深淵に覗かれた
和登
深淵に覗かれた
「やぁ」
深く、奥を見通すことのできない川の淵ーーー深淵をぼぅと覗いていた昼過ぎのことだ
声をかけられた時の僕は飛び上がるでもなく、ほぁ…と呼吸まじりに返事をするだけだった
「こうして声を届けてみたのは初めてではないけれど、驚かれないのは初めてだ。もしや自殺志願者?小説家?それともポスドクとかいう命知らずの人種かな」
つまらないことを言うやつだなとつぶやきながら目を凝らすけれど、水面を見通すことはできない。大体ポスドクだったらなんだというのだ
「奇人変人の集まりだと聞いているよ。そんな普通じゃない道に入らなければ一緒にいられたのに、とも」
深淵に潜むらしい存在は考えにそのまま返事を返してきた、だがそれより、そんなことを言った奴は誰だ?
「長い黒髪を後ろにまとめて、黒縁眼鏡。白の服がよく似合う透き通った印象の女性さ、君と年は近いが上かな」具体的だ、そして彼女のことだ
「なんだ、知り合いかい?あの女性はここの常連でね。いつもここで詩的な話をしてくれるのさ」
共通の存在がいて気を良くしたのか少し自慢が入れてきた。馴れ馴れしい
少しファンタジーな人だったんだな。言われてみれば子ども時からの宝物といって、やたら手の長いクマのぬいぐるみの写真をみせてくれたっけ
「ほう、よほど仲がよろしかったとみえる。ならばここ最近の話も君のことかい」
なんの話をしているんだ?
「さあさて、これはプライバシーという奴だな。そこで一つ、私の望みに応えてくれたら教えてやってもいいんだがどうかな?」
近代的な深淵だ、一応聞くが、何が望みなんだ
「川の掃除をしてほしい」掃除
「汚いと気分も落ちるし、何より人が来てくれない。面白くないのでね」
深淵の暮らしの糧は人間のゴシップらしい。しかし関係がないわけでもない、引き受けたよ
そのゴシップを求めたのは君だろう?と茶化されたのは無視し、話を進める
「はっきりしない男だと言っていた。大変だってわかっているのに、誰に頼るでもなくヘラヘラと、コンニャクだってもっと押せば返ってくるのに。自分のことを話してほしいのに、そりゃお化粧した時にすぐ気づいてくれたのは嬉しかったけど、何度も言われたらからかわれているみたい」
これは…
「この前は食事に誘ってもらったけれど、お会計の時に私も払うって言ったらここはカッコつけさせて!って言って会計したらお金が足りないの、恥ずかしかった。慣れないことなんてしなくていいのに。でもそこからしょんぼりし通しだったの、子犬みたいで可愛かった」
かゆ…
「そんななのに私の人生は私が決めてくださいなんて、今のことじゃなくて先のこと考えてくださいなんて、ひどくない?今がなきゃ先もないじゃない。変人だから、ポスドクだから、保証できないなんて、私だってできないのに、意気地が無いよ。あの夜だって」
ストーップ、ストップ
「何かな変人ポスドク君」
だんだん態度がでかくなっている。あの人はこういう所で吐き出す人だったのか、クールだと思っていて、なんでもできてると思っていたけど、そんなことは無いのか。そりゃ、学生とはいえ子供でも無いからそれくらいわかっていたつもりだけれど
「女性の秘密はそそるだろう?」
うるさいな。でも、考えは変わらないけれど、まだ話すことは残っているみたいだ。
「それはよかった、ならば変人ポスドク君、川掃除は明日の朝が良い。忘れないでくれ」
__________
翌日の朝、朝霧の中、深淵という奇妙な存在のことを真に受けてまた川の淵に訪れる。準備は万端、約束は果たそう
川に近づく霧の先に人影が見える。朝からご苦労な方だ
「あれ、こんな早くどうしたの?」彼女だった
動転して手元見る、軍手にはさみ、ゴミ袋。そうだ、川掃除来たのだ
「そんなことするんだ…なんか似合うね」仕事となればなんだってしますよ、これは約束…ボランティアですけどね。僕は川辺を眺めながら言う
「ボランティア、えらいね」ええ、近所だし、関係ないわけじゃないですんで。川辺のゴミは少しばかり多いようだ
「そうかぁ、じゃあ私も関係ないわけじゃないね」あと数ヶ月だけど、と彼女は小声で続ける
そうですね。じゃあ少しばかり手伝ってもらってもバチはあたりませんね。そう言って僕は彼女の方を向く
「うん、喜んで」僕はその表情を見たかったんだと思った
そしてこの先も見たいのだと確信した。その時の僕の顔はコンニャクよりふにゃふにゃだったと思う
__________
「やあ君、掃除をしてくれてありがとう」深淵は親しげだ
なぁ、深淵は全て分かっていたんじゃないか?
「全てなんて恐れ多い、私が分かるのはここから覗けることだけだよ」
この出来事を彼女に話したら、病院に連れていかれそうになったのはあまり関係のない話だ
〈おわり〉
深淵に覗かれた 和登 @ironmarto
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