第2話仕事始め

「ああ、来たか」

 事務所の玄関で出迎えた水沢を見て、樹はぽかんと口を開けた。

「何を突っ立っている、早く入れ」

 水沢に言われぎこちなく足を動かす。

―――あれ、昨日と雰囲気がだいぶ違うぞ

 昨日は物腰の柔らかい紳士的な印象を抱いたが、今日は紳士どころかどこぞの組の若頭のような、剣呑な雰囲気が漂っている。顔が整っている分、背筋がぞくっとするような凄みがあった。昨日はきっちりとワイシャツの第一ボタンまで締め、まっさらな生地には皺ひとつついていなかった。しかし今日はだらしなくボタンを二つ目まであけ、無造作に袖をまくりあげている。

「そこに座れ」

「は、はい」

 言われて樹は昨日と同じソファに腰掛けた。今度は沈みこまないように、前の方に軽く腰を下ろす程度にした。

「まずは昨日渡した契約書を出してくれ」

「はい」

 樹は急いで鞄から一枚の紙を取り出す。契約書にはインターンシップ中の労働時間や賃金など労働条件について書かれてあった。さらっと目を通し必要事項を記入したが、樹には一つ気になることがあった。

「あの、一つ質問いいですか?」

「なんだ」

 早くしろと、水沢が目で急かしてくる。樹は焦りながら気になった一文を指でなぞった。

「ここに『妖怪により怪我をしたり大病を患ったりしても当社の関与するところではない』と書かれているんですが、どういうことですか・…」

「そのままの意味だ。業務中に妖怪に攻撃されたり呪いをかけられたりしても自己責任だ」

 そう言って水沢はにやりと笑った。それから樹が手に持っていた契約書をひったくる。契約書に樹の名前が書かれ捺印されていることを確認すると、脇に置き樹に顔を向けた。

「お前、疑問があるのに契約書に名前を書くとか馬鹿か」

「え…」

 会って二日目にして馬鹿呼ばわりされ樹はその場で固まった。

「疑問あるならまずはそれを解決させろ。何も考えず言われた通りやっているといずれ痛い目見ることになる。今回みたいにな。もうこの契約書に自分で名前を書いたんだから、これで契約成立だからな。今後は自分の身を守れるよう頭を働かせろ」

「はい…」

 初日から説教され樹はうなだれる。まさか契約書を渡す段階からこんなにボロクソ言われるなんて。一カ月やっていけるだろうか。

「ちょっと所長。初っ端から新人くんをいじめないで下さい」

 ふいに上から女性の声がした。樹が顔を上げると、昨日パソコンに向かっていた女性がお茶を運んで来てくれていた。

「ごめんね、うちの所長口が汚いというか不器用な言い方しかできなくて。ほんとは自分みたいな悪い奴に騙されないように気をつけろよって言いたかっただけなの」

 そう言ってにっこりと樹に笑いかけた。

「おい言葉の端々に悪意を感じるぞ、穂群ほむら

 穂群と呼ばれた女性は丸く黒眼勝ちな瞳を水沢に向け、「えへへ」と照れ笑いする。それから樹の方へ向き直り、身をかがめて樹に視線を合わせた。

「自己紹介がまだだったね。私は穂群想ほむらそう。ここで働き始めて2年になります。よろしくね」

「あ、俺は原田樹といいます。よろしくお願いします」

 樹が頭を下げると穂群は「そんなに緊張しなくていいよぉ」ところころと笑った。樹はその可愛らしい笑顔にしばし見とれる。

「それじゃ私は自分の仕事に戻るね」

 穂群が自分の机に戻るのを見送っていると、「おい」と水沢に声をかけられた。

「お前、鼻の下のばすのはいいが、あいつああ見えて百を過ぎたばあさんだからな」

 水沢は可哀想なものを見る目で樹を見てくる。

「あいつは人の皮かぶった化け狐だから油断するなよ?」

「えっ」

 樹はパソコンに向かう穂群をまじまじと見る。彼女が化け狐?嘘だろ。樹が呆然としていると水沢は一つ咳払いをした。

「さて邪魔が入ったが、話を戻すぞ。とにかくこれからは一癖も二癖もある妖怪と仕事をすることになるから、自分の頭でよく考え行動しろ。わからないことがあれば実行する前に聞け。わかったな?」

「はい…」

「それじゃ仕事の詳しい説明をしていくが、その前にまず妖怪の世界について説明しなければいけないな」

 水沢の言葉に樹はこくこくと頷く。樹には仕事の内容以前に聞きたいことは山ほどあった。その中でも一番聞きたいのは…

「あの、先に質問なんですが、なんで急に妖怪を見えるにようになったんでしょう?」

 樹は昨日、浮綿うきわたとかいう妖怪を目にして以降妖怪の類だと思われるものをさんざん見てしまった。家への帰路でも見たし家の中でも見た。ほとんどが虫のような妖怪だったので気づかないふりをしてやり過ごしたが、時たま人の背丈ほどある着物を着た猫や狐、得体のしれないどろっとしたもの、手のひらサイズの子鬼などを見つけ生きた心地がしなかった。

「それは元々お前が妖怪を見ることができる側の人間だったということだ」

「え、でも今まで見たことなんてないですよ」

 樹は眉根を寄せる。小さい頃もそんなおかしなものを見た記憶はない。

「そうだな、急に妖怪が見れるようになった原因はいくつか思いつくが、その前にまずはなぜ妖怪を見える人間とみえない人間がいるか説明する。そもそも人間と妖怪が棲む次元は僅かだがズレているんだ。そのズレのせいでお互いの姿を認知できない。姿だけじゃなくそれぞれが書いた文字や作った物を見ることもできない。まあ昔はそのズレもほとんど無かったから今よりも見える人間は多かったし、人と妖怪が交わることもあった。交わった結果人間の中に妖怪の血が流れる者も出てきた。そういった人間は妖怪の棲む次元と人間が棲む次元の両方に足をかけていることになるから、妖怪も見ることができる。お前はそういった人間の末裔ってことだ」

「それは…つまり僕の先祖に妖怪がいるってことですか」

「ああ。今まで見えなかったのは妖怪の血がだいぶ薄まってしまったんだろう。だがこの場所の強い妖力に触れ、血が目覚めたのかもな」

 そんな馬鹿な話があるかと否定したかったが、ここに来てからおかしなモノを見るようになってしまっていたので樹は黙りこくるしかなかった。

「そもそもここに応募できるのは多少なりとも妖怪を見ることができる人間だしな」

 いつの間にか煙草を手にした水沢が煙を吐きながら呟く。

「どういうことですか?」

「応募申請のページに細工してあるんだよ。妖力で応募フォームにいくための箇所を覆って、妖怪を見ることができる人間だけが応募できるようにしてある。妖怪を見れないやつにはページの下半分はただ真っ白いままになっているようにしか見えない」

「そうだったんですか…」

 まさかそんな仕掛けがしてあるとは。しかも自分はそれを突破してしまうなんて。軽率に応募なんてするんじゃなかった。樹は応募した日のことを思い出し、過去の自分を恨んだ。

「それにしても妖怪の文字が見えるだけでなく解読できる奴とはな。今回は大収穫だ」

 煙草を燻らせながら水沢は樹に顔を向けにやにやと笑った。樹はその顔を腹立たしく思いながら、試験の時から疑問に感じていたことを口にした。

「あの、そのことなんですけど、試験で解けた文章の文字、僕が小さい頃考えた暗号とそっくりな字だったんですが、それって昔なにか妖怪と関わったことがあるんでしょうか?」

 樹の言葉に表情を戻し水沢は頷いた。

「その可能性は高いな。どういうきっかけかはわからんが、妖怪と知り合いそいつに字を教わったのかもな。その後成長するとともに忘れたのか、そいつに忘れさせられたのか、妖怪と関わったことは記憶から消えたんだろうな。だがそいつから教えられた文字だけは覚えていて、自分で作った文字だと無意識に記憶を書き換えたんだろう」

「妖怪に教わった…」

 幼い頃の記憶を手繰ってもそんな思い出はでてこない。水沢の言うように妖怪に記憶を消されたのだろうか。ただもしそうだとして、なぜ物心ついてからは妖怪を見ることが無くなったのだろう。文字を教わるぐらい妖怪をはっきり見て関わっているのなら、今日に至るまで妖怪を見ていてもおかしくない。しかしこの事務所に来るまでは妖怪など本やマンガの中でしか見たことが無かった。そのことを口にすると、水沢は顎を長い指で撫でながらぽつりとつぶやいた。

「何者かによって妖怪が見えなくなる術をかけられたのかもな」

「妖怪が見えなくなる術?そんなのあるんですか」

「いちおうな。妖力の強いモノには効き目は薄いが」

「一体誰がそんなことを」

「さあ。そこまでは知らん。だがこれだけは言える。お前に術をかけた奴は俺以下の力しかない」

「どういうことですか」

「こういう術の類は術をかけた奴以上の力のあるモノに会うと解けてしまうもんだ」

 水沢はそう言ってにやりと笑った。

「良かったな、昔会った術者以上の力を持つモノとお近づきになれて。おかげで隠されていた能力を見つけられたぞ」

 良くない。まったく良くない。この男の言うことが本当なら、ここに来なければ妖怪を見ることも無く平穏無事な生活を続けられていたってことじゃないか。つくづく馬鹿なことをしたものだと、自分にあきれ深くため息をついた。

「そんな不満そうな顔をするな。ここで働いてもらうからには、それなりの妖怪への対処を教えてやるから」

「…お願いします」

 そうじゃないと今後の人生がとんでもないことになる。…いや、もうすでにとんでもないことに巻き込まれているか。

「さて、先ほどの質問の答えはこういうことだが納得できたか?」

 納得はできないが疑問は解決できたのでとりあえず頷いておく。

「他にも疑問がありそうだが、それは追々答えていこう。まずはここでの仕事を説明する」

「わかりました」

 樹が答えると水沢は一つ頷き説明を始めた。

「ここでは最初に言った通り人が使う言葉―――この事務所では日本語だが、この日本語を妖怪の言葉に翻訳するのが主な仕事だ。依頼客は個人から法人と幅広い」

「あの、質問いいですか」

「…なんだ」

「法人って、企業ってことですよね。妖怪の世界にも企業があるんですか」

「ああ。それに関しては仕事をやっていく中で教えてやる。まずは口を挟まず話を聞け」

 水沢に言われ樹はそれから黙って水沢の話を聞くことにした。質問したいことは山とあったが。

「妖怪が書いた文をたいていの人間は見ることはできないと言ったが、逆もまた然りだ。妖力の強い者や狐狸狢といった元々妖怪と人との世界に両足つっこんでいる奴ら以外は人間が書いた文字を見ることができない。だが、妖怪と人との世界を行き来できる奴が書くと、妖怪からも人からも見ることができる。ようは妖怪と人の架け橋になってんだ」

「嫌な架け橋ですね」

 あきれたように樹は呟く。水沢は樹の言葉を無視し、説明を続けた。

「だがな、見えたところで妖怪と人が使う文字は違い、人間が書いたものをそのまま写しても妖怪が読むことはできない。そこで、人間が書いたものを翻訳する仕事ができたというわけだ」

「…人間が書いたものって妖怪に需要あるんですか」

 思わず樹は質問してしまった。だが水沢は嫌な顔せず大きく頷いた。

「ああ。昔から人が書く物語は妖怪に人気だ。昔は翻訳する会社なんてなかったから、人の文字を読める奴が他の妖怪に読み聞かせていた。今はうちのように翻訳する会社が幾つかできたから、人間が書いた本を翻訳して妖怪の世界で出版できる。ちなみに、ここの事務所では主に書籍の翻訳に携わっている。時々映像の字幕も頼まれるが。それから妖怪の作家の本を日本語に訳す仕事もある」

「え、妖怪が人間の世界向けに本を書いてるんですか」

 樹は驚いて声をあげた。

「ああ。数は少ないがいるんだ。その大概が妖力の強い妖怪だから自分で書いた文字はそのまま人間も見ることはできるんだが、めんどくさがって日本語を学習してくれなくてな。せっかく翻訳を承る会社ができたからと、こっちに翻訳を依頼してくる」

「そうなんですか…」

 もしかしたら過去に読んだ本の中には妖怪が執筆したものもあるかもしれないのか。予想以上に妖怪が人間の世界に入り込んでいてなんとも恐ろしい。

「それでだ。お前にはインターンシップ中、こちらを頼みたい」

「へ?」

「妖怪作家の原稿を日本語に翻訳するのがお前の仕事だ。妖怪語を日本語で解説した妖和時点はあるのでそれで意味を確認しながら和訳してもらう」

 嘘だろ。それじゃ思いっきり妖怪と接触することになるじゃないか。樹が唖然としている中、水沢は淡々と説明を続ける。

「今日はまずお前が担当する作家達に挨拶にまわろうと思う。お前が担当する作家は3人だ。大妖怪ばかりだから注意しろよ」

 そこまで言って水沢は上半身をひねり後ろを向いた。

「その前にこの事務所のメンバーを紹介する」

 水沢はまず穂群と名乗った女性を指差した。

「さっき勝手に自己紹介し始めた穂群想は日本語を妖怪の言語に翻訳する、妖訳を専門にしている。そんであいつの正体はうん百年生きている狐の大妖怪だ。それからあそこにいるのは…」

 水沢は後ろを向いたまま穂群の斜め前でパソコンに向かう、昨日樹にお茶を出した女性を顎でしゃくる。

「お茶出し、アポ取り、経理、人事など雑用を一手に引き受ける俵怜たわらりょうだ」

「所長、雑用とか言わないで下さい。心外です」

 水沢の言葉を聞いた俵は顔を上げ、水沢をキッと睨む。

「すまん」

 慌てて水沢は詫びる。それから一つ咳払いし、紹介し直す。

「彼女はこの事務所の縁の下の力持ち、無くてはならない存在だ。それで彼女も穂群と同じくらいの歳の狸の妖怪だ」

 狸…?樹は首を傾げた。俵はどう見ても狸には見えない。細身のスーツに身を包み、長い黒髪を丁寧に結いあげている彼女の姿はどちらかというと狐のイメージに近い。むしろ穂群の方がほんわかとした雰囲気で狸のイメージだ。そんなことを考えていると、水沢がにやにやと笑って「逆だと思っただろ」と口を挟んできた。考えていたことを指摘さればつ悪く樹は小さく頷いた。

「俵は性格きつそうな雰囲気だが、あれで可愛いところがあるんだ。逆に穂群はおっとりしているように見えるが、毒は吐くし人の心は抉ってくる。見かけに騙されず気をつけろよ」

 先ほどの水沢と穂群のやりとりを思い出し、樹は素直に頷いた。毒吐かれるだけならまだしも相手は妖怪だ。何されるかわかったものではない。樹は重々注意しようと心の内で思った。

「さて、ざっとここまで説明したが、聞きたいことはあるか?」

 水沢に聞かれ、樹は説明を受けながら浮かんできた疑問を水沢にぶつけようとした。だが、話を聞き終わった今、その質問を忘れてしまっていた。樹はなんとか思い出そうとして出てきた質問は「なんで昨日と今日で人格変わっているんですか?」だった。

「あははは」

 樹の質問を聞いた瞬間、穂群は盛大に笑いだした。俵も陰でふっと吹き出している。

「あれは所長の外用の顔だよ。この事務所にとって大事だと思われる人にはああやって外面良くするの。所長にとって樹君は逃がしたくない魚だったんだねぇ」

「逃がしたくない魚…」

 穂群に言われ喜んでいいのか悲しむべきなのか分からなかった。

「でも樹君がここで仕事をするって決めたから、所長は内用の顔に戻したの」

「それにしたって豹変しすぎじゃないですか」

「本性露わにしても逃げないって確証したんじゃない?ね、所長」

 穂群はそう言って水沢に笑顔を向ける。

「まあな」

 そう言って水沢はにやりと笑う。

「で、他に質問はあるか?」

「え、えーと」

 樹は必死に考えるが出てこない。そんな樹をにやにやと見ながら水沢は秒読みを始める。

「3、2、1…時間切れだ」

「え」

「質問が無いなら行くぞ」

 そう言うなり水沢は立ち上がり、俵が無言で手渡す外套を羽織った。それから樹を見下ろし、早く立てと目で促す。樹は慌てて外に向かう水沢の後を追った。

「水沢さん、どこに行くんですか」

 樹が後ろから声をかけると、水沢は立ち止り振り返った。

「今からお前が担当する作家に挨拶に行く。相手は妖怪の世界じゃ名の知れた大妖だからな、粗相はするなよ。下手すると喰われるぞ」

 水沢の言葉にぞくっと背筋が凍る。―――『妖怪により怪我をしたり大病を患ったりしても当社の関与するところではない』―――契約書の一文が樹の脳裏をよぎった。

「僕の担当する作家さん、人を食べるんですか…」

「昔は喰っていたという噂は聞いたことがある」

 嘘だろ。インターンシップの時点で命の危険がある仕事ってなんだよ。ブラック企業どころじゃないだろ。樹が顔面蒼白になっているのも気にせず、水沢は再び歩きだした。事務所の敷地を抜け、裏の山へと歩いていく。樹は「粗相ないように粗相ないように」と呟きながら重い足取りで水沢を追った。

 事務所を出てしばらくは舗装された道だったが、途中から砂利道に変わりいつしか人の足で踏みしだかれただけの山道になっていた。歩を進めるにつれ、木々がうっそうとしてくる。一体どこまで進むんだ。樹はそろそろ疲れを感じ始めてきた。まさか山の中に分け入るとは思わず、オフィス用の革靴を履いてきてしまっていた。久しぶりに履いた革靴に足がまだ慣れず、靴擦れをおこしてしまっている。痛む足でなんとか水沢の後を追っていると、ふいに空気がひんやりと冷たくなった。今はまだ秋のとば口だというのに吐く息が白い。樹は驚いて水沢の背に声をかけた。

「やっと『間(あわい)』に入ったんだ」

 水沢は少しだけ首をまわし肩越しに答えた。

「あわい?」

  聞き慣れぬ言葉に樹は鸚鵡返しに問う。

「人の世界と妖怪の世界が入り混じった場所だ。こういった山奥なんかに所々存在する。この場所に入ると普段妖怪が見えない人間も妖怪が見えるようになる」

「そんな中途半端な場所に住んでいるんですね」

「ああ。そうそうここに住む者はいないから気楽で良いらしい」

「ここに住む妖怪はそうはいないんですか」

 水沢は頷きそれから樹に問い返した。

「お前は道のど真ん中に家を建てたいと思うか?」

「え?」

「ここは妖怪の世界と人の世界を繋ぐ道でもある。そんな所に居を構えられるのは迷惑この上ないが、なまじ力のある妖怪だから皆出ていけと言えないでいる」

「そうなんですか…」

 そう言いながら樹は自分の家が道の真ん中に建っているところを想像する。

「それは…道行く人、いや妖怪にじろじろ見られて家にいる本人も居心地悪くないんですかね?」

 樹の言葉に水沢は首を横に振る。

「皆関わりたくないと迂回するので、家の周りは静かなもんだ」

「そういうことなんですね」

 妖怪の世界にも迷惑者がいるのか。しかもその人物を自分が担当することになるなんて。ますます気が重くなり、樹は長くため息をついた。

「着いたぞ」

 ふいに水沢が立ち止った。目の前には二階建てのログハウス風の家が建っていた。屋根からのびる煙突からはぷかぷかと煙が出ている。

「あの、水沢さん」

 玄関に続く短い階段に足をかけようとしていた水沢に、樹は後ろから声をかけた。

「なんだ」

「あの、僕が担当する方ってどんな方なんですか?」

 会う前に最低限の情報はほしかった。相手は妖怪なので情報を得たところで上手く対処できるかは疑問だが、少なくとも心構えはできる。

「ハテンゴだ」

「へ?ハテンゴ?」

 聞いたことのない名の妖怪だ。

「ここいらじゃそうも呼ばれているらしい。さぁ行くぞ」

「え、心の準備が…」

 樹のことなど意に反さず、水沢は階段を上り玄関の戸を叩いた。

「すみません、翻訳事務所の水沢ですが」

 水沢がノックしながら声をかけると、中から「勝手に入ってこい」と声が聞こえた。水沢はそれを聞き、扉を開けた。水沢に続いて樹も中へ入る。入ってすぐのところがリビングになっており、奥のほうに小振りの薪ストーブがあった。ストーブの中では赤い火が踊っており、部屋はほんわかと暖かかった。しかし声の主が見当たらない。

 水沢は脇の下駄箱からスリッパを取り出し履き替えると、左手にある階段を迷うことなく上っていった。樹も慌ててスリッパに履き替え、水沢の後を追った。

階段を上ると、左右に二つの部屋があった。水沢はためらわず右側の部屋をノックする。少し待っていると、ガチャッとノブを回す音がしてゆっくりとドアが内側に開いた。中から現れたのは樹の肩までしか背がない小柄なおじいさんだった。薄くなった頭には申し訳程度にふわふわと白髪が生え、額には深い皺がきざまれている。身には作務衣を纏い、上にちゃんちゃんこを羽織っている。ここまでなら近所で行き交うおじいちゃんという感じだが、彼には常人にはない特徴があった。それは異様に長い鼻だ。ピノキオかよと言いたくなる長さだ。

―――ん?鼻が長いって、まさか…

「天狗…さんですか?」

 樹が呟くと、目の前の老人は鷹揚に頷いた。

「いかにも儂は、ここいら一帯の山を治める天狗、太郎坊じゃ」

 それから太郎坊と名乗った天狗は水沢の方に顔を向け、眉を寄せた。

「してハヅミ、こやつは何者じゃ?」

 太郎坊は半眼にした目を水沢に向けた。

「紹介が遅れてすみません。こいつはしばらくうちの事務所で働くことになった原田樹といいます」

 そう言って水沢は樹の頭を掴み、頭を下げさせた。

「まだまだ右も左も分からない状態ですが、体力だけはあるんでこき使ってやってください」

 水沢が言うと太郎坊はふんっと鼻を鳴らし、樹をじっと見た。

「こやつ、人間か?」

「ええ。近頃人間と関わる仕事が増えてきたんで、人間が使う就活サイトに募集をかけたんですよ。そしたら見事にこいつを釣り上げたってわけです。しかもどうやらこいつ、以前に妖怪の言葉を習ってたらしくて」

「使えるのか?」

 鋭い眼光を樹に向け、太郎坊が問う。

「そこはまだ未知数ですね」

 水沢は正直に答えた。

「こいつ、今日が初めての仕事なんですよ。なので右も左も分からない状態ですね」

 そう言って水沢はにんまりと笑みを浮かべた。

「そんなわけでご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうかしごいてやってください」

「おいまて。それは儂がこやつの面倒をみるということか?」

「ええ、しばらくは太郎坊様の担当をさせようかと思っております」

「この鼻たれ坊主が儂の担当だと?馬鹿も休み休み言え」

 そう言うと太郎坊は部屋の扉を閉めようとした。だが、笑顔のまま水沢が扉を押さえつける。

「ところで太郎坊様、原稿はできたのですか?」

「…あともう少しじゃ」

 すっと目線を逸らし、太郎坊が答える。

「それは良かったです。それでは出来たところまででけっこうですので、原稿を頂けますか?」

「それは…全部できてから渡す」

「いいえ、それでは遅いのです。締め切りまであとどのくらいかご存知ですか?」

「…二週間ぐらいじゃろ」

「いいえ、翻訳する時間を考えるとあと一週間です。本来ならもっと前に原稿を頂かなければいけないのですがね」

 ため息をつきながら水沢は嫌みのこもった口調で返した。

「もしも太郎坊様がこいつの担当を引き受けて下されば、なんとか二日で翻訳できるよう努めましょう。そうすればあと五日程は延ばせます」

 水沢と太郎坊はしばし睨みあったが、盛大にため息をつき太郎坊が負けを認めた。

「必ず二日で仕事を終わらせるんじゃぞ」

「ええ。もちろん」

 余裕の笑みで水沢は頷いた。

「それでは明日からこいつを寄こすので、どうぞこき使ってやって下さい。今日はこれから他の作家の方達にも挨拶にまわろうと思うのでこれでお暇いたします」

「ふん。勝手にせい」

 そう言ってそっぽを向く太郎坊に水沢は頭を下げると、踵を返し階段を下りて行った。樹も慌てて一礼すると水沢の後を追った。

「くそ。また徹夜か」

 太郎坊の家を出た途端それまで浮かべていた笑みを消し、水沢は吐き捨てるように言った。眉間に皺がより、まさに鬼の形相といった感じだ。横で話を聞いていた樹は幾つも疑問が湧いて出てきていたが、上司の変貌を目の当たりにし、これは余計な事を言わない方が身のためだと無言で水沢の背中をついていった。

 しばらく水沢の背から殺気が放たれていたが、歩くにつれて徐徐に和らいでいった。山の中を歩くのはやっぱりヒーリング効果があるのかもしれないなと考えながら、樹は水沢を刺激しないように注意しつつ先ほど浮かんだ疑問を聞いてみることにした。

「あの、水沢さん、少し聞いてもいいですか」

「なんだ」

 振り向きもせず答える水沢に樹は恐る恐る尋ねた。

「その、明日から太郎坊様の所でお世話になることになったようなのですが、何をするのでしょう?妖怪の言葉を翻訳するのが僕の仕事ではないんですか?」

「ああ、お前にはまず妖怪の身の回りの世話をして妖怪がどういうものなのかを知ってもらう。どういうものか分からなければ原文を正確に読み取ることができないからな。妖怪の考え、感性に触れて、作者が何を言いたいのか汲み取る力をつけろ」

「わかりました」

 樹は素直に頷いた。妖怪の感性を理解できるかは不明だが、水沢の言ったことは大事なことかもしれない。今回は妖怪が相手だが、人相手でも十分使える力だ。

「そういえば太郎坊様は一体どんな本を書いていらっしゃるのですか?」

 時代小説だろうか?長い年月を生きている妖怪ならリアリティのあるものを書けそうだ。それとも妖怪が出てくるお伽噺のようなものだろうか。

「ライトノベルだ」

「は?」

 予想外の言葉を耳にし、上司に対して粗暴な言葉で聞き返してしまった。樹は慌てて謝り、もう一度丁寧に聞き返す。

「ライトノベルとおっしゃいましたか?」

「ああ」

「ちなみにどんなストーリーなんでしょうか?」

「主人公がどっかの異次元に吹っ飛ばされて、そこの国の王妃に成り上がっていく話だ」

「え…」

 つっこみたいところがあり過ぎて何から言っていいか分からない。とりあえず妖怪は全く関係ないんだな。

「あの方そんなの書いてるんですか。全然イメージと違いますね。もっと時代小説とか書いてるのかと思いましたよ」

「あぁ、以前孫に勧められた少女漫画にはまったらしくてな。自分でもそういう物語を書きたくなったらしい」

「そう…なんですか。っていうか孫がいるんですね」

「ああ。半分は人間の血が入ってるらしいがな」

 水沢の返事に樹はぽかんと口を開けた。

「えっ。それはつまりご両親は人間と妖怪ってことですよね」

「そうだな」

 水沢はこともなげに頷く。

「そんなことってあるんですか」

 唖然として樹は呟いた。今まで架空の存在でしかないと思っていた妖怪を、最近になって見るようになった樹にとって妖怪との結婚など想像もつかない。物語の中だったら面白いが、現実のこととなるとそうも言っていられない。

「それほど多くは無いが、今でも人間と妖怪が婚姻を結ぶことはある。妖力の強い妖怪なら人間に化けられるしな」

「いや、でも住民票とかどうするんですか。妖怪に戸籍もなにもないでしょう」

 樹がそう聞くと水沢はぞくっとするような笑みを見せた。

「現代の人間の世界にはお前が想像している以上に妖怪が蔓延っているんだ。役所の職員にも人間に化けた妖怪はいるさ」

「え…」

 どうやら自分は知ってはいけない世の裏事情を知ってしまったようだ。見た目も役所に届けた書類上も人間ではあるが、実は中身は妖怪でしたということがあるということか。ぞくっとして両腕をさする。何気なく挨拶するご近所さんも、妖怪である可能性があるのか。

「そんなに怯えなくていい」

 蒼ざめる樹を面白そうに眺めながら水沢は言った。

「人間の世界で暮らす妖怪の多くは人間との共存を考えている。人間に危害を加えることなどまずない」

「そうなんですか」

「ああ。さっきも言ったように人間に化けられる妖怪は妖力が高い。妖力の高さはそのまま知性と比例する。妖力の高い妖怪が馬鹿なまねなどしないさ」

「…そう願ってます」

 樹は水沢の話を聞き、この世の闇を垣間見た気がした。もうこの話には触れないようにしよう。心臓がもたない。

樹は気を取り直して水沢の方を向いた。

「話はもどりますが、太郎坊様の小説は人に受け入れられているのでしょうか?」

「ああ。今度アニメの2期が始まるって言っていたぞ」

「え、アニメ化されてたんですか?」

 アニメ化されているということは、書店で普通に並べられているってことか。

「ちなみにタイトルはなんですか?」

「『異世界を良世界に』」

「それかー!!!」

 思わず叫んでしまった。大概の書店で人気ランキングの上位に食い込む作品だ。本屋に行けば出入り口近くやカウンターの近くに並べられているので、嫌でも目に付く。まさかそんな人気作品をあんな天狗が書いているとは。また知ってはいけない世界を知ってしまった。

「なんだ、知っているのか?」

「読んだことはないですが、よく目にはします」

 正直にそう言うと、水沢は「一度読んでみればいい」と返した。

「王宮でのゴタゴタや他国との戦なんかの描写は実際に見聞きしたことを参考に書いているから、リアリティがあって面白いぞ」

 さすが何百年も生きる妖怪。実体験を踏まえているのか。

「うちの事務所にも置いてあるから、翻訳する前に今まで出ているもの読んどけよ」

「わかりました」

 水沢に言われ、急に自分が人気作品の翻訳をすることを実感した。できるのだろうか、翻訳なんて。ましてやあんなに人気の高い作品を。今まで妖怪相手の仕事だと思っていたが、読者は人間だということをすっかり忘れていた。本屋に自分が翻訳した作品が並ぶところを想像するとどきどきしてくる。

「おい、行くぞ」

 いつの間にか足を止めていた樹に水沢は声をかける。

「次の作家の家までだいぶ距離があるからな。ぼさっとしていると日が暮れるぞ」

「すみません」

 樹は慌てて水沢の後を追った。

「今度の作家さんはどんな妖怪なんですか?」

 天狗の次はなんだろうか。鬼、河童、大入道、火車などメジャーな妖怪が次々に浮かんでくる。どれも人に災いをもたらすものばかりで、考えるほどに憂鬱になっていく。

「次は大蛇だ」

「おろ…ち」

 くるりと踵を返し戻ろうとする樹の襟首を水沢は摘み、そのまま引きずっていく。

「離して下さい。大蛇とか無理です。天狗ならまだ人を助ける話もありますが、大蛇って。たいがいの話で人間喰われているじゃないですか」

「大丈夫だ。様様な食べもんを喰えるこの時代で、誰が好き好んで人間なんか喰うかと前に言っていたぞ」

「その言いぶりからすると、前に食べたことあるってことじゃないですか」

「ああ、昔人間の男と将来を誓ったんだが、男に正体がばれて喰ったことがあると言っていたな」

「なんですか、その怖い系の日本昔話は」

  今からそんな化け物の所へ行かなければいけないのか。まさか初日から命の危険にさらされるとは。

「あいつの前では気を抜くなよ。下手なこと言うと、とって喰われるかもしれんからな」

 水沢に更に脅され、樹は半泣き状態だった。逃げようにも水沢に襟首を掴まれ逃げられない。木々がうっそうとしていく山の中を、樹は俯きながら歩くほかなかった。

 しばらく歩くとふいに木々が開け、目の前に澄んだ水を湛えた大きな池が姿を現した。水に顔をのぞかせると、鏡のように自分の姿がはっきりと映った。水はどこまでも透き通っているが、あまりにも深いのか底が見えない。

「よし、潜るぞ」

 水面を眺めていた樹の背を、突然水沢が勢いよく押した。樹は抵抗する間もなく池に落ちていく。必死に手足をばたつかせるが、濡れた衣服が重しとなり下へ下へと引きずりこまれていく。焦ったせいで口から水が流れ込み、息の出来ぬ苦しさの中意識が遠のいていった。



                   *

―――ハルによく似ているな

 どこか上の方から温かな男の声が聞こえてきた。

―――ふふ。☓☓☓さんにも似ていますよ。すっとした鼻筋や涼しげな目元はそっくりですよ

 今度は女の声がした。二人はとても幸せそうに語らっている。二人の声を聞いただけで、樹は温かな気持ちになった。この時間がずっと続けばいいな。樹がそう思った途端激しく体が揺さぶられ、はっとして樹は目を覚ました。

「おい、いつまで人様の家で寝ている気だ」

 目の前に水沢の不機嫌そうな顔が現れ、びくっとして樹は上体を起こした。どうやら池に突き落とされた後気を失い、寝かせてもらっていたらしい。ふと、違和感があり自分の体を見ると、身に纏っている物が寝間着用の浴衣になっていた。

「あら、目が覚めたのね」

 女の声がしてそちらに目を向けると、部屋の扉の近くに着物姿の女が立っていた。漆黒の髪をゆるく結い、松葉色の単衣に灰白色の帯が落ち着いた印象を与える。左目の泣きぼくろが色っぽさを漂わせていた。

「ふふ、驚いたわ。この人が若い人間の子を連れてくるなんて」

 着物の女がすっと水沢に視線移すと、水沢は口をへの字にして横を向いてしまった。

「おかげで新しい話を思いついたわ」

 そう言って女は水沢から樹に視線を戻すと、にっこりと笑った。その笑みを見て、樹はぞくりと悪寒を感じた。顔は笑っているのだが、獲物を前にした獣の目をしている。

「だからそれは止めてくれと言っているでしょう」

 楽しそうに笑っているそんな女に、水沢は睨みながら不機嫌な声で言った。

「いやよ。せっかく面白い話を見つけたのだから書くほか無いわ」

 そんな水沢に女は口を尖らせる。全く状況が読み込めない樹は、ぽかんとしてそのやり取りを眺めていた。

「あの、水沢さん、いまいち状況がつかめないんですが…」

「ああ、お前は池に入った途端意識を失ってな、ここにしばらく寝かせてもらっていたんだ。まったく、どんくさい奴だな」

「どんくさいって、こんな深い池に突き落とされたら溺れますよ」

「あのな、ここは妖怪が棲む池だぞ。普通の池なわけないだろう。あのままじっとしていればじきに体が水に慣れ、水の中でも息ができていたはずだ」

「それなら先に言ってくださいよ。いきなり池に突き飛ばされて死ぬかと思いましたよ」

「それぐらいで死ぬなどひ弱な奴だな」

「当たり前でしょう。僕は普通の人間ですから」

 樹と水沢の言い合いを眺めていた女はふふっと笑みをこぼした。

「やはり仲が良いのね」

「これのどこを見てそう思うんです」

 水沢はため息をつき、あきれた声で言った。それから樹の方を向き、女のことを紹介した。

「こちらはこれからお前が担当する作家の黒耀様だ」

「初めまして。人情本を主に書いております、黒耀と申します」

 女は樹に近づき、かしこまって挨拶をした。慌てて樹も返礼し自己紹介をする。

「ふふ。最初この人があなたを連れてきた時、人攫いでもして逃げて来たのかと思ったわ」

 黒耀はにこやかに笑いながら樹にぶっそうなことを言った。

「だからなんでそうなるんです」

 横で水沢が大きくため息をつく。

「だってこの人ったら、気絶しているあなたをお姫様抱っこして、必死の形相で玄関に立っていたのよ」

 黒耀は樹に顔を近づけて、楽しそうに二人がここに来た時の様子を話した。

「玄関のドアをどんどん叩く音がしたから慌てて出てみたの。そしたらこの人がこのままじゃこいつ死ぬかもしれないって泣きついてきて。幸いそんなに水も飲んでいなかったみたいだったから、人工呼吸をしたら息を吹き返したわ。でもまだ意識を取り戻さなかったから、体を圧迫しないように今着ている浴衣に着替えさせてここに寝かせたの」

「そうだったんですね。助けて頂きありがとうございます」

 そうだった、今まで僕は溺れて意識を失っていたんだ。初対面でこんなにお世話になるなんて。樹は深々と黒耀に頭を下げた。すると黒耀は意味あり気に水沢を見て、口元に笑みを浮かべた。

「あら、お礼ならこの人に言ってあげて。人工呼吸も着替えも、全部この人がやってくれたのよ」

「え、そうなんですか」

 樹が水沢の方に顔を向けると、水沢はばつが悪そうに視線を逸らした。

「あの、助けて頂いてありがとうございます」

 樹が頭を下げると、水沢は「ああ」と短く答えた。その様子を黒耀は面白そうに眺める。

「なかなか良い眺めだったわよ、可愛い坊やが色男に口づけされているのは」

 気まずそうにしている水沢に、追い打ちをかけるように黒耀は妖しく笑んだ。

「だから…」

 水沢は眉根を寄せ、黒耀を睨んだ。

「あれはただの人工呼吸ですし、変なふくみをもたせないで下さい」

 水沢が本気で怒っていると分かった黒耀はちろりと舌を出し、「ごめんなさい」と謝った。

「あなたをからかうのが面白くてつい」

「本当にあなたって人は」

 そう言って水沢は盛大にため息をついた。

「あ、でもあなた達を題材にしたお話は書くけど」

「は?」

 水沢は唖然として黒耀の顔を見る。

「え、僕達の話を書くんですか?」

 ぼんやりと二人の掛け合いを聞いていた樹も、急な話に驚いて黒耀の方を向いた。

「ええ」

 黒耀は樹に笑いかけ頷いた。

「ちなみにどんな話を?あ、その前にさっき言っていた人情本って…?」

「お前わかってなかったのか」

 呆れた顔で水沢がつぶやく。

「…すみません」

「お前はそれでも日本人か。人情本ってのは、簡単に言うと江戸時代後期に書かれた恋愛小説の一種だ。今でもあるだろ、平凡なOLと若社長との恋とか、主人公、イケメン、ライバルとの三角関係とか。人情本だとそれが若旦那と生娘との色恋沙汰とかになる」

「あー、なんとなく分かりました」

 納得して樹は頷く。

「それでこの方は人情本が流行り出し始めた頃からずっと、その手の小説を書き続けてきたのだ…が…」

「が?」

「最近その、男同士のそういうのを書き始めてな…」

「え…・っと、BLってことですか?」

「そうよ」

 水沢が答える前に、黒耀がにっこりと頷く。

「でも別に最近ってわけじゃないわ。昔から所々そういう場面は出していたの。でも今の時代、おおっぴら気に展開されているじゃない?これはもう男同士の恋愛を主体に書かないとって思ったのよ。それで今、何冊か本を出しているのだけど、今度はあなた達の話を書こうかしらって。大丈夫、純愛ものよ」

 一体何が大丈夫なのだろう。樹はちらりと水沢を見やった。水沢は苦虫を潰したような顔で額に手を当て俯いていた。それから樹の方に視線を寄こし、無言で頭を横に振る。諦めろということだろうか。

「あ、そうだ」

 黒耀は何かを思いついたようで、嬉しそうにぱんっと手を鳴らした。

「あなたにお願いする翻訳は、あなた達二人が題材の物語にしようかしら」

 「ね」っと言って、黒耀は樹と水沢に笑顔を向ける。

「自分が出ている本なら訳しやすいでしょう?」

 黒耀の言葉からは有無を言わせぬ圧力を感じる。樹は助けを求めて水沢を見たが、水沢の目には諦念が浮かんでいた。水沢は一度大きく息を吐き、黒耀の方を向いた。

「わかりました。こいつに翻訳をさせてくれと無理を言っているのはこちらですので、あなたの好きにして下さい」

「あなたならそう言ってくれると思ったわ」

 黒耀は満足げに笑みを浮かべた。それから樹の正面に立ち、樹に右手を差し出した。

「これからよろしくね。樹君」

「よろしくお願いします」

 とんでもない物を翻訳させられるはめになったなと憂鬱な気持で、樹は差し出された手を握り返した。

「それで、調子はどうだ。もう動けそうか?」

 水沢に聞かれ樹はしばし動きを止め、それから頷いた。起きた当初は頭に鈍い痛みを感じていたが、話しているうちにそれもすっかり無くなっていた。

「はい、大丈夫です」

「そう、良かった」

 黒耀がにこりと微笑む。

「着替えはベッドの横に置いてあるから。私達はいったん部屋を出るわね」

「あ、はい」

 水沢と黒耀が部屋を出ると、樹はいそいそとベッドから抜けて着替え出した。着替えながら改めて部屋の中を見回す。樹の寝ていたベッドは南側の壁際に寄せられており、向かって左手に木製の小机と椅子が置かれていた。部屋は漆塗りの柱と白い土壁に三方を囲まれ、樹の正面に当たる北側に、紅梅が描かれた襖があった。足元には青々とした畳みが敷いてある。微かにい草の香りがした。

 樹は元々着ていた自分の服に着替え終わると、浴衣を畳みベッドの傍に置いて部屋を出た。襖を開けるとすぐ目の前には蓮の池が広がっていた。どうやら建物の外側を回廊がぐるりと巡っており、更にその外側を蓮の池が囲んでいるようだった。

「池に見とれてないで、さっさと帰るぞ」

 ふいに横から声が聞こえ、びくっとして樹はそちらを見た。そこには壁に背をつけ、疲れた表情で池をぼうっと眺める水沢の姿があった。水沢はふっと池から視線を外すと壁から離れ、樹に背を向けて歩きだした。樹もその後を追う。しばらく歩いていると回廊の外側に白い壁が現れ、池は見えなくなった。薄暗い歩廊を右手に折れ少し進むと、開けた場所に出た。どうやらここがこの屋敷の玄関らしい。一段下がったところに石が敷かれ、そこに樹と水沢の靴が並べられてあった。玄関の隅では見送りのつもりか、黒耀が微笑みを浮かべながら立っていた。

「もう少しゆっくりしていけばいいのに」

「今日は挨拶に来ただけなので、これ以上ご迷惑はかけられません」

 そう言って水沢は黒耀の申し出をきっぱり断る。

「そんなかたいこと言わないで、好きなだけ休んでいっていいのよ」

「いえ、帰りが遅くなると、こいつがちょっかい出されるかもしれないんで」

 そう言って水沢は顎で樹を示す。

「あら、そしたらあなたが守ればいいじゃない」

「これ以上の厄介事は御免こうむります」

 それから水沢は靴に足を突っ込み、玄関の戸を開けた。そして黒耀に向き直ると深々と頭を下げた。靴を履き終えた樹も慌ててそれに倣い頭を下げる。

「今日はとんだご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「いいのよ、久しぶりにあなたともゆっくり話せたし」

 黒耀はそう言って笑い、それから樹の方へ顔を向けた。

「樹君、これから大変だと思うけどがんばってね。何かあったら相談にのるわ」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 頭を下げる樹を優しい目でしばらく見つめていた黒耀は、ふいに外に向かってパンパンと二回手を打った。

「今度は樹君が溺れないように、地上まで乗せていくわ」

 黒耀が言った途端、どこからともなく玄関の外に二頭立ての馬車が現れた。艶やかな毛並みの二頭をよく見ると、後ろ足の部分が魚のヒレのようになっている。

「あの、これって…ケルピー?」

 樹は驚いてそれをまじまじと見た。

「あら、よく知っているわね」

「ええ、本や漫画に時々出てきますから。でもこれって、イギリスの方に棲んでいる怪物じゃないですか?」

「そうよ。ちょっと伝を頼って手に入れたの」

 嬉しそうに言う黒耀に樹は「そうですか」としか返事ができなかった。今は妖怪が他国の怪物を飼う時代なのかと、樹は末恐ろしくなった。妖怪の世界にもグローバル化が進んでいるということなのか。

「さあ、早く乗ってみて。ケルピーは泳ぎが上手いから、酔うこともないわ」

 黒耀に促され、樹はクーペと呼ばれる箱型の二人乗りの馬車に乗り込んだ。樹の後に続いて水沢も乗ってくる。馬車の座席はふかふかとしていてとても乗り心地が良かった。

 二人が腰を落ち着かせると、御者もいないのにケルピー達はゆっくりと動き出した。前足と後ろのヒレを使って上へと向かう。樹の体は後ろに押しつけられ、まるでジェットコースターの頂点へ向かう時の気分を味わった。ふと窓の外に顔を向けると、下の方で手を振る黒耀の姿が見えた。樹は頭をペコペコと下げ、それに応えた。

黒耀の屋敷が見えなくなるくらいまで上昇すると、馬車の角度は水平に近くなり樹は水中の景色を楽しむ余裕ができた。黒耀の言った通りケルピーの泳ぎは上手いらしく、揺れもなくすーっと進んでいく。馬車は大きな螺旋を描きながら次第に海面へと近づいていった。

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妖し語翻訳します 野草 @nogusa-sho

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