きみくん

空音ココロ

きみくん

 買い物の帰り道、僕は買い物袋を持ちながら、彼女は手ぶらではしゃいでいる。


「きみくんはいわし雲みたいだね」


 彼女はこちらに振り返って笑いながら言った。

 そんな姿をゆったりと見ている僕の顔はきっと締りが無いのだろう。

 

「いわし雲ってどんな感じなの?」


 真上に広がる空には一面のいわし雲が並んでいた。青い空に白い雲が幾重にもふわふわと並んで浮かんでいる姿は壮観だ。この雲は俳句の季語に使われたり、地震の兆候なんて言われたりする事もある。

 それでも空一面に広がるふわふわとした雲を見て胸が熱くなるのを感じるのはどの時代、人でも共通なんじゃないかと思う。


「しらな~い」


 全く、きみは自由奔放だよね。自分で言ったのに知らないときたよ。

 でも僕はそんな君が好きだよ。

 心の中でそっと言った。

 自由気まま、発想は豊かで、身も心も誰にも縛られない。たまに何を言っているのか分からないこともあるけれど、それもまたスパイスかな。

 そうだな、スパイスで言うと山椒みたいな? 小粒でもピリリと辛い、それでいて美味しさ抜群みたいな……


「なに一人でにやけてるのー?」

「にやけてた?」


 ほっぺを両手でぐぃーっと引っ張られる。自分でも歯をいーっと横にして食いしばってる。でも眼は笑っちゃってるんだ。

 君さ、笑ってるけどさ、そんなに引っ張ったら痛いって。

 僕の心には君の笑顔を見ている嬉しさと、頬を引っ張られてる痛さと、構ってもらってる優越感が入り混じっている。そんな中でも表に出てくるのはやっぱり嬉しい気持ちなんだろうね。


「にーやーけーてーたー」

「これじゃ、にひゃけられぇないよ」

 

 僕はほっぺを引っ張られたまま答える。言葉になっていない声。口が思うように動かせないんだからしょうがないじゃない。


「良く聞こえないー。これは、おしおきなの。あ~、もう手が脂」

「自分でやったのに……」

「耳にしとけばよかったかな?」

「次からそうする?」

「されたいの?」

「丁重にお断りします」

「ふふっ、やってあげなーい」


 その言い方だとまるで僕がやって欲しいみたいじゃないか。


「山椒みたいだなって」

「山椒?」

「そう、ピリリと辛いやつ」

「よくわかんないー」

「美味しいよ、どんな料理にも合うし」

「それは分かってるよ。なんで山椒?」

「さぁ、なんでだろうね」

「ん~、ずるい」


 彼女は口を尖らせてほっぺを膨らませた。眼が不満を言うように細くなって僕を見つめていた。頬が少し赤い気がする。怒らせちゃったかな、と反省しないといけないのだろうけど僕はそんな彼女の表情にまで心を動かされていた。

 彼女はくるっと回ってタッタッタッと駆け出して緩やかな坂を登っていく。僕は彼女の背を目で追っていた。おいおい、僕を置いていく気じゃないだろうな。

 あわてて少し足取りを早めて追っていく。

 坂を上った辺りで、ふと彼女が足を止めた。


「ねぇ、ここからだと空が良く見えるよ」


 彼女に追いつき空を眺める。

 青い空、少し茜がかってきているだろうか、そして無数の白い雲。

 建屋の隙間から臨む空はいろいろと遮るものが多かったが、坂の上ではそうしたものがほとんどなかった。

 澄み渡る空とはよく言ったものだと思う。

 今は雲が並んでいるが、その上空には空が広がっている。どこまでも続く空に白い雲もどこまでも続いている。

 どれだけ雲があっても空はいつも上にあるのだろう。

 自分の存在はどこまでも小さい、ちっぽけな悩みとかそういう言葉もどうでもいいい。そんな風に思わせてくれる。

 空は雄大で、美しかった。


「いわしと山椒……」


 彼女が小声でつぶやいている。

 何かを考えているのかな? 手を顎に当てて空を見ているような見ていない視線。思いつくのを待っているような、名探偵気取りのような……


「今日はいわしの山椒煮ね」

「えっ? 今日はハンバーグじゃなかったっけ?」

「ひき肉は明日使うから」

「先の商店街でいわし買いに行こう」


 僕と彼女はさっきスーパーで「今晩はハンバーグにしよう」と決めてひき肉を買ってきていた。

 まったく気まぐれもいいところだ。

 でも、まぁいわしの山椒煮も美味しそうだ。よく思いつくなぁと思う。

 袋に入っているひき肉を思いながら、「君は明日まで出番お預けだね」と心の中で語りかける。


「いわしを食べるって、きみくんを食べてるみたいだね」

「僕はいわしですか?」

「そうだよ、きみくん」


 そう言って彼女は僕の鼻を指さして突いた。


「おいしそうかな?」

「どうかな~?」

「試食してみる?」

「ガブッ」


 僕の目の前でガブリとかぶりつくような動きをして「むしゃむしゃむしゃ」と言っている。


「ん~、まぁまぁかな」

「あら、お気に召しませんでしたか」

「面白くなーい、きみくんもっと美味しくなって」


 彼女は膨れている。

 面白いと美味しいがごっちゃになっていますよ。


「何言ってんの、砂糖でも振ってみる?」

「あ~。きみくん私のこと甘ければいいと思ってるでしょ」

「そんなことないよ、どんな味が好み?」

「そうだな~、大人の味?」


 彼女は人差し指を頬に当ててちょっと顔を傾ける。

 それって大人というよりは可愛い感じだよなぁと思う。

 当人はこちらの反応を期待しているのだろうけど、僕はそこにはあえて触れずに話を続ける。


「それならコーヒーも砂糖なしですかね」

「あー、何それ。きみくん私のこと子供扱いしてるね」


 僕は笑ってごまかした。砂糖なしじゃ飲めないのに。今度ブラックで出したら頑張って飲むのかな? 


「その……、きみくんもそろそろ変えない?」

「だーめ、きみくんは、きみくんです」


 僕が彼女と会ってからしばらく、ずっと「君」と言って話しかけていたら「私にはちゃんと名前があるんです」と言って怒られたんだ。

 そして「今日から聡美君は"きみくん"ね」と言われてから、僕は「きみくん」という不思議な呼ばれ方をしている。知らない人が聞いたら僕の名前を「きみ」だと思うだろう。


「芳香さん、ちゃんと名前で呼びますから、そろそろ僕のことも名前で呼んでくださいよ」

「呼ばれたい?」

「そうですね」

「ん~、考え解く。きみくんが嫌なら今日はいわし君ね」

「それもなんだかなぁ~」

「食べちゃうぞ~」


 彼女が僕のほっぺをグリグリと掴んで押してきた。


「ちょっとちょっと……、あっ」

 僕は後ろに下がりながらバランスを崩してしまった。

 よろめき、彼女が僕の胸に飛び込んでくる。


「もう、ちゃんと受け止めてよね」

「受け止めてるでしょ」

「へへっ……」


 彼女がじーっとこちらを見てくる。


「芳香さんは山椒だから、芳香さんも食べられちゃいますね」


 そう言うと彼女は急にこちらの方へ向かってきた。 

 ちょっと上目遣い、くちびるに指をあててこちらの顔を覗き込んでくる。

 こういう時だけずるい。


「食べたいの?」


 目をウルウルさせながら聞いてくる。

 それでいて口元はにやけているのだから、そこは隠せない表情なのだろう。


「そうだね、食べてしまいたいくらい可愛いよ」


 そう言うと、顔がぱっと赤くなりそっぽを向いてしまった。


「聡美くん?」

「えっ?」


 彼女の唇がやさしく僕に触れる。


「山椒の味した?」


 彼女はまた前を歩き出した。

 僕は少し動揺しながらも彼女の後を追っていく。

 彼女の柔らかい感覚と甘い香りが残っている。

 ピリリと辛い山椒もスパイスとしては絶品だ。


「置いてっちゃうよー」

 彼女が少し先で手を振っている。

「今行くよ」

 僕は買い物袋をもった手を少し上に上げなら答える。


 山椒はスパイスだから素材がないと駄目なんだよ。

 僕はそんな彼女に味付けされたいわしなのかもしれない。

 いわしでもいいかな……

 空のいわし雲を見ながらぼんやり考えていた。

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