もし君が哲学者だったら

@mulion

第1話もし君が哲学者だったら

 結論から言うと、リアリズムの中に垣間見える彼女の人間らしさを僕は愛しているんだ。


「目を合わせないでくれない? 通じ合いたくないから」


 彼女はそう言うと机の上に置いた原稿用紙に顔を向けて、まるで僕がこの場にいないかのようにペンを動かし始めた。


 彼女は通じ合いたくないとかかっこつけたこと言っているけど、単に自分の気持ちを悟られたくないだけじゃないのかなんて僕は思っちゃうよね。


 とにかく僕は基本的には何かを結論から言うのはあまり好きではないんだ。


 でもこのことはまず君に率直に伝えておかなければならないことだから普段の決まり事を曲げることにしたんだ。


 それにもちろん愛しているなんて言ったり思ったりすることもほとんどないんだ。


 だから僕の気持ちがどれほどのものかってのをわかっても欲しいんだ。


 僕が好きなのは、彼女の服も下着も化粧も頭も胸も腕も足も指も何もかもが全部がどろどろに溶けちゃっても残る何かなんだよね。


(彼女は化粧はしていないし、胸もずいぶん控えめだけどね!)


 でもそれはプラトニック、これは最近僕が覚えた言葉なんだ、とかっていうチープなものじゃないんだ。


 じゃあ何なのかと君は思うかもしれないけど、僕にだってよくわからないな。


 僕はわからないってことをとても大切にしているからね。 


 もし君が僕のことを馬鹿だと思うのなら僕はそこそこ賢いんだろうし、もし君が僕のことをそこそこ賢いと思うんなら僕はとんでもない馬鹿なのは間違いないだろうね。


「くだらない人間しか子供を作らないからくだらない人間ばかりになるのよ。いい? 世の中が生き辛いのはくだらない人間だけが繁殖するからなの。だから私みたいな純粋な人間が浮いちゃうのは当然なのよね。私が高校生活の中で見つけた最大の発見だから覚えておいた方がいいわよ」


 8畳程のこの部室の中央には長い時間使われているけどホコリひとつない安っぽい木の机が置いてあるんだ。


 それと、誰が残していったかわからない弦の錆びたサンバーストのテレキャスターとか、この部屋に似合うはずのないダイソンの最新型のハンディタイプ掃除機とか、大きめのカシオの電波時計が置いてあるんだ。


 ドアを開けて向かって中央左の席に藤平春奈、平凡な名前だよね、がペンを持っていない方の指で黒い髪をいじりながら座っていた。


 集団に馴染めない人間が自分のことを特別だと考えちゃう、まるでユダヤ人みたいだ、と僕は思った。もちろん、口には出さなかったけど。


 彼女は手を止めてからカーテンと窓を半分開けた。


 そして外でサッカーをしている初等部の子供たちを眺め始めた。


 午後の授業で2つのクラスが合同で体育の授業をしていて、家で母親が洗濯した体操服を汚しながら無邪気に動き回っていたんだよね。


 僕は子供について何かはっきりした意見とか考えを持っているわけじゃないんだ。


 でも何だか哀れな小動物みたいに見えちゃうことってあるよね。


 この部屋は高等部の3階にあるんだ。


 少し強めの風に舞うグランドの砂や学校の敷地全体を囲う木々やまぬけな顔をして歩いている大学生がよく見える場所なんだ。


 重そうなトートバッグを肩にかけて歩いている女子大学生がよくいるんだ。


 小綺麗な服を着て、人生のゴールデンウィークを楽しんでいるんだろうね。


 そして大学生の内にアドホックで身勝手な恋愛を何回かして、就職をして、せかせかと働くんだ。


 それから学生時代とは違って長く付き合えるような男を捕まえるんだ。そしてこんなこと言うんだろうね。


「あの頃の私はやんちゃしてたのよね、ちょっと頭がおかしいこともたくさんしたけど今は落ち着いて普通に生活してるの」なんてさ。


 それとも、そんな普通な人生なんて嫌だ、恋愛なんてくだらないなんて考えるのかな。


 そして大学の勉強に打ち込んだりとか、サークルや部活に入って趣味を突き詰めたりするんだ。


 そうやって自分は人と違うんだって思おうとするのかな。


 「私は恋愛になんて頼らない。男なんて自分の人生に利用するもので私は自分の力で生きるの」なんて気の強い女友達なんかと一緒にカフェで話したりしちゃうのかな。


 君はどっちの女の子がタイプなんだろうね。


 僕はすべての女の子はこの2通りのどちらかに入ると思っているんだ。


 でもこれはまったくの偏見だからあまり気にしないでもらっていいかな。


 ちなみにだけど僕は女の子がどっちだってそんなことどうでもいいと思っているんだ。


 僕は女の子が身に付けているステレオタイプに少しも魅力を感じないんだよね。


 僕が知りたいのは、そして好きになりたいのは、そこからこぼれてくるような人間らしさなんだよね。


(正直に言うともうここで僕の話は終わりでもいいんだ、本当に結論からしゃべっちゃうと話ってすぐに終わっちゃうもんさ、でももうちょっとだけ続けさせて欲しいね)


 話を戻すけど、僕は別に藤平と目を合わせたわけではないんだ。


 ドアを開けたら彼女がこちらを見ていただけだったんだよね。


 文句を言われるのも嫌だったかは今度からは目ではなくキュートに膨れている涙袋を見るようにしようと思ったんだ。


 でも彼女からすれば目を合わせたのと同じかと気付いて、このことについて僕は考えるのをやめた。


「だから私は渾身のホスピタリティを発揮して、子供たちにあなたたちは親に生殺与奪を握られたただのおもちゃだってことを伝える童話を書いているのよ」


 やっぱり絵本の方がいいかも、とそのあとに彼女は付け加えた。


「それに私に似た人間が若い時間をやり直しているんなんて耐えられないし、もし私に子供ができたらの話だけど」


 とりあえずもっと普通の話題を僕はしゃべりたかったんだ。


 だから今年は冷夏だったとぼそりとつぶやいてみた。


 でも彼女は軽くうなずくだけでそれ以上の反応はなかったかな。


 きっとどうでもいいことだと思うけど、どうでもよくないことを伝えるためには、どうでもいいことを一つ一つ順番に話していって、話していないことが大事なものだってわかってもらうやり方しか僕は知らないという言い訳をさせて欲しいんだ。


 あらためて、今年は冷夏だった。でも僕にとっては悪くない夏だった。


 大学への進学は推薦と決めているから夏休み中は勉強する必要もなかったし、こっちに来て初めての夏で、都会の学生がはしゃぐ姿を見ているだけで楽しかったんだ。


 僕は都内にあるささやかなマンションに住んでいる。


 母と二人暮らしなんだけど、母方の祖母が営んでいた雑貨店が蓄えた多少の財産のおかげで普通の生活をするには当面苦労しないかな。


 母は栄養士として病院で働いていて、20年近く振りの都会暮らしを楽しんでいるようなんだよね。


 僕は2年生の秋にこっちの高校に転入してきたんだ。


 転入当初は話しかけて来てくれる人もいて、お昼ご飯を食べたり、休み時間や移動教室の際に雑談できるクラスメイトもいたんだけど、3年生にってクラスが変わると途端に僕は一人になっちゃったんだ。


 クラスの雰囲気は一気に受験勉強モードになって、新しい人間関係を作るというような感じでもなくなってさ。


 もともと以前からの知り合いがいない僕は当然仲の良い人もできなかったんだよね。


 一人で何もせずぼーっとしているわけにもいかないから、休み時間はもちろん、授業中にも本ばかり読むようになったんだよね。


 推薦と決めている人に対しては余計な労力を使いたくないのか、もう卒業してしまうからなのか、教師もうるくさくは言ってこなかったんだんよね。


「これじゃだめだ」


 彼女はちょうどいい中音の透き通った声で小さな唸り声をあげた。


 高すぎもせず低すぎもしないその声はたぶん彼女の魅力の一つなのだろうけど、面と向かってそんなことを言う機会はないだろうし、特に言いたくもなかったかな。


(誰だって口にするより口に出さないことの方が多いものだよね!)


「このままじゃくだらない人間が増えていくだけ。悪貨は良貨を駆逐するってやつになるのよ」


 最近読んだ本に、他人を助ける親切心の高い人は他人を助けず自分の利益を一番に考える人も助けてしまうので、結局残るのは後者の人間だと書いてあったことを僕は思い出した。


 僕が高校生活の中で見つけた最大の発見は本には何でも書いてあるということだった。


 僕がこれまで経験してきたことやこれから経験するだろうことも、一生経験しないことも、どんな感情や気持ちも、僕よりずっと頭の良い人たちがわかりやすい言葉で明確に書いてくれているんだ。


 本を捨てて街に出ようとかいう訳のわからないこと言った人が昔いたらしいんだけど、本も読んで街にも出ればいいじゃないかって僕は思うね。


 もちろん、世の中にあるすべての本を読んだわけではないのでまだまだ知らないこともたくさんあるけどさ。


 一応伝えておくけど、ここは彼女みたいに変なことをばかり言う人間がいるわけではない普通の学校なんだ。


 初等部から大学までが併設された品のいい学園で中間裕福層、ブルジョワだ!、の落ち着きのある子供たちが真面目に勉強をしていると言えば君に伝わるかな。


 僕は前は田舎の高校に通っていたから世界史の授業でよく出てくるブルジョワって言葉が実際にどんなものなのかってのをここに来て初めてわかったかな。


 敷地内にはやたらと碑石とか銅像などがあって、この学園には昔どんなことがあったのか、どんな困難を乗り越えて来たのか、どんな人が学園を支えてきたのかってのが詳細に書かれているんだ。


 きっとそこには素晴らしい理念とか理想とかが書かれているんだろうけど、少なくとも僕には何一つ響いていなかったし、他の生徒もそうなんじゃないかな。

 

 この部屋は英語研究部っていう部活の部室なんだ。


 全生徒が部活に入らなければならなかった時代の名残で、そのときの帰宅部代わりの部だったらしいよ。


 今は部活動への参加は自由になっているんだけど、実際は中身がなくても正式な部だから現在までしぶとく残っているんだよね。


 そしてもちろん今も昔も英語なんて勉強していないんだ。


 気を取りなおすために僕は小学校に入る前に祖父から買ってもらったデパートの数百円のおもちゃのことを思い出していた。


 今はつぶれてしまったスーパーの2階のおもちゃ売り場とか、水鉄砲に感じた憧れとか、父親の運転する車から見える山の景色とか、さびれた商店街の中にある薄暗い呉服店とか人気のない写真屋のこともね。


 特にあの写真屋のことを思い出すと寂しい気持ちになっちゃうんだよね。


 だって写真って綺麗な思い出を残すためにあるのに、それを扱うお店に人気がないってことは、この街は良い思い出がまったく生まれない悲しい場所なんじゃないかって思っちゃうんだよね。


 とにかく大したことはないと思っていたことが、地元を離れてからは良い思い出のように感じることが多くなったんだ。 


 いつもはもう少し藤平としゃべるんだけど今日は無言の時間が長く続いたんだよね。


 僕は本を読みながらときどきあくびをする彼女を見ていたら、ドアが開く音がして藤平の数少ない友達の笹谷夏美が入ってきたんだ。


 笹谷はショートカットの髪型と小柄な体格に制服をびしっと着こなして、大学受験の参考書でぱんぱんになっている鞄を重たそうに持っていたんだ。


「遅れてごめんなさい」


 とても申し訳なさそうに彼女は言って、藤平の向かいの椅子に行儀よく座った。


 まるで休日に出かけるようなフランクな私服姿の藤平とは対照的な服装だったよね。


 この学校は制服着用なのだけど、藤平は保健室登校、というより半分英語研究部登校なので私服で学校に来ているんだ。

 

 どうして保健室登校だと私服なのかはよくわからないんだけど、彼女から言わせると保健室組の小さなプライドなんだってさ。


 ちなみに彼女以外の保健室登校の生徒に会ったことはないんだけどさ。


 彼女は藤平の数少ない友達だと思うんだけどめったにここには来てるのを見たことがないんだよね。


 藤平は学内でそこそこの良い意味ではない有名人なので来にくかったりするのかな。


「お客さん第一号!」


 彼女はそう小さく叫んでから、原稿用紙を慎重にファイルにしまい、安っぽいボールペンを筆箱に入れてからまた髪をいじり始めた。


「お客って?」


 僕は読みかけの本を置いて興味があるというアピールをした。どこまで効果を発揮したかはわからなかったけどね。


「ベビーメイカークラブ」


 素晴らしい名前でしょ、という顔で彼女は僕を見た。


 そして間を空けずに彼女は続けた。


「ポルノグラフィティってアーティスト名が許されるんだから大丈夫でしょ」


 そういう問題じゃないと思ったんだけど、たしかにあのバンド名が受け入れられるならいいんだろうかと考え込んでしまって、僕は何かを言うタイミングを逃してしまったよね。


「さ、相談して」


 藤平は目を輝かせて笹谷の顔を見つめていた。


 笹谷は手をもじもじさせながら、中々しゃべり始めることができずにいるみたいだった。


 その間に彼女が僕に説明してくれたんだけど、悩みごとを相談をする部活動を今日から始めたらしいんだよね。


 クラスに行かない自分からすると落ち込んでさえない表情をしている生徒たちがあまりにも多くいるように見えるから暇つぶしにその人たちの悩みを解決しようと思ったとのことだってさ。


「それで悩みは?」


 彼女は気持ちの高まりを抑えきれない声で笹谷を促した。


 笹谷は深呼吸してから一大決心をしたような顔でしゃべり始めた。


「私、彼氏がいるんですけどわかりあってる気がしないんです」


 藤平は笹谷の話をしばらくちょうどいいタイミングで相槌を入れながら聞いていた。


 まとめると、最初に彼女が言った通り、最近彼氏ができたけどなんだか気持ちが通じ合っているような感じがしないという話だったんだよね。


 僕は彼女ができたことがないからわからないけど、君の予想通りくだらないなと思ってしまったよね。


 恋愛の相談をされたことのある人で退屈したことがない人っているのかな。


 藤平は組んでいる足を組み替えてから笹谷の目を見た。


「じゃあ首でも締めてみれば? そうしたら苦しいって100%わかるんだからそれで通じ合えるってことになるんじゃない?」


 それはただの生理反応じゃないかと思ったんだけど僕は何も言わなかったよね。


 ところで昔、父親とキャッチボールをしたとき狼の話をしたんだ。


 僕が取り損ねたボールが草むらに転がっていって探すのに苦労したんだよね。


 それから父親に言われたんだ。「すぐにボールを追いかけないでまずはどこに転がっていったかちゃんと見とけ」ってさ。


 そのときどういう流れかわからないけど首っていうのはすべての動物の弱点なんだって話をした気がするんだよね。


 その話を思い出して、もしかしたら僕は本当は吸血鬼なのかもしれないって思えてきたんだ。


 僕はもう18歳になるのに子供っぽいことが好きだから吸血鬼とかなんかそんなロマンチックなことが割と好きだったりするんだよね。


 でももし僕が吸血鬼だったらもっと素直に女の子に対して接することができる気がするんだよね。


 だって、僕は血を吸うために女の子と仲良くしようとしてるんだってもっともな理由ができるんだからさ。


 でもそれでもやっぱり、素直に女の子の血を吸うか、それとも血を吸うのを必死に我慢してひねくれた吸血鬼を演じるかを迷ってしまうのかな?


 どっちになったとしてもそれなりに面白い気がするし、そう思うとなんだかこんな妄想どうでもよくなってきちゃうよね。


 君は僕の話が少しだけめちゃくちゃだって思うかもしれないけど、僕だったら何かを順序立って話す人間は信用できないし、そういう人間で信用できるやつに会ったことはないかな。少なくとも今のところはね。


「もしですよ、彼氏が首の筋肉を鍛えてたらどうするんですか」


 笹谷が真剣にそんなことを言うから僕は笑うのををこらえるためにずっと机の木目を数えてしまったよね。


「そのときはそのときでしょ」


 藤平は萎えた顔でそう返して、あなたの悩みはもう解決したということを示すために立ち上がった。


 笹谷は受験勉強があると言いすぐに部室を去って行った。本当にあの解答で納得したのか疑問だよね。


 ここは英語研究部の部室だった気がするんだけどと僕は藤平に尋ねた。


 でも彼女はそれには答えなかった。


「私の子供を残すのよ、この学校に」


 彼女が机をバンと叩いた振動で錆びた弦に挟まっていた紫色のピックが床に落ちた。


 僕は白い床に落ちたそのピックを拾ってから軽く伸びをした。


「もちろん生物学的な意味じゃなくてね」


 藤平はそう言うと僕を少しにらんでからイヤホンを着け、カバンから取り出した本を読み始めた。


 鼻歌を歌い出したのでこれ以上何も僕に説明する気はないんだろうね。


 ブックカバーのせいで何の本を読んでいるかはわからなかったかな。

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