を直してもらえるよう言い繕うべきか、それともあえて淡白に買い物の日取り決めへと話題を移行させるべきなのか……。

 ううむ、どうすれば……。



                  *



 登校前から僕が重大事に思い悩まされていると――、


「おはよう、暮樫くれがし君」


 明るく澄んだ声が耳に飛び込んできた。同時に黒のセーラー服の女子がたたんっとステップを踏むようにして目の前に躍り出る。

 それは同じ高校の女子生徒――、クラスメイトの須奧すおう三埜奈みのなだった。


「あ、ああ。須奧さん、おはよう」


 僕の挨拶に、須奧さんは微笑みで答える。

 彼女の髪は肩までかからないくらいのやや巻き毛で、言鳥のそれとは対照的だと僕はぼんやり思った。


「暮樫君、今日の放課後もよろしくお願いするね?」

「ああうん、そうだね」

「ありがとう! それじゃ、あとでまた!」


 こちらこそよろしく――という言葉を僕が継ぐ暇もなく、須奧さんは学校のほうへと駆けていってしまった。その姿は瞬く間に遠ざかって見えなくなる。



                  *



「兄さん――、今日もまたあの人の相談を受けるの?」


 ふた呼吸ほど置いて、言鳥が僕に尋ねる。


「ううん……そうだなあ、約束してしまったしなあ」


 相談を受けたところで、僕に何ができるとも思えないが。

 それでも怪異関係の相談らしいので、このまま看過しておくのも居心地が悪い。


「気になるなら、言鳥も来るかい?」

「……ぜったい行かない」


 妹はなお不機嫌であった。



                  *



 そういえば須奧さんは随分先を急いでいる様子だった。


 スマホを取り出し確認するが、時刻は午前七時過ぎ。

 部活の朝練でもない限り、朝の学校に急を要する何があるとも思えない。

 彼女は運動部ではなかったと思ったが……。


 しかしそれ以上の想像も推察も憶測もただの一片として及ばない程度には、僕は彼女のことを何も知らなかった。



                  *



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る