第3話 異世界に行ったものの土木の話
翌朝八時三十分、僕は作業服を着込んで常務室に入った。
足には長靴、両手には革手袋、背中にリュックである。
リュックには弁当と水、着替えとタオルとランニングシューズ、それにノートや電卓やその他の道具が入っている。
先に来ていた五島は黒いジャージを着てソファに座っていた。
前日まで変哲のなかった常務室には、今は見た事のない機械が設置され、研究者と思わしき連中が走り回っている。
「便所、行っておいた方がいいですよ。一応、紙は持って行っていますけど」
僕は五島に話しかけた。外での排便も慣れたものだが、トイレに行けるなら行っておいた方がいい。
むかし、スズメバチの巣に気づかずに、しゃがんで気張りだした瞬間、スズメバチに襲われて……なんて話はどうでもいいんだよ。
「ええ。大丈夫です」
五島は素っ気なく返してまた黙り込んだ。
今から二人で異世界に行くのにまったく無愛想な男だ。
土木の世界は多少なりとも可愛げがないと居続けるのが難しい。これが部下なら説教噛ましているところだ。
職人だろうが技術者だろうが公務員だろうが土木に携わるなら雑談が上手くないと、上手に現場を回せない。土木事業というのは基本的に大勢で一つのものを作り上げるのだ。
「五島さんは異世界に行ったことがあるんですか?」
「四度目だ」
「そうっすか。緊張しますね」
僕は五島から続く言葉を待ったが無駄だった。
なんだ。こいつは喋るたびに百円玉でも消費するのか。
*
やがて、機械のセッティングが上手くいったらしく僕たちは機械の前に立たされた。
巨大な冷蔵庫の様なそれは、ガチガチと音を立てている。
「これがビーコンです。六時ちょうどに機械を起動します。実際に呼び出されるまで時間がありますが、落ち着いてお待ちください」
研究者が僕たちに説明しながら古い携帯電話の様なものを手渡してきた。一人一つらしく、二人ともそれをポケットに突っ込んだ。
一応、前日のうちに常務から概要は聞いているが、超重要なアイテムをえらくあっさりと渡す。
「なくさないでくださいね。帰ってこれなくなります。もし帰還に失敗したら翌朝九時にアンカー設置点に救出班が向かいますので、最初に出現する箇所に待機してください。それでは移動が始まります。目を閉じて、息を止めてください」
言われて目を閉じて息を止める。
「四、三、二、一」
カウントダウンの終了と共に強烈な光がまぶたの上からでも感じられ、数秒して消えた。
機械の駆動音も消えており、僕はおそるおそる目を開いた。
青い空が目についた。
僕は緩やかな丘陵地帯の真ん中に立っていた。
膝あたりまで伸びた草が風に波打っている。
隣にいるはずの五島に話しかけようとして、声が出ない。
五島が神々しくて言葉を失う、とかではない。そこにいるはずの五島はいなかったのだ。
つまり僕は異世界の第一歩目から護衛を失ってしまった。というか、大丈夫なのか?
仕組みは知らないけれど次元の狭間とかにおちてないだろうな。
不安定な装置を使って僕は今後も行き来するのだから、ストレスが溜まる。
しかし、ものは考えようだ。
技術的知識もない上に気の合わない男と二人きりで作業するよりは一人の方が気が楽でいい。
五島もビーコンを持っているのだから、夕方になれば常務室で呼び戻されるだろう。多分。
とりあえず周囲に護衛が必要そうな危険も見当たらない。
僕は写真撮影から始めた。
丘陵地の風景、かなり下の方に流れる川。
革手袋をはめて、草を一本ひっこぬくと、かなり根が張っていたが、どうにか抜けた。
色は緑なので光合成をしている普通の草なのだろう。
草を抜いた穴に手を突っ込んで土を一握り取り出す。
やや湿っているが僕の知る土、土木用語で言えば礫質土と言って支障なさそうだ。
小さな虫もいるが、刺してきたりはしない。
気温は一五度くらいで湿度も地球と変わらない。
丘陵地中腹にいくつか大岩が見えるので、あとで固さの確認が必要だ。ぱっと見、頁岩に見えるが、脆ければ軟岩という扱いになる。
ちなみに、土木では岩を砕くことを「はつる」というのだが、はつる対象が脆ければ軟岩、堅ければ硬岩と区分する。
硬岩が存在する現場でバカ正直にはつっていると時間はかかるし、ブレーカーは傷むし、やたらウルサくて近所からクレームはつくし、作業員達の精神状態もささくれ立つし、いいことはないので可能な限り硬岩に触らずに済む工法を検討しなければならないのだ。
ちなみに、ブレーカーというのは岩石破砕機の事で、重機の先に取り付けるアタッチメントのことだ。
僕はリュックから片手用レーザー測距計を取り出す。
文庫本を少し小さく下くらいの大きさの単眼望遠鏡なのだけど、これが超便利。
まさしく文明の利器で、精度は低いが簡単な現場の下測量くらいならこれを持って行けば一人で出来てしまう。
望遠鏡をのぞき込んでスイッチを入れると視界に略された文字列が並ぶ。
ボタンを押すだけで任意の地点への射距離、水平距離、傾斜度までわかってしまう。
巻き尺みたいに二人一組で行ったり来たりする必要もない。
このノンプリズム光波測距儀について語るのなら、前段の光波測距について語らないといけないのだけど、専門的になるので省く。正直、人に説明出来るほどの知識がないと言うのもあるのだけど。
僕は技術者なので、便利な機械を使って必要な情報を整理出来ればそれでよいのだ。
ともかく距離の測定だ。
『FIRE』と書かれたボタンに指をかけ、丘陵地の上端に焦点を合わせる。
単純に望遠鏡としての機能もあるので、山側を渡すが、この丘陵地は数百メートルの幅で緩やかな傾斜が続いており、ある地点から始まる岩山にぶつかって終わるようだ。
その先は急な斜面の岩山が始まっており、そう高くないが、尾根は長く続いているようだ。
「発射!」
なんて調子に乗りながらボタンを押すと、カチカチと音がして水平距離が表示される。
四〇〇メートルほどだ。
今度は反対に低地の方に向かい、再度計測。
反対側は二五〇メートルだった。
奥行き六五〇メートル。
僕は作業服の胸ポケットから野帳を取り出して周囲の地形を簡単に図示した。
一応説明しておくと、野帳というのはちょっと堅めのカバーがついたメモ帳で、縦横に薄く線が入っている。土木の技術者は現場に出る際、大抵この野帳をポケットに入れていて、メモや計算帳として使用している。
今回は、その右ページに餃子のような楕円を描き、奥にある岩山を抽象化して描く。
手前に『平野』と書き込んで、餃子に十字を入れる。
D=六五〇メートル、W=。
ざっと見たところ、奥行きは六五〇メートル前後で一定らしく、長く続いたあと、せり出した岩山に合流して絞るように終わっている。
丘陵地全体が岩山の腕に抱かれるように存在している。
レーザー測距系を覗いてボタンを押すと、先ほど距離と同時に計測された傾斜度が表示された。
⊿=二十度。
あとは目検討でW=二〇〇〇メートルと書き入れる。
どこからどこまでが使用できるかは不明だが、概算で七〇万平米以上の平地が確保できるはずである。
ただ、嫌な予感がする。予感と言うよりは技術者の経験から割り出される未来予測だ。
こういう予感はあたるもので、大概、はじめから終わりまで敗戦処理のような尻ぬぐいに終始する現場がたまにある。
……しらんぞ。僕の仕事はあくまで概算見積算定までだ。
略図を書き終えると、野帳を胸ポケットに収めて僕はレーザー測距系を覗いた。
僕の心情はともかく、風景は美しい。
丘陵地の下に広がる平野部も草原が広がっており、一キロほど先に川が流れているのが確認できる。
川のさらに向こう側には農地らしきものが広がっており、その中に集落らしきものが見えた。
農地は遠目に麦畑の様に見える。
まだ青いが、かなりの範囲で旺盛に育っている。
川か。
川、取水は出来るかな。
土木工事において、というよりもコンクリートを作成するときには水が不可欠であるし、川があると言うことは川砂利や川砂の採取も期待できる。
かくも川というのは土木の原材料調達において重要な役割をはたすのであるが、それは言い換えると近隣住民との火種を生む場所でもあるのだ。
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