111、持たざる者が得たものは


 地面に広がった黒い池に接触する直前、アイリは落下する不安定な体勢を物ともせずに双剣を振るう。

 飛び散る火花と剣圧によってアイリの体は一瞬浮かび、斬られた部分が光のエフェクトで消滅していった黒い池は先ほどよりも小さくなっている。

 空中で一回転したアイリは、着地すると同時に再び剣に炎をまとわせ攻撃に転じるが、彼女を脅威と感じたのか黒い液状の何かはジワリと土の中に染み込んでいく。


「もう! また逃げられちゃう!」


 思わず舌打ちしそうになるアイリは、それでも諦めずに双剣を振るう。まとわせた炎が少しでも届けと腕を伸ばすが、みるみる小さくなる黒い水たまりにあと一歩届かないと思われたその時。


『あうあーっ!』


 上空にいるミユが抱いている赤子が大きな声をあげると、黄色い光が射し大地が震える。

 その瞬間、土に染み込んでいたはずの黒の液体が、まるで油に弾かれた水のように地表に現れた。


「えっ!?」


 剣を振りきった状態のアイリは、そのまま黒いものを通り過ぎてしまう。

 土の中に逃げられないと知ったのか、今度は黒い砂のような状態になり空気中に消えようとすると緑の光がそれを遮る。


「させぬ!」


「ナイス! 風の精霊王様!」


 急ブレーキをかけたアイリが再び黒いものに向かって剣を振ろうとすれば、浮き上がった黒い砂は近くに流れる小川にするりと入り、そのまま溶け込んでしまう。


『しまった! 水のがいれば!』


『ふむ、なるほどのう』


 悔しがる火の精霊王の横で、風の精霊王が何かに納得した様子で頷いている。

 小川の中に手を入れたアイリは、何度か水をすくって何か見えないかを確認しているが収穫はないようだ。


「逃げられちゃったね」


『どうやら我らの領域を介して存在しているようじゃの』


「水の精霊王様なら見つけられるとか?」


『奴らがずっとこの場にいれば……じゃの。きっともう違う場所へ移動しておる』


「だよねー」


 風の精霊王の言葉に、ガックリと肩を落とすアイリ。

 すると、ふわりと風に乗ったミユとプラノは近くで着地したと同時に、二人はアイリに怒りの視線を向ける。


「アイリ! もう、あんな危険なことをして!」


「そうですよアイリ様! お怪我なぞされましたら大変です!」


「いやぁ、でも、ほら、大丈夫だったし……」


「もう! アイリはそんな薄着なんだから、変なのが入ったりしたらどうするの!」


 薄着?と自身が装備しているビキニアーマーもどきを見て、アイリは首をかしげる。


「薄くないよ。布じゃなくて皮製の鎧なんだから。防御力もミユのローブより高いし」


「そういうことじゃなくて!」


「とーもーかーく! 風の精霊王様とも話していたんだけど、今起こったことをオリジン様に話したほうがいいんじゃない? 庭とはいえ神殿内にまで黒いのが出てきたんだから」


 話をそらすように早口で話すアイリだが、内容は正論であるためミユはこれ以上強くは言えなくなる。

 プラノは小さくうなずき、風の精霊王に話を聞きにいった。


『娘、よくやったな』


「ありがとう火の精霊王様。逃しちゃったけど、新しい技をおぼえられたから嬉しいよ」


『精霊とは少し違うようだが、その火の力は有用だ。しっかり訓練しておけよ』


「もちろん、ちゃんとやりますって」


 アイリのショートボブの髪をわしゃわしゃと撫でてやった火の精霊王は、そろそろ戻ると言って姿を消す。どこに戻るのかといえば、水の精霊王のいる湖の近くに居を構えたとのことだ。

 最近、水と火の二人がよく一緒にいるおかげで、エルフの森の一角に温泉が湧いたため、神殿では今温泉ブームが到来している。


『まっまー』


「あ、ごめんね。ご飯かな? オリジン様かな?」


『まっまー、まっまー』


 金茶色の髪をふわふわさせた赤子は、同年代に比べてやや育ったミユの胸をてしてし叩く。赤子に胸をぽよぽよされながら困った顔をしているミユに、アイリがそっと赤子の手を止めさせる。


「こーら、いくら赤ちゃんでも人妻の胸をどうこうできるもんじゃないんだぞ」


「ひ、人妻!?」


『まっま?』


 アイリの言葉にミユは顔を赤くして動揺し、エルフの神官長であるプラノは深くうなずいている。彼の中でミユは、我らが神オリジン様の伴侶……いわゆる妻であるからだ。

 心地よいおもちゃ(ミユの胸)を取り上げられて、不満げな表情の赤子にアイリが笑顔で両手を広げる。


「ほら、お姉ちゃんが抱っこしてあげるからさ。そろそろ懐いてくれてもいいんだよー」


『……あぅ』


 今までオリジンとミユ以外が抱こうとすると泣いて拒否していた赤子の精霊王は、アイリのところへそっと手を伸ばす。その様子に周りが驚く。


『おお、土の、その娘もよいのか!』


『あーあ、あぅあー』


「わぁっ! も、もしかして私の名前を呼んでくれてるとか!」


『まっま、あーあ、ないないー』


 アイリに抱かれた赤子が、深いため息を吐きながら『ないない』という新たな言葉を発しつつ首を振っている。


「あ、アイリ、ほら、赤ちゃんだから、ね?」


「アイリ様、落ち着きましょう?」


「……何? オリジン様やミユにはあるけど、私には『ないない』ってこと? ねぇ、そうなの?」


『なるほど。土のは代々、我らの中でも優しく慈愛溢れる性質の者が多い。この赤子も今代の土の精霊王ということじゃな』


 ふむふむと納得している風の精霊王のフォローなのかよくわからない言葉に、アイリは自分の中で荒ぶるものをなんとか抑え込む。彼女はこの時、スキル『鉄の意志』を会得したのだ。


「土の精霊王様、君はまだ幼いからわからないかもしれないけど、優しさというのは時に人を傷つけることもあるんだよ……」


『あーあ?』


「そう、だからね、同情で懐いてくれなくてもいいんだ。君は君の意志で『まっま』に甘えていいんだよ」


『あーあ!』


 それじゃ遠慮なくとばかりにミユの胸に戻る赤子を見送ったアイリの表情は、「高位の神官が悟りを開いた時のようだった」と、のちにプラノが一樹に報告したという。


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