蜘蛛は青い薔薇に恋をする。
篁 あれん
episodeー1
黒い鉄柵のある小高い岬の上にある教会。
裏に廻れば断崖絶壁、いつかテレビで見たいつか行ってみたい場所。
あそこにしよう。そう決めるまでにそう長い時間は掛からなかった。
事故に遭って三年目。
この完全犯罪が成功したら、二度とここには戻らない。
十八の頃から十二年一緒に住んでいる
一切合財捨てて、それすら気付かれる事が無かったら、もう終わりにしよう。
「本当に気付かないでやんの」
自分の足でここを出て行けば、沖野が追い掛けて来ない事位は分かっていた。
十二年一緒に住んだ相手が、どれだけ優しく残酷かを上智は心得ている。
高校の時からつるんで来た相棒は、意志を尊重する心優しき残酷な蝶だ。
目的地に辿り着くまでは財布とスマホ位は必要かとポケットに捩じ込んで、いつもと同じ耳障りな声で鳴く古いアパートの鉄扉を開いた。
鍵をかけて、ドアポストから鍵を放り込んだ。
杖を突いて駅まで歩き、辛うじて覚えていた地名と教会と言うキーワードだけで検索し、記憶の隅にあった何の言われも無い教会を目指して電車に揺られる。
上智にとってそれは死へ向かう最後の旅であり、そう思えばこそ何でもない車窓から見える街並みや、近くに座る老夫婦、傷だらけになった相棒が選んだオールドレザーの財布でさえ酷く愛おしく思える。
こんなものを捨てようとしているんだ、なんて今更過ぎる感慨が情けなく車窓に映る。
「死ねんのかな、俺……」
辿り着いた見知らぬ駅から悪い足を引き摺って目的の教会に着いたのは岬の先に揺蕩う海が太陽を飲んで沸き立とうとしている最中。
青い海が燃える様に赤く染まって太陽の成分が海に溶け出している様に見える。
「絶景だな……」
死ぬ前に見るには綺麗過ぎるその光景を暫く眺めて、教会の黒い鉄柵を超えようと杖を手放し左足を掛けるが、ギリギリ手が届くかどうかという高さの鉄柵をほぼ腕の力だけで登るのはかなり無理がある。
上智はこの程度の柵でさえ自分一人で超える事も出来なくなったのか、とじんわり目頭が熱くなって歯を食い縛った。
「……人としては黙って見ておくべきか、医者としては……助けるべきか?」
人の声に驚いてうっかり手を離した上智は、その場に崩れる様に尻もちをついてしまった。
「……誰? あんた」
「通りすがりの他人でしょうか」
「こんな所で何してんの?」
「それは寧ろこちらの科白なんですが」
「……別に。何だって良いだろ」
「続き、どうぞ? その間にどう対処するか、こちらも考えますので」
白々しい声でそんな事を言うその男は、ポロシャツにチノパンと言うラフな格好をしている割に育ちの良さそうな空気が駄々漏れていて、さっき医者と言っていたな、等とどうでも良い事を上智は反芻した。
「出来ればどっか行ってくんない? 見たかないだろ、知らないヤツの死ぬとこなんか」
「あ、やっぱりそのつもりなんですね」
「この状況見て、他の選択肢あんのかよ? あんた、頭大丈夫か?」
「いや、新種のリハビリかも知れないとか……まぁ、無いか」
「興味あんならそこで大人しく見てれば? もう、話し掛けないでくれると有難い」
鉄柵を掴んでもう一度登ろうと試みるが、夏の終りの太陽に焼かれた鉄柵は暫く握り締めていると手に汗が滲んでより力が入りにくくなる。
「クソッたれがっ……」
ようやく握り締めた鉄柵にしがみ付く事が出来た時、ポケットに捩じ込んでいたスマホが鳴った。
沖野――――?
あるわけないのに。
あいつが電話して来るなんて、万に一つもある訳ないのに期待してしまった。
せっかくよじ登った鉄柵から手を離して、半ば落下した上智は落ちた衝撃も構わずにポケットのスマホを慌てて確認した。
知らない番号だった。
「も、もしもし――?」
『あ、上智利秋さんの携帯でしょうか? 私、角海出版の――』
死のうとした矢先、鳴かず飛ばずだった小説の投稿作品が大賞を受賞した。
「はい、はい、では……また……」
「死ねない理由が出来たみたいですね」
「あんた、まだ居たの?」
「興味があるなら見てて良いと言われましたから」
「趣味悪いね」
「人としては黙って見ておく方が良いと思ったんですが、僕は一応これでも医者なんで、これを見過ごして良いものかどうか考えてました」
「良いんじゃねぇの? つか、人として、医者としてって何なの? 別に助けて欲しいなんて俺は思ってない」
「でも貴方を見ていると、男としては持って帰って優しくしてあげるべきじゃないかと思うんです」
「はっ!? あんた、そっちの人なの?」
「そっちとは、どっちです?」
天然なのか、計算なのか、良く分からない。
名前も知らない医者だと宣うその男は上智を軽々と抱き上げて有無を言わさず教会の表にある駐車場まで来ると、車に乗せた。
「いや、ちょ、杖返せよ! どこ連れて行く気だ!」
「死ねない理由が出来たんでしょう? なら、今夜の晩御飯も必要だ。お腹が空いているとロクな事考えませんから、これも何かの縁ですよ」
人を騙したりなんて事には無縁そうな清楚な笑顔だった。
車中では殆ど口を利かなかったのに、「あ」と思い出したように名前を聞かれた。
本名を名乗るのが嫌だったわけでもないのだけれど、上智利秋じゃない人間になりたかったのかも知れない。
上智は咄嗟に「
「星野、明さん。綺麗な名前ですね。僕は
「安吾って坂口安吾の安吾?」
「えぇ、祖父が坂口安吾のファンだったそうで」
そんな他愛も無い話をしている自分が滑稽で、上智はこれが本当の死にぞこないだ、と嘲笑を漏らした。
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