第一楽章 "Barcarolle" ―舟歌―

 黒江美紗くろえみさ真白聖司ましろさとしピアノ・デュオ 


 掲示板に貼り出された名前を見つけたとき、こめかみにぎゅっと熱っぽい痛みが走った。

 よかった、という安堵と。

 こんなのは望んでいないという落胆と。

 ふたつの感情が押し寄せて、思わず立ってはいられなくなる。

 九月の定期演奏会で、わたしが狙っていたのは、中高のピアノ科六〇名のうち二名しか選ばれない独奏ソロだった。二重奏デュオじゃない。


『黒江、今どこ? 朝練、もうすぐ始まるよ』


 メッセージをくれた吉野よしのに、『もうすぐ着く』とだけ返して、端末をバックに突っ込み、階段をのぼる。手すりを握る手には嫌な汗が滲んでいる。

 練習で手を抜いたことはなかった。学期始めにあったオーディションでもしっかり弾けた自信があるし、自分が独奏希望であることは以前から先生たちにも伝えていた。それなのに、どうして。

 息を切らしたわたしは階段の踊り場でしゃがみこみ、膝に顔をうずめた。泣き出しそうになってしまって、ぎゅっと唇を噛む。どこがだめだったんだろう。何がよくなかったんだろう。次々と生産性のない問いが浮かぶばかりで、ちっとも頭が回らない。

 ただ、選ばれたのは、わたしじゃなかった。

 わたしじゃ、なかった。

 突きつけられたその事実だけで、くずおれてしまいそうになる。


「……ピアノ?」


 微かな旋律が聞こえてきたのはそのときだった。防音設備が整っているはずの練習棟で音が漏れるなんて普通は考えられない。きっと窓を開けてしまっているのだろう。

 ソスヌテートの静かで、陰影のある響き。

 ショパン、24の前奏曲『雨だれ』。

 こんな晴れた日にどうして雨だれなんか。そう思ったけれど、あとからしてみれば、少しだけ暗示的でもあった。それからの彼との日々は、思い出すといつも微かな雨音に包まれている。

 とにかく、ショパンの雨だれだった。

 わたしが聞いた、はじめての彼のピアノは。

 晴天の中遠雷が響くような、少し不穏な、雨だれ。



 常磐ときわ音大付属高等学校は、千代田線の根津駅を降りて、十分ほど歩いた場所にある、六年制の中高一貫校だ。

 下町情緒溢れる根津の通りから少し奥まった場所に立った校舎は、もとは大正時代に建てられた男爵邸で、そのまま文化財にでもなりそうな趣がある。内装は現代向けに改修されていたが、チャイムはレトロなオルゴールがそのまま使用されていた。りん、らん、ろん、ろん。独特のチャイムが響いている中、わたしは教室の引き戸を開ける。


「おはよう、黒江。あんた、朝どうしたの?」

「ごめん。ちょっと電車に乗り損ねた」


 幸いにも担任はまだ来ていなかった。ホームルーム前の教室は、いつもの喧騒に包まれている。結局朝練に顔を出さなかったわたしは、声をかけてきた級友の吉野に適当な言い訳をして、席に座った。


「それはそうと、あんたさ。お相手が決まってたね」

「お相手?」

「定演の。掲示板に貼り出されてたの、見た?」

「見たよ」


 朝一番に学校に来て、見たよ。

 胸の中でだけ呟く。

 そこで担任が教室に入ってきたので、吉野は一度自席に戻った。起立、礼。日直の声を聞きながら、時間割を確認する。来週の予定に「ていえん/せんもん」という言葉を見つけて、わたしは重い息を吐き出した。

 ていえん。九月の定期演奏会。

 わたしの所属するピアノ科では、独奏、二重奏、他楽器との協奏などのプログラムであらかじめ選抜された何人かが出場することになっている。今朝、貼り出されていたのはそのオーディションの結果だ。来週には、デュオの相手との顔合わせがある。


「相手のことは知ってんの?」


 半身をこちらにやって尋ねてきた吉野に、頬杖をついたまま、「真白聖司?」とわたしはその名を口にした。吉野がにんまり口端を上げる。


「中等部の二年」

「……中等部から定演に参加って珍しいよね」

「そりゃあ、彼は中等部の天才ピアニストくんだもの」

「確か叔父さんも、有名なピアニストでしょう」

「そう。真白喬之たかゆき


 わたしでも知っている、世界的なピアニストである。吉野が言うには、喬之の血を受け継ぐ真白もまた、幼少時から著名な国際ジュニアコンクールで賞を獲っていたり、とにかくすごいらしい。まだ、十四歳。三歳も年下。


「いっそ日本の学校にいるのが不思議よねえ」


 正直、羨ましいを通り越して雲の上のひとだ。わたしは中庭のメタセコイヤの樹がさわさわと揺れるのをまぶしげに眺め、頬杖を外した。



「とりあえず中を見て、イメージをつかんでおいて」


 担当教諭である千堂せんどうから、プログラムに考えていると渡された演奏曲は、ラフマニノフ「二台のピアノのための組曲第1番『幻想的絵画』」だった。

 ラフマニノフが弱冠二十歳で、恩人チャイコフスキーに捧げた組曲で、四つの楽章からなる。楽章ごとにインスピレーションを受けた詩がつけられ、たとえば第一楽章「舟歌」は、ミハイル=レールモントフのゴンドラの詩から始まっている。わたしも以前、ラビノヴィチ&アルゲリッチ盤をCDで聴いたことがあって知っていた。

 はじめて聞いたとき、背筋が震えた。

 いい、と小難しい理屈を抜きにして思う。

 ラフマニノフのピアノ・デュオ曲といったら、組曲二番が有名だけれど、さざめく水の波紋が目に浮かぶような「舟歌」や、荘厳な鐘の音に打ちのめされる「復活祭」、楽章ごとにさまざまな表情を見せて移ろう『幻想的絵画』がわたしは好きだった。

 本当に、いつかやりたいと思っていた曲ではあるのだけど。

 しかめ面をして、わたしは防音のほどこされた二重扉を開いた。扉を開くときには少しの勇気が要ったが、一度開けてしまえばいつものポーカーフェイスが勝手に顔に貼りつく。


「失礼します」


 千堂はまだ来ていないらしい。朝の静けさに包まれた室内で、二台並べたアップライトピアノに外の雨影が落ちている。肩にかけたトートを下ろそうとしたわたしは、奥のピアノに背を丸めて突っ伏している小さな影に遅れて気付き、手を止めた。

ツバメ色の詰襟。袖口は折りたたまれ、むきだしになった腕をピアノの蓋の上に載せている。腕の上に顔をうずめて、真白聖司がうたた寝をしていた。

 なんで寝てるんだろ。

 手前の椅子にトートを置いて、わたしは戸惑いまじりに真白を見つめた。今日は朝から雨が降っていたが、ブラインドの上げられた窓の外は不思議と明るく、淡い光がピアノのほうへ射し込んでいる。真白とピアノと雨は、まるで一幅の絵画のように完璧な調和をみせていた。まるで、わたしのような凡人は決して寄せ付けない、とでもいうように。

 艶やかな黒のマホガニーに触れる。

 ひとの気配に気付いたのか、真白が薄く目を開いた。


「君が真白くん?」


 一瞬悩んでから尋ねると、真白は寝起きのぼんやりした顔で瞬きをする。


「ええと」

「黒江美紗。たぶん君のパートナー」

「ないしょですから」

「え?」


 よろしく、と続けようとしたわたしに、真白は真剣な顔で突飛なことを言った。首を傾げると、「今の。ないしょです。寝てたの。千堂せんせいに見つかったら、ころされる」とピアノの蓋を撫でて口早に言った。それが心の底からおびえているようであったので、わたしは吹き出しそうになって、肩の力を抜いた。


「いつも寝てるの?」

「ときどきです。ないしょにしてくれます?」

「パートナーをころされるわけにはゆかないし」


 吉野から聞いた前評判で、化け物みたいな子が出て来るのかと思っていた。けれど、実際の真白はふつうの顔立ちをした、どこにでもいそうな十四歳の男の子だ。少なくとも見た限りは。

 椅子から下りた真白は、わたしより少し背が低かった。


「真白です。よろしくお願いします、黒江先輩」

「こちらこそ。真白くんは、定演ははじめて?」

「一年のときは全員見学なので」


 そういえばそうだった、と思い出す。わたしはトートから譜面を取り出した。真白の譜面台にも同じものが置かれて、随所に書き込みが入っている。


「真白くん、練習はしてきた?」

「目を通したくらいですけど」

「ピアノは第一希望? 第二?」

「どちらでも」

「じゃあ、君は第二を」


 真白のさらりとした執着のなさが不意に気に障る。天才って執着とかないのかな、と意地の悪いことを考える。

 ざっと見たところ、第一ピアノと第二ピアノに技量的な差はない。ただ曲の雰囲気から、第一ピアノをわたしは希望していた。どちらがどちらを弾くかはあとで担当教諭を混ぜての相談になるものの、いつ来るかわからない千堂を待っているよりは、練習を進めてしまいたい。わたしの提案に、真白はさして嫌がる風でもなく、お願いします、と譜面を序盤に戻した。

 外の雨脚が強まる。

 先ほどまでの明るさが嘘のように、空が翳り、透明な雫が窓を叩く。

 わたしは、最初の音を弾いた。

 正直、どんなものなんだろうと真白を試す気持ちがあった。それは否定しない。世界的ピアニストが身内にいたとしても、国際コンクールでよい成績を出していたのだとしても、真白聖司はまだ十四歳だ。わたしのほうが、三年長い。

 けれどそんなわたしのくだらない見栄は、数フレーズを待たず崩れ去った。追いかけてきたピアノのその、音。思わず手を止めかけるのをこらえて続ける。

 真白聖司のピアノは、魔性だった。周りをさらう魔。音が乱れる。呼吸が崩れる。溺れそうに、なる。


「はい、止めて」


 千堂が入ってきたのは、舟歌のちょうど序盤の終わりに差し掛かるところだった。危うく倒れそうになったのを、椅子をつかんでなんとかこらえる。千堂がやってきてくれなかったら、わたしは本当に溺死していたかもしれない。

 一方の真白はけろりとした顔で、「千堂先生」と呟いた。


「やる気がある子たちね。わたしが来る前にもう練習?」

「すいません。時間が惜しかったので」

「結構。あなたが黒江さんかな」


 千堂はウェーブかかった髪をシュシュで束ねながら、尋ねた。


「君たちの指導講師になる千堂です。よろしく。さっそくだけど、いいかな。あなたたち、今一番ピアノは黒江さんで、二番ピアノは真白くんで弾いてたよね。それは交換ね」

「……どうしてですか」

「合わないから」


 千堂は耳のあたりのほつれ毛をいじりながら、肩をすくめた。


「第一ピアノは真白くん。第二ピアノが黒江さん。今後はそれで練習をするように」

「僕はどちらでもいいですけど」

「君には聞いていません、居眠りくん」


 ぴしゃりと刺され、真白は控えめに首をすくめた。その隣で俯いたまま、わたしはきゅっと唇を噛む。合わない、だなんて直感的な言葉で、真白に第一ピアノをとられた気がした。それが、悔しい。真白は練習だって「見ただけ」のくせに。なんであんなに弾けるのよ。


 *


「そんなのよくあることでしょお? 屈辱でもなんでもないよ」


 昼の学食で練習時間にあったことを話すと、吉野は持ち前のさっぱりした口調で断じて、白身魚のフライを口に入れた。そうなんだけど、と唇を尖らせ、わたしはちっとも進まないマカロニサラダをごはんの上に載せる。


「で、どうだったの?」

「どうって?」

「うまかったの、真白のピアノ」

「……すごく、よかった」


 不承不承だがうなずくと、「へえー。そこは認めるんだ?」と吉野が笑った。


「あんたがひとのこと褒めるのって珍しいね」

「聞いてみたらわかるよ。真白聖司のピアノはのまれる」


 思い出すだけで、気分が重い。

 真白のピアノは、ひとを惹きつける。悪魔的に。巧拙も、経験も関係ない。真白のピアノははじめから、そんな高みにあった。

 自身も優れたピアニストだったラフマニノフ。

 ラフマニノフの指先は、選ばれた者だけが持っている。

 息を吐き出して、わたしは箸を置いた。


「ごめん。職員室に用事あるから、先行ってる」

「了解。今日のクラブは出られそう?」

「どうかな。無理かも」


 全員入部が強制されている部活は、吉野と天文部に入っている。部活でまで音楽をやるのは嫌だったこと、適度にゆるい活動が入部の決め手だ。吉野もたぶん似たようなものだろう。


藍沢あいざわちゃん、さみしがってたよ。ときどき顔出してあげなって」

「うーん。行けたら、行く」


 食器の載ったトレイを返却して、職員室へ向かう。

 古びた校舎は連日の雨のせいか、不快な湿気がこもっていた。背の高いメタセコイヤのつくる緑陰に大きな水たまりができている。やまないな、と何とはなしに考え、わたしは職員室の扉を引いた。クーラーの人工的な冷気がふわっと押し寄せる。


「失礼します」

「ああ、黒江さん。ちょうど探していたの」


 担任の駒沢が、わたしに気付いて呼び止めた。何故かはあたりがついていたから、わたしは先に腕に抱いたものを差し出してしまう。


「すいません。……進路票、遅れて」

「それはいいけど、ご両親の了解はちゃんともらった? 夏休みに入る前に三者面談をする予定なんだけど」

「大丈夫です」


 うなずきながら、嘘つけ黒江、と己を罵倒する。

 親の了解なんかもらっていない。進路票の判子は、箪笥から勝手に拝借したものを押しただけだ。わざと裏にして提出した進路票を一瞥し、駒沢はマスカラを乗せた重そうな睫毛を揺らした。


「黒江さん。これ、いいの?」

「はい」


 そう言われるのが嫌で裏にして出したのに、どうして無神経に聞いてくるんだろう。大人って、こういうところがだいきらい。

 顔を俯かせて、「失礼しました」と逃げるようにきびすを返す。廊下をしばらく行ったところでようやく歩調を落とし、わたしは窓に映る憂鬱げなわたしの顔をひと睨みした。

 高校二年生の、進路調査票。

 七割が付属の音大への進学を希望する中で、わたしは一般の四年制大学を進路に書いた。駒沢は驚いたろう。

 ――誰よりも練習熱心な「優等生」の、黒江さん。

   黒江さんが音大を志望しないなんて信じられない。

 駒沢の気持ちを代弁すればきっとそう。

 わたしは顔をくしゃりとゆがめる。


「……だってもう、わからないんだもの」


 勝負をかけた定期演奏会は、希望と違うデュオ。そのデュオだって、三つの年下の子にまったく歯が立たない。わたしはもうずっとずっと、自分の将来がうまく思い描けずにいる。

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