第二楽章 "La nuit, I'amour" ―夜と愛と―

 真白との練習は、水曜の一限と金曜の放課後に決まった。ふたりの日程が合う日がそれしかなかったのだ。

 真白の弾く『幻想的絵画』は最初から完成されていた。恐ろしいほど精緻に、曲の深く柔らかい魂までも、もうつかみ取っている。力量の差は明白で、わたしは真白の演奏に追い付くのでいっぱいいっぱいの状態だった。同等のレベルが要求されるピアノ・デュオで、それは致命的だ。

 真白の音には、魔がある。芯のほうにすっと通る鉱石にも似た光、そして奔放な自由が。真白の音と重なるとき、わたしの音はどうしても弱い。自分でも気付かなかった脆弱さ、濁りが露呈する。なんて適当でしょうもない演奏をしているんだろうと自己嫌悪になるのがいつもだった。


「今日はここまで」


 千堂の声がなければ、今日も真白に引きずられてどうにもならなくなっていた。仏頂面になって、わたしは帆布バックから牛乳パックを取り出している真白へ横目をやった。ペットボトルで水やお茶を口にする子はいるが、真白が持ってくるのは決まって牛乳だ。――なんで、牛乳なのよ。わたしが八つ当たり気味の視線を向けると、真白はきょとんとしたあと、千堂のほうへ目を戻した。

 見た目は今風の女子というかんじだけれど、千堂の指摘は的確で鋭い。わたしにいくつかの指示を出した千堂は、真白にも、もっと黒江さんの音を聞くようにと釘を刺した。君の音は横柄だよ、真白くん。デュオはひとりで弾いてるわけじゃない。そんな千堂の指摘すらも、わたしの力量のなさを突き付けてくるようで、内心ではうなだれてしまう。

 千堂の講評が終わったところで、わたしは手を挙げた。


「先生。もう少し練習していきたいんですけど、だめですか」

「いいけど、このあと会議があるからあたしはみていけないわよ」

「かまいません。今日のおさらいをするだけなので」

「ならいいけど。終わったら、鍵は職員室に返してね」


 わたしの練習狂は中学時代から有名だったから、千堂は軽くうなずくだけで、レッスン室の鍵を机に置いた。それを見ていた真白が帆布バックを肩から外す。


「僕も、残ります?」

「君はいいよ」


 とっさにわたしは跳ねつけるように言ってしまった。それから、きつい物言いだったかと思って言い直す。


「うまく弾けなかったところをさらうだけだから、ひとりで弾きたいの」


 一瞬不思議なものを見るかのような眼差しを真白はわたしに向けたが、それ以上は言い募らずに顎を引いた。少しの罪悪感に駆られて、わたしは言った。


「また、来週の水曜に」

「はい。来週の水曜に」


 防音扉が静かに閉まる。

 レッスン室にひとりきりになると、さっきまでは気にならなかった雨音がくっきりと浮かび上がって聞こえた。


「……雨音か」


 思い出して、以前練習棟で聞いたショパンの『雨だれ』を弾いてみる。ピアノ曲としては比較的短い。戯れのように弾き出したものの、あのときの演奏者にはとても及ばないことがわかってしまって、わたしは途中で演奏をやめた。

 ――あれは真白だったんじゃないか。

 不意に思い至って、わたしは水滴の張りついた窓を見つめた。あの、美しくありながらも少し不穏な、ピアノ。


 物心ついた頃には、ピアノを弾いていた。

 最初に出会ったのは、ぴかぴかの黄色をした玩具のピアノ。小さな鍵盤を叩くのが楽しくて、幼稚園で習った歌はぜんぶ、帰ってから玩具のピアノで弾き直した。わたしの両親は特別音楽に詳しかったわけではないけれど、小学校に上がると、女の子の「たしなみ」のひとつで、近所のピアノ教室に通わせてもらえるようになった。やっぱりそのときも、ピアノを弾くのは楽しかった。本物のピアノは玩具のピアノよりもずっと大きくって、出せる音もたくさんある。

 わたしが住んでいた団地には同い年の友だちが少なく、遊び相手になる兄弟もいなかったから、毎日飽きずにピアノだけを弾き続けた。そのうち、近所の先生から紹介状をもらって、三つ離れた駅にある個人教室へ。学年が上がるごとに通う教室は離れていき、わたしは根津にある常磐音大付属の中高一貫校への入学を果たした。

 あの頃。

 わたしは、自分を天才だと思っていた。

 恥ずかしげもなく。

 わたしはラフマニノフの指先を持っていると、信じていた。

 思えば、あの頃がいちばん楽しくて、幸福だったはず。中学生になったわたしは、当然のごとく自分のレベルを思い知った。わたし程度の他よりもちょっと弾ける子なんて、この学校にはたくさんいる。普通よりもちょっと弾ける。それが、自己のアイデンティティにすらならないことは、中学を卒業する頃には気付いた。

 年に何回かの行事では、プロとして活躍している卒業生が演奏や講演に招かれるけれど、わたしはそのたび冷めた心地になって、遠巻きに目を伏せてしまう。わたしたちの学年は百名程度。そのうち、ピアノ科は十名。いったいどれほどの人間が、彼らのような高みに足をかけられるんだろう。そして、その先もピアニストとして生きていくことができるのか。

 無理だ、と思った。

 絶対に、無理だ。

 わたしに、ラフマニノフの指先はない。


 *


 下校のチャイムに気付いて手を止めると、時計は六時を過ぎていた。事前に申請をしておけば、下校時間を超過した教室使用も認められるけれど、今日は無理だろう。わたしは電気を落としてレッスン室を出た。


『部室でプラネタ中』


 端末の画面を表示すると、吉野が二時間前にメッセージをくれていた。そういえば、天文部に行くか行かないかで迷っていたのだと思い出して、『ごめん。練習してた』と返す。


『もう帰っちゃった?』


 続けて送ったメッセージには返信があった。


『藍沢ちゃんたちとカラオケしてる。来る?』


 カラオケかあ、と考えて、わたしは外を見る。


『ごめん。また誘って』


 打ち終えて、端末を鞄に放り込む。

 最低だなわたし。吉野が気を使ってくれたのに。

 わかってはいるのだけれど、ひどく疲れてしまっていて彼女たちの輪に飛び込む気力もない。職員室に鍵を返して下駄箱に出ると、傘立てのあたりに所在なく腰掛けている人影を見つけた。小さな背中に、ツバメ色の詰襟。俯きがちに、やっぱり飲んでいる紙パックの牛乳。


「……真白くん?」

「黒江先輩」

「どうしたの?」


 尋ねると、「気付いたら本降りになってたんです」と降りしきる雨を見つめて、真白が嘆息する。今日の雨は予報になかった。傘を忘れた生徒も多いようだが、それにしたって、真白の姿はまるで置いてきぼりにされた子犬だ。わたしは肩をすくめて、鞄に入れていた折りたたみ傘を広げた。


「途中まで入ってく?」

「いいんですか?」

「折りたたみでかまわないなら。わたしは根津駅だけど、真白くんは電車通?」

「根津からでもへいきです」


 わたしの開いたアップルグリーンの折りたたみ傘に真白がちょこんと身体を入れた。改めて隣に立つと、わたしのほうがこぶしふたつ分くらい高い。


「あ、持ちます」

「君のほうが小さいじゃない」

「先輩。言わないでください、気にしてるのに」

「ああ、それで、牛乳」

「牛乳も、余計です」


 眉間を寄せて、真白は傘の柄を取った。少し腕を高めに上げて歩き出す。大通りに沿ってしばらく歩いたあと、神社の参道を抜ける。ちょうど白やピンクの躑躅が咲いて、濡れた緑の葉がいっそう色を深めていた。土日にはつつじ祭りで賑わうらしいが、平日の夕暮れにひとはあまりいない。


「真白くんはいくつからピアノを始めたの?」


 会話に困って、わたしは無難な問いを投げかけた。


「どうだろう。幼稚園に上がる頃には弾いてた気がするんですけど。叔父の影響で」

「喬之さん?」

「そうです。あとは、ばあちゃんかな。家に箏があって、暇があるとばあちゃんが弾くんですよ。うまいですよ、ばあちゃん。ピアノのことはぜんぜんわからないけど」

「仲良しなのね」


 土日のつつじ祭り用なのか、ポスターに描かれた太鼓を見つけて、「太鼓もいいなあ」と真白が呟く。真白の興味はわたしのものよりずっと広く、奔放で、純粋だ。それがわたしには少し羨ましかった。そんな風に胸が躍るばかりの付き合い方をわたしはもうしばらくピアノとできていない。


「真白くんは、ピアノ、すき?」


 考えていると、ぽろりと胸のうちがこぼれるみたいに尋ねてしまっていた。半ば、確認でもあったと思う。真白はこたえるだろう。すきだと。まっすぐに、わたしのようなやましさなどひとつもない眼差しで。こたえるだろう。彼にはその資格がある。


「きらいです」


 けれど、真白はわたしの予想を裏切った。


「え?」

「きらい、です」


 暗がり始めた緑陰を頬に受けながら、真白は眉根を寄せて呟いた。


「いきぐるしくなる」


 声が雨に紛れて消えた。

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