episodeー2
もう一日部屋が片付くのが遅かったら、あの出版社からの電話をあの古いアパートで受けて、夜遅く帰って来る沖野を待って、すげぇだろって言えたんだろうか。
大人しく車の助手席で項垂れる上智はそんな下らない妄想をして舌を打った。
「帰る場所があるのなら、お送りしますよ?
「あるわけ……ないだろ」
「でも死ねない理由が出来たんでしょう? お家へ帰らなくて良いんですか?」
「家なんて無い」
「じゃあ、その死ねない理由と引き換えに今日の宿を提供しましょうか」
「え……?」
「一日一つ。貴方の事を教えて貰えたら、教えて貰った数の日数だけ僕の家にいて貰って構いません。今日の秘密はその死ねない理由が良いです」
変わっている。
濃紺のポロシャツとキャメル色のチノパンと言うラフな格好が似合う好青年。
果たして三十路を超えた男を青年と呼ぶのかは定かじゃないが、彼を見ていると青年と言う言葉がシックリ来る。
放っておけないにしても、自殺未遂者を自宅で何日も囲うなんて普通じゃない。
「ずっと小説を賞に出してて……やっと賞が取れた。その連絡の電話だった」
「それは凄いですね。じゃあ、今日はケーキでも買って帰りましょうか」
「え? ケーキ?」
「お祝いです。せっかくなので、僕のとっておきのワインも開けちゃいましょう」
「いやいやいやいや……赤の他人の為にそんな事してどうすんだよ? そう言うのは大事なヤツとかにしてやったら良いだろ」
「だって、今日の為に明さんはずっと頑張ったのでしょう? 今日、僕が貴方の傍にいてその事実を知ると言う事は、そこにちゃんと意味があるんですよ」
な、納得して良いのかどうなのか。
キッパリと言い切られるとそうなのか、と危うく納得しそうになるがそれとこれとは話が違うんじゃなかろうか、と思う自分もいる。
上智は展開に着いて行けないままギリギリ駆けこんだケーキ屋で好きなケーキを選ばされ、遅くまで開いているスーパーで夕飯の買い物を手伝わされ、あっという間に橋本の自宅まで連行されてしまった。
「ひっろ……流石、医者だな」
対面キッチンの隣にあるリビングには懐古趣味の家具で北欧風に纏めてある。
カフェオレ色のヴィンテージレザーのソファが一番気に入っているのだと聞かずとも分かるくらいの存在感を放っていた。
白を基調にしたその部屋には、モデルルームかと言うくらい生活感が無い。
「寝に帰るだけの無用の長物でもありますけど、今日は家があって良かったですね」
「そんな忙しいんだ……仕事」
「今日はもう呼び出されても何処へも行きませんから、安心して下さい」
「え、いや……それは行かなきゃダメだろ」
「元々今日は急患で呼び出されない様に生贄を置いて来ましたから」
「生贄て……」
知らない男と、知らない家で、グラスを突き合わせて乾杯し、上智は高そうな芳香の強い赤ワインを恐る恐る口に含む。
甘さの後から追い掛けて来る様な酸味、でもスッキリと咽喉に引っ掛かる事無く流れ落ちて行くその味は冗談じゃ無く生きてて良かったとさえ思えた。
「うま……」
「それは良かった」
「橋本さんはいつもこんなの飲んでるの?」
「安吾で構いませんよ。特別な日だけ、ですね。普段はアルコールは控えてます」
「そう……なの」
「明さんは普段から飲んでましたか?」
「あー、うん。発泡酒ばっかだったけど、賭けに勝ったら……あ、いやなんでも無い」
「賭けに勝ったら?」
畳の部屋に置いた卓袱台、レザーが好きな沖野がアウトレットで見つけて来たおよそ和室には似つかわしくない革張りのソファに凭れて、時間が合えば沖野とプロ野球中継を見るのが習慣になっていた。
どっちのチームが勝つか、その賭けに勝ったら翌日は発泡酒じゃなくてビールを飲んでも良いなんて子供みたいな遊びをしていた。
でもそれも、上智が事故に遭うまでの話だ。
「何でもないよ」
「じゃあ、明日の秘密はそれにしましょう」
「え? いや、それはちょっと……」
「じゃあ、明日は雨と言う予報ですけど野宿しますか?」
「……あんた、変わってるよな。何で俺みたいなの構うの? 金持ちの道楽?」
「今日明さんは、あの電話が鳴った途端、何かに期待しましたよね。何かを待っている様に見えました。それを見て、あぁ、やっぱりこの人はまだ決断出来てないと思ったんです」
「それはっ……」
図星過ぎて言葉に詰まる上智は、言い逃れるのもバツが悪くて黙り込んだ。
「僕は小児医療を担当していて、今日七歳の女の子がこの世を去りました。三度に及ぶ大きな手術に耐えて、一生懸命生きようとした可愛い女の子です。その子の将来の夢は海の見える教会でお嫁さんになる事だったんです」
「……」
「だから、僕はあそこにいたんです。なのに、そこで命を身勝手に捨てようとしている貴方に出逢った。大人って本当にバカですよね」
「……ごめん」
「足が悪くても、貴方にはまだやれる事があるんじゃないかって、僕は思います」
同じ様に地を這っていた青虫が、いつの間にか孵化してどんどん遠くへ飛び立っていくのが恐ろしくて仕方が無かった。
小説を書いている事は沖野には内緒にしていた。
今日の様にちゃんと言える日が来たら、ドヤ顔で言うつもりだったからだ。
ずっと予備校の講師をしていた上智は、足を悪くした後、震度4程度の地震が起きた際にバランスを崩して教壇から転げ落ち、非常時の際に責任取り兼ねると言う理由で実質解雇を言い渡される。
でも、それすら沖野には言えずにいた。
新たに仕事を探すのも読んで字の如く足枷は付いて回る。
僅かな貯金を切り崩しながら短期で家庭教師の仕事をしつつ、沖野に迷惑だけはかけない様にと思っていた。
置いて行かれたくない焦燥は、美容師として独立して仕事に奔走する沖野の背中をどんどん覆い隠して見えなくしてしまった。
「ごめん……なさぃ……」
「きっと今日、僕と明さんが出逢う事には意味があったんですよ」
橋本はそう言って子供に微笑みかける様に首を傾げて見せた。
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