8:35「スニーキングマッパーミッション」

 なんでこんなことになってしまったんだろう?


 人生で何度か考えたことがある疑問だった。


 私はこれまで品行方正に生きてきた自信がある。

 挨拶だって笑顔を忘れずしているし、オシャレに現を抜かすこともない。花瓶の水だって人知れず毎日変えている。学業だって成績を落としたことがなかった。いや、むしろ、勉強は楽しかった。だって、やったらやった分だけ目に見えて返ってきてくれる。

 けど、人間関係はそうではない。

 なにかした時間だけ無駄になることもある。積み重ねてきた友好や信頼が一瞬で崩れることすらある。


 私の当たり前が世間の当たり前ではないのは分かっている。けれど、当たり前なことができない人間がこの世には多すぎる。真面目に生きるには理不尽なことが多すぎるのだ。


 この状況もそのひとつだ。


 ロッカーに裸体の男女。ロッカー自体はとても二人の人間が入れるような大きさじゃない。そこに、無理やり入ったものだから身動きが取れないほどぎゅうぎゅう詰めに絡み合っている。マッパーマンの脈打つ心臓の音が感じとれるほどだ。

 こんなの、見つかったら一発でアウトだ。言い訳のしようがない。


 時間が経つにつれ、教室内はどんどんと賑やかになっていた。肌を撫でる喧騒が、そのひとつひとつの声がまるで熱量をもって嘲笑わらっているかのよう。さっきから心臓が胸を打ち付けっぱなしだった。


 こんなとき、歩夢あゆむがいてくれたら……と思う。


 綾崎あやさき歩夢あゆむ。後輩であり、私の唯一と呼んでいい信頼関係。

 器用とは言えないが裏表のない真っ直ぐな性格で、そんな彼女は今の私の姿を見ても笑ったりはしない。むしろ、いろいろと力を貸してくれるだろう。

 できれば連絡をとりたいところだが、まずこの状況をどうにか……。


 ……っ!


 もぞっ……、と肌を逆撫でする感覚が内ももに走る。


(おいっ動かないでくれ! さっきから時々脚が、その、内ももに……!)

(むっ。すまない。)


 なにぶん狭いロッカーだ。互いに無理な恰好をしているから体勢を変えたいのも分かる。確証はないが、わざとじゃないことも分かる。ただ、今動かれると困る。肌感覚に神経が集中して、一挙一動に過敏になっていた。


(……ねぇ、訊きたいことがあるのだけど)


 このままなにもしていないとどうにかなってしまいそうで、私はたまらず声をかけた。ロッカーの外は騒々しさがさらに増している。ちょっとした会話なら気付かれそうにない。状況を打破する妙案も思いつかない今、すこしくらい話をしても罰は当たらないだろう。


(さっき助けてくれたでしょ? その、……なんで? 貴方は見られたいんでしょ?)


 マッパーマンはまごうことなく露出狂の変態だ。裸を見せるためにこの学校に来たのだ。なら、さっきの逃亡や今こうして隠れていることは理屈に合わない気がした。


(ほう。何故とは、愚問笑止。分かりきったことをあえて訊くのは愛の告白だけで十分だぞ)

(こんなときに茶化さないで。こっちは真剣だから)

(ふっ。あえて訊くか。ならばあえて答えよう。そんなもの『キミを助けたかったから』だ。ほかになにか理由が必要か?)


 一瞬、なにを言っているのか分からなかった。

 マッパーマンの享楽を貪るその姿は、覚悟が完了してしまっている。なのに、その意志を越えて、私を助けたくて助けた、と。それではまるで……。

 急にロッカー内の湿度が上がった気がした。


(ふっ、前に言ったことをもう一度言わせようとするとは、キミも酔狂だな)

(……え?)


 マッパーマンが喋るたび、吐息が右耳にかかって、くすぐったい。

 私はすでに言葉を失っていた。


(言ったではないか。俺は露出仲間としてキミの性癖を最大限尊重すると)

(…………………ん? んん?)

 たしかに言っていた覚えはある。が、それと今の流れになにか関係があるだろうか。脈絡というか、重要な見落としというか、……嫌な予感がした。


(そう、キミは俺とは違う。裸を見られるかもしれない。けど、見られたら終わる。そのスリルが良いのであって、本当に見られたいわけではない。ゆえに助けた。それだけだ)

(……)

 マッパーマンが露出仲間と勘違いしていることを一瞬忘れていた。『あなたを助けたいためだけに助けた』などと、あまりに真剣で、あまりに当然みたいに言うから驚いてしまったではないか。


(それにしてもこのスリルの味わい方が分かってきた。なかなかの美味! 同士と一緒にかくれんぼ。裸くれんぼ……スニーキングマッパーミッション。ふっ、最高のシチュエーションだな)


(……)

 ああ、もう。やかましい。マッパーマンもうるさければ、私の心臓も無駄にうるさい。耳を塞ぎたくなるくらい。だから、どうか今はだれにも鼓動の音を聞かれないでいてほしい。


 キンコーンカンコーン……


 想いに呼び寄せられたのかのようにチャイムが鳴った。

『8:40』。HRホームルームが始まったのだ。HRが終わればそのまま一時限目の授業に移行してしまう。もう時の運に任せるしか……。


 そのとき、頭のなかで閃光のようななにかが走る。

 現状を打破する方法。それを思いついた。いや、


 おおよそ現状思いつく最低の方法で、考えるだけで胸のうちに秘めたトラウマをかるく抉った。

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