君の声が囁いている

赤坂 パトリシア

ヒースロー空港第二ターミナル

「ここ、良いでしょうか」

 空港の馬鹿高いコーヒーをちびちび飲んでいる僕に声をかけたのは50に手が届くか、といった風情の男性だった。仕立ての良い服にピカピカの革靴で、最初の一言を聞いただけでわかるくらい上品な英語だ。ほんのわずか肌の色が濃い。アジア系との混血だろうか。


 僕は周囲を見回す。気づかないうちにずいぶん混み合ってきていて、相席にしないと座れなさそうだった。

「……どうぞ」

 かろうじて無愛想にならない程度の笑顔を作って向かい合った席を指差す。それからパタっと軽い音をたてて、作業中のラップトップを閉じた。

 学生旅行の悲しさで安いチケットを買ったのはいいけれど、乗り換えの待ち時間がやたら長い。作業をしようと座席代のつもりで払ったコーヒー代だったから、正直、相席になるのは嫌だったが仕方がない。カフェは僕だけのものではないんだ。


「……お仕事の邪魔をしてしまいましたか」

 男性は、ほんの少し申し訳なさそうな顔をする。

「いえ、ちょうど休もうと思ったところです。どうせ、東京まで長い時間のフライトになるのですから」

「おや、日本に行かれるのですか——ご出身が日本ですか」

「はい。今は音声学の勉強でこちらにきています」

 ——コーヒーのおかわりは、いかがですか?

 テーブルについている自動音声が、柔らかい声で話しかける。ほんのかすかなアイルランド訛り。2020年前後から一気に普及した音声データ「コニー」が使用されている。銀行やエレベーター、工場や職場、教育機関に至るまでありとあらゆる場所で使われている自動音声は、現代イギリス人たちの発音にすでに影響を与え始めている。

 かつて英語は帝国という大きなルートを通って世界中に広がった。イギリスの外にある英語に大きな影響を与えたのは、くいつめたアイルランドからの移民たちの発音だ。今、英語圏を覆おうとしている——そして、人間にまで影響を与えようとしている——自動音声にかすかなアイルランドの響きがあるのは、ある意味必然でもあるように思えるし、イングランドの植民地として長年苦しんだアイルランドの、ちょっとした仕返しのようにも思えるな、と僕はいつも思う。


「お願いします」

 僕はテーブルの自動音声に返事をする。

 自動音声を発していた小さな突起は「聞き取りました」という柔らかな返事と共にチカチカとグリーンに光った。

「——音声学を勉強なさっていらっしゃるんですか」

「そうです——主に複数言語におけるアクセントの置かれ方について」

「アクセント——アメリカ訛りアメリカン・アクセントだとかそういうことですか」

 一般的には英語は強弱アクセントの言語であり、それに対して日本語は高低アクセントの言語であるとされているが、実は英語にも高低アクセントの要素があるということはすでに前世紀末から指摘されており……というようなことに興味がありそうな相手には見えなかった。

 だから僕は曖昧に微笑んで首を横に振る。

「いえいえ、言語によって強勢アクセントの置き方が違うんですが、まあ、そんな話です」

 紳士は上の空の様子で頷いた。

「——日本には、自動音声は普及していますか」

「日本に興味がおありなんですか」

「実は——引っ越そうと思っていまして」

 紳士は、初めて目を合わせた。

「家も仕事も手放しましてね。このフライトで東京に行こうかと」

 ——ご注文は、おきまりでしょうか?

 自動音声が柔らかく尋ねる。

「うん、エスプレッソをお願いするよ、コニー」

 紳士は、聞いていた僕がどきっとするほど優しい声で答えた。

「英語の自動音声がないところで残りの人生は過ごしたいと思ったんですよ」

 微笑みのない顔で、彼は言った。




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