妖し語翻訳します

野草

第1話 新しい仕事

かれこれ一時間、樹はベッドに寝転びスマートフォンの画面をぼうっと眺めていた。先ほどから求人情報を見ているのだが、どうにもこれといったものが見つからない。そのうち目の奥がちりちりと痛み始め、樹はスマホを手放した。仰向けになり目を閉じる。

「どうすっかなぁ」

 樹は今まで接客の仕事をやっていた。しかし在職中の一年半の間でどうも自分にはこの仕事が合わないことを悟った。始終にこやかな笑顔でお客と接するのがまず無理だ。それに加えてやたら言いがかりをつけてくるクレーマーや無茶な注文をしてくる客への対応に心底うんざりした。日々のストレスで心が病み、気が付くと心療内科に通いながら仕事をするようになっていた。このままではいずれ壊れると思い三カ月前に退職。仕事を辞めた後は実家に戻り、失業手当を受給しつつ仕事を探していた。ハローワークにも通っているがなかなかピンとくる仕事が見つからない。求人で掲載されているのはだいたい接客業や営業職ばかりだった。

――――もう少しだけ見たら寝るか

 そう思いながらとある求人サイトの仕事一覧をスクロールしていると、ふと気になる文字が並んでいた。

「妖語翻訳事務所」

 妖語ってなんだよ。妖なんてつく国名なんてあったか?好奇心から画面をタップし、詳しい内容を確認する。上部には妖怪絵巻風の画像があり、そのすぐ下に経営者のコメントが載っていた。

『このページに興味を持ってくれたそこの君、君は選ばれし者だ。このページに辿り着ける者はなかなかいない。これは運命だ。私と一緒に働こう』

「なんだそれ」

 思わず呟く。もっと書くことあるだろ。こういうことがやりがいだとか、社会でこんな役割を担っているだとか。というか、妖語ってなんなのか説明してくれないんだな。まあ下に仕事内容が書いてあるか。そう思い画面を下へ動かすと、仕事の概要が書かれていた。

「主な仕事は日本語で書かれたものを妖語に翻訳すること。例えば書物の翻訳、邦画の字幕作成の監修などがある。…だから妖語ってなんだよ」

 妖語の説明がどこかにないかどんどん下の方を見ていったが、仕事の一日の流れや実際に働いている先輩の話、応募要領が書いてあるだけでけっきょく妖語について書いてある箇所は無かった。

「なんなんだよこの会社は」

 そもそも会社の紹介に妖怪の絵を使う意味が分からない。まさか妖怪の言語で妖語というわけじゃないよな。人間の言葉を妖怪の言葉に翻訳する仕事ってか。樹は馬鹿馬鹿しいと口の端で笑ったが、他の会社と全く異なる得体のしれないこの会社が妙に気になった。仕事を探すふりをしながらゲームをしたり漫画を読んだりと、無為に過ごす毎日に飽きてきたのかもしれない。何か刺激がほしい。

 気が付くと樹は応募フォームにページをとばし、名前、住所、生年月日、電話番号など必要事項を入力して送信ボタンを押していた。

「送っちゃたよ」

 我に返り呆然とつぶやく。しばらく『送信しました』と書かれた画面を見つめていたが、一つため息をつくと画面を閉じ、スマートフォンをベッドの脇に放った。

 ―――もう、なるようになれ。

  ベッドに潜り込みと照明を消す。向こうから返事があるまでこのことは忘れよう。そう決意し、樹は疲れた目を閉じた。

 『妖語翻訳事務所』から連絡が来たのは、三日ほど過ぎてからだった。ハローワークの帰り道に何気なくスマートフォンを見ると、知らぬ番号からの着信が表示されていた。留守番電話も入っていたので、電話をかけ直す前にそれを確認する。留守番電話には、低く深い男性の声が入っていた。

―――「原田樹さんのお電話でお間違えないでしょうか。妖語翻訳事務所の水沢と申します。お時間ある時に折り返しお電話をお願い致します」―――

 樹は家でかけ直すか迷ったが、帰る途中にある小さな公園に入り、ベンチに腰をおろした。脇に置いた鞄から手帳とペンを取り出し、『妖語翻訳事務所』に電話をかけ直す。

 緊張しながらコール音を聞いていると、四度目のコールで電話の相手が出た。

「お電話ありがとうございます、妖語翻訳事務所でございます」

 やや低めの女性の声がした。

「お忙しい所申し訳ございません。先ほどお電話を頂いた原田と申しますが、担当の水沢さんをお願できますか」

 緊張しながらもスムーズに声は出た。

「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」

 すぐに保留音が流れ、しばらくすると留守番電話に入っていた男性の声が聞こえた。

「お待たせいたしました、水沢でございます」

「お電話頂いた原田です」

「原田さん、お電話ありがとうございます。早速ですが面接の日時を決めたいのですが、今お時間よろしいですか」

「はい」

 電話を右手から左手に持ち替え、ペンを握り締める。

「面接は今週の土曜、1時にさせて頂きたいのですが、ご都合はつきますか」

「はい、大丈夫です」

「ありがとうございます。面接場所は弊社でさせて頂く予定ですので、追ってメールで地図をお送りします。面接の際には履歴書をお持ちください」

「わかしました」

「何かご不明な点はございますか」

「大丈夫です」

「それでは土曜日、お気をつけてお越しください。失礼いたします」

 電話を切ると、ふうっと一つため息が出た。思った以上に緊張していたらしい。鞄に手帳とペンをしまい、立ち上がる。早く帰って履歴書を書かないと。

 樹はやっと一歩踏み出せた気がした。



 妖語翻訳事務所は、樹の家から車で小一時間かかる場所にあった。郊外にある山のふもとにあり、事務所の周辺は田んぼや畑が広がっている。樹は事務所の前方に設けてある駐車場に愛車を停め、ルームミラーで襟元を確認すると緊張した面持ちで車から降りた。

―――意外におしゃれだな

 樹は事務所の建物を古ぼけた小さなビルだと勝手に思っていたが、実際は二階建ての古民家を再生した綺麗なオフィスだった。瓦の屋根に黒い木の壁。壁の間には等間隔で大きなガラスの窓が設けてあり、解放感がある。

 樹はひとまず玄関にむかった。個人宅のような引き戸の玄関で、戸のそばに呼び鈴がついている。樹はためらいがちに呼び鈴を押した。戸の向こうでチャイムがこだまする。樹がどきどきしながら待っていると、戸がガラガラと開き、髪を後ろでに一くくりにした、ほっそりとした女性が姿を現した。

「すみません、あの、1時に面接の予約をした原田ですが」

「ああ、原田さんですね。どうぞお入り下さい」

 女性は僅かに笑みを浮かべ、樹を中へ促した。

「失礼します」

 中に入ると全面フローリングになっており、事務所のスタッフは靴のまま作業をしている。部屋は区切られておらず、手前に来賓をもてなすソファとローテーブルが置いてあり、奥の方に事務用のパソコンがのった机がいくつか置いてあった。そのうちの二つのパソコンを、若い女性と壮年の男性が使っている。

「どうぞこちらへ」

 先ほどの女性スタッフに案内され、樹は来賓用のソファに腰掛けた。黒い革張りのソファは樹が座ると深く沈みこみ、慌てて背筋を伸ばし姿勢を正した。

「お飲み物はコーヒーとお茶、どちらがよろしいですか」

「あ、えっと、お茶をお願いします」

 樹の言葉に一つ頷くと「少々お待ち下さい」と言い残し、女性スタッフは部屋の奥へ行ってしまう。樹は気づかなかったのだが部屋の奥の隅に扉があったらしく、女性はその扉を開け部屋のむこうへ姿を消した。

 残された樹は落ち着かず、部屋の中に視線をさまよわせた。奥で作業している二人のスタッフは樹を気にする素振りも見せず、カタカタとキーボードを打ち続けている。樹はとにかく集中しなければと目の前のテーブルに視線を戻し、頭の中で面接のシミュレーションを始めた。志望動機に長所と短所、前職を辞めた理由。そこまでを架空の面接官に答えた時、ふと視界の端で何かが動いた。反射的にそちらに目をやる。

「えっ…」

 見た瞬間、樹は絶句した。人はおかしなモノを見るとどうやら頭の機能が停止するらしい。樹はただただそれ(・・)を見ていることしかできなかった。それ(・・)はテーブルの角からじっと樹を見ていた。大きさは野球ボールほどで、白くほわほわした柔らかな毛でおおわれている。真ん中あたりにゴマのような小さい目が二つついており、その目を樹に向けていた。こんなものを見てしまったらもう面接どころではない。

―――なんなんだこれ。面接が嫌すぎて幻覚でも見ているのか

 いったん目を離せば消えているかもしれない。だが視線をそらした瞬間飛びかかってきそうで、なかなか目を離せないでいた。

「おまたせ致しました」

 ふいに背後で男の声がした。振り返ると、先ほどまでパソコンをいじっていた男がすぐ後ろに立っていた。

「私が所長を務める水沢と申します」

 考える間もなく樹は反射的に立ち上がり、男に向かってお辞儀をしていた。まさか所長自ら面接をするとは。緊張で高鳴る心臓を抑えつつ樹はゆっくりと顔を上げた。水沢は樹より頭一つ分高く、悠然と笑みを浮かべながら樹を見下ろしていた。水沢の顔を見、樹の鼓動は更に速まる。遠目でも整った顔立ちをしていると思っていたが、近くで見ると男の樹でも見とれてしまうほど均整のとれた美しい顔をしていた。長めの黒髪を背に垂らし涼しい目元でこちらを見る姿はなんとも浮世離れしている。

「あ、えっと、原田樹と申します。よろしくお願いします」

「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。面接と言っても堅苦しいものではなく、気楽にお話しして我が社のことを知ってもらおうというものですから」

 そう言って水沢は樹に座るよう手で示し、自分も向かい側の椅子に腰を下ろした。水沢と目線の高さが同じになり樹は緊張で爆発しそうだった。

「どうぞ」

 頭上から声がし、目の前にお茶の入ったカップが差し出された。見上げると最初に樹を案内した女性が無表情でお茶を差し出していた。

「ありがとうございます」

 お茶からは花の甘い香りがする。飲んでもいいのだろうかとちらりと水沢に目をやると、水沢は「どうぞ」とすすめた。

「これは緊張をほぐすハーブを使っているから落ち着きますよ」

「そうなんですか」

 樹はそっとカップを傾け口に含む。甘くスッとする香りが口に広がる。カップの三分の一ほど飲むと、鼓動もだいぶ収まってきた。

「さて、落ち着いたところでそろそろ始めましょうか」

「はい」

「まずは原田君にこれをやってもらいたい」

 そう言って水沢は一枚の紙とペンを差し出した。紙にはどこの国の言葉かわからないが、文章が書いてある。漢字に近いような文字だがもっとぐねぐねとしており、ところどころヒエログリフのように鳥や虫などをかたどった記号もあった。一行で終わる文章が十ほどあり、それぞれの文章の下にある程度の空間が設けられている。

「ここに書いてある文章を和訳してもらいたい」

「え?」

 思わず聞き返してしまった。この落書きだか暗号だかわからないものを和訳しろと。

「あの、この文章を解くヒントとかないんですか?」

 樹が聞くと水沢はにこりと笑った。

「大丈夫、君ならこの文章が理解できるはずです。さてそろそろ問題に取り掛かりましょうか。この文章の下に訳を書いていって下さい。制限時間は5分です」

 そう言って水沢は自分のしている腕時計を見た。

「用意、始め」

 条件反射で樹はペンをとり文章と睨みあう。

―――和訳しろって言ってもな

 樹はまず最初の文から順々にざっと目を通した。絶対解けないだろこんなの。なかば諦め気味に文章を眺めていたが、ふと文章の所々に見覚えのある文字を見つけた。見覚えのある文字と言っても日本語に似ているというわけではなく、幼い頃に考えた暗号に似ているのだ。まさかとは思いつつ、他に検討もつかないので幼い頃の記憶を引っ張り出してなんとか文章を作ってみた。

『僕は妖怪です』

――――なんだこれ

 やっと一文だけ和訳できたが、和訳した文に首を傾げる。問題文にこんな文章を載せるか?しかしここで悩んでいてもしょうがない。次の文に取りかからないと。樹が次の文に目を移した時、頭上から「やめ」と声をかけられた。

 ああ終わってしまった。一文は解けたけど、あれで正解なわけないよな。樹は暗い顔で用紙を水沢に返した。水沢は返ってきた答案をしばらく見つめる。それからふっと口元を歪めた。

―――あんな答え書いたら笑うよな

 間違えるにしてももう少しまともなことを書けば良かった。樹は恥しさで俯いた。もう面接などせず早く帰りたい。なんでこんな所に応募してしまったんだろう。鬱々と考えていると、水沢に名前を呼ばれた。樹は暗澹たる思いで顔を上げると水沢はにっこりと笑い言った。

「合格です」

「へ?」

 樹は自分の耳を疑い聞き返す。

「合格ですよ、原田君」

「え、え、面接は?」

「面接をするまでもないですよ。あなたには妖語翻訳の素質があります。ほら、この文を正確に和訳出来ているじゃありませんか」

 そう言って水沢は樹が書いた文章を長い指でなぞった。

「あなたは妖語…妖怪の言葉を訳す能力を有しています。是非我が事務所で働いて下さい」

 水沢が握手を求めて手を伸ばすと、樹は理解が追いつかないまま反射的に手を出した。水沢はその手をぎゅっと握り微笑んだ。

「ありがとうございます、一緒に働いてくれるんですね?」

 樹は頷きそうになり、はっと我に返って手を引っ込めた。

「まって下さい、今妖怪って言いました?」

「ええ」

 水沢はいたってまじめに答える。

「ええって、妖怪なんて空創上のものでしょ?からかっているんですか?」

「いいえ、からかってなんかいませんよ。妖怪は実在します。君だって見えるでしょ、これが」

 水沢の手にはあの白くてほわほわした物がのっていた。ゴマ粒のような目はあいかわらず樹の方をむいている。

「!」

 すっかり忘れていた、こいつの存在を。こいつが妖怪なのか?樹が引きつった顔で見ている中、水沢はそれの白い毛並みを優しく撫でた。それは気持ちいいのかうっとりと目を瞑る。

「そんなに恐がらなくても襲ったりはしませんよ。これは『浮(うき)綿(わた)』と言う妖怪で、宙を漂い羽虫に似た妖怪を捕食しています」

「そう…なんですか」

 そう答えたまま次の句が継げない。自分は夢でも見ているのだろうか。樹は太腿をつねってみた。痛い。どうやら夢ではないようだ。

「さてさっそくですが、入社書類を渡しますね」

 水沢は樹の様子など意に反さずどんどん話を進めていく。

「ここに氏名、住所、連絡先を書いてもらって、ここは給与の振込先の金融機関名を書いて下さい。車で通勤でしたら自宅から事務所までの往復距離と、ここに簡単でいいので地図をかいて下さい」

 「え、あ、あの」

 妖怪の話から現実感ある話に変わり、樹の頭もやっと動き出した。

「あの、僕まだ入社するとは言ってないんですけど…」

「でもさっき握手してくれましたよね?」

 どうやら先ほどの握手がここに入社をするという意思表示と受け止められたらしい。

「いえ、さっきのは反射で手を出してしまったというか…。その、せっかくのお話なんですがどうも僕が思っていた仕事と違っていて、辞退させて頂きたいのですが…」

 しどろもどろになりながらも樹はこの話はなかったことにしてほしいと水沢に伝えた。水沢は口を挟まず聞いていたが、ふと樹に質問を投げかけた。

「原田君は就職サイトの弊社のページを見て応募をしてくれたんですよね?」

「はい」

「あのページを見てどんな仕事だと思ったんですか?」

「外国語を翻訳する仕事かと思っていました。妖語というのが妖怪の言語ではなく米国とか英国とかみたいに『妖』って漢字を名前に当てはめる国の言葉を翻訳するのかと…」

「そういうことだったんですね。それで実際に仕事の概要を聞いてどうでした?」

「いや、その、妖しい会社だなと」

 婉曲な言い方もせず正直に答える。それしか言葉が浮かばない。樹の答えを聞き、水沢はしばらく考えこむように黙り込んだ。樹は落ち着かずそわそわする。 水沢が次に何を言い出すか怖々待っていると、水沢は突然樹ににっこりと笑いかけた。その笑みに言いようのない不安を感じる。

「原田君はまだここの仕事がどういうものかわからなくて不安なんですよね?それなら一カ月間インターンシップをしてみるのはどうでしょう。インターンシップと言ってもきちんとお給料は出しますよ」

「インターンシップ…」

 まさかここでそんな言葉を聞くとは思わなかった。

「まずは一カ月仕事を体験してみて続けられそうならそのまま入社、だめなら御縁がなかったということでこちらも諦めます。ちなみにインターンシップ中の時給は1500円で」

「1500円!」

 8時間働いたとしたら1万2千円か。一日分の給料が単発バイトよりも良いじゃないか。我ながら現金だとは思うが、一気にこの事務所で働く方へ気持が傾いた。たった一カ月だ。転職活動の軍資金を貯めるにはいいかもしれない。

「…わかりました。一カ月よろしくお願いします」

 樹が頭を下げると水沢は嬉しそうに「ありがとう」と感謝を述べた。笑顔で喜ぶ水沢を見てこれで良かったのかもしれないと思う樹だったが、数日後、タイムマシンがあればあの時に戻って殴ってでも自分を止めるだろうと振り返ることになる。

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