夏の章 茶道ガールと華道ガールのサイレント茶会 PART4



  4.


「見ての通り、今回は屏風絵だよ」


 そういって親父は大人一人がすっぽり覆えるような用紙を広げていく。


太宰府天満宮だざいふてんまんぐうに奉納する書だ。飛と梅を合わせて『飛梅』、菅原道真すがわらのみちざねが左遷された時に、梅の木が慕って飛んでいったという伝説がある」


「ふうん」


 生返事をすると、親父は口角を上げながら筆を取った。



「花は根を張っていても空を飛ぶことができる。なら人だって飛べるはずだろう」



 親父は豪快に『飛』という字を書き上げていく。迷いなく、大胆にまっすぐに筆で用紙を辿っていく。墨の量などおかまいなしに、ただ思うままに書き上げていく。


 その豪快さとスピードに圧倒する他ない。



「親父は全国飛び回っているから、そんなことが簡単にいえるんだよ。人は簡単に飛べやしない」


「涼介、お前、地元を離れる気はないのか?」



「オレはここで十分だよ。地元を守れる翼があればいい」



 春に誓った思いを再燃させる。


 田舎だから、都会だから、そんなものは全部言い訳だ。自分でできることをきちんとやっていけば後悔などあるはずがない。


「……なるほど、それも一つの答えだ。だが若いうちに飛ばなければ翼は駄目になっちまうぞ。鶏のように空を忘れれば、地上にしか道はなくなってしまう」


 親父は『梅』という字に丹念に力を込めていく。『母』という字に真心を込めるように、そっと優しく撫でおろしていく。


「俺には早苗がいる。だからこそ安心してどこにでもいけるんだ。お前にもお前のことを信頼して、家を守ってくれる彼女がいるだろう? 飛べない絆はただの《《

鎖》》だよ」


「……鎖じゃない。大切なものを踏みにじってまで、俺は空を飛びたくない」


 胸に秘めていた思いを親父にぶちまける。書家としての親父は尊敬するが、父親としての親父は最低だ。家族サービスといえる代物はまるでなく、ただ自由奔放に旅をしているだけだ。


 母さんの涙を知らない親父はきっと、父親失格だ。


「……彼女のためならそれもいい。それで後悔しないのなら、そっちの方がいい。世の中には知らなくていいことが無限にあるからな。それが一番の幸せかもしれない」


 最後の一線を流して、親父は筆に残った墨を綺麗に落としていく。白鳥が足を洗うように、何度も丁寧に毛先を包むようにして力を抜いていく。


「なら……どうして親父はここにいないんだよ! 母さんを悲しませるようなことばっかりしやがってさっ!」


「ここにいれば早苗を幸せにできるかもしれない……。だけど俺は幸せにはなれない。俺の師匠が俺のことをずっと見てくれている限りは、成長し続けなければならない」


「そんなの言い訳だろ!? 親父は楽したいだけなんだよ、家族から逃げたいんだ。だから母さんが泣いても心が痛くないんだろう」



「……あら、私は泣いてないわよ」



 そういって母さんは襖を開けて親父の字を見比べる。


うまくなったわね、大介さん。認めたくないけど、私にはこんな字、書けないわ」


「ありがとう。お前に見て欲しいから、俺はまた頑張れるよ」


 親父はそういって母さんを思いっきり抱きしめる。


 たしかにその書には初めて見られるような爆発力が秘められている。豪快に描かれているようで全ての墨が曲線を纏い、危ういバランスを保ちながら終焉を迎えている。


 きっと俺には全てを投げうってこの書を書こうとしても、書けないだろう。そんな気がしてしまい、何もいえなくなる。



「いつも迷惑掛けてばかりですまない、本当に……」


「いいわよ。夫が妻に迷惑を掛けなくなったら、それこそ終わりだもの」


「ただいま。早苗」


「おかえりなさい、大介さん。これだけ素敵な字が書けるのなら、許すしかないわ」


 2人は熱く抱擁を交わしながら息子がいる前で口づけをしていく。



 ……結局いつも通りじゃないか。



 情熱に身を任せる2人を冷静に見ながら思う。なんだかんだいって、母さんは親父を溺愛し親父の素行にも目を瞑ってしまう。親父も親父で、それに甘えているからうちの夫婦は崩れない。


 書で出会った二人だからこそ、繋がっていられる絆だ。俺と花鈴では間違いなく壊れてしまう。


 

「あなたが本番前に練習するなんて珍しいわね。今回ばかりは……びびってるの?」


「当たり前じゃないか。師匠が来るんだぜ?」


 そういって親父は鼻をくすぐる。練習の時点で完成品としてもおかしくない出来なのに、今回はいつも以上に気合が入っているようだ。


「今日ここに来る時にやっと、気づけたことがある。書の真髄は……にあると見た」


 そういって親父は小さく手のひらに静寂という文字を書き記した。



「今まで俺は自分のために書を書いてきた、自分の生き方を書に表してきた。楷書でも臨書でも、自分という個人から始まっていた」



 小さく母さんと頷く。親父のいっていることはわからなくはない。俺が書を書き始めたのは親父や母さんが喜んでくれるからであって、自分のために書き始めたのだ。


 それは先人の教えが素晴らしいことに気づいたからではなく、自分の表現として目の前に写したいと考えた所から来ている。


「競い合うライバルが一人ずつ減っていって……最後に残ってくれたのは師匠だけだ。師匠だけが俺の字を純粋に審査してくれる。もちろんお前や涼介に認めて貰うためでもあるが、俺を純粋に評価できるのは師匠しかいない」


「そうね、私達はあなたの書が凄いとしかいえないもの。注文をつけることはできないわ」


「ああ。だから俺は師匠の傍に仕えて書を書いてきた。だがその師匠ですら、年には勝てずに俺を置いていってしまう。その時に気づいたんだ。俺の先に道はないと。自分で切り開くためには、静寂の中に心を置かなければならないと」



 ……静寂。



 心の中でこの言葉が渦巻いていく。


「涼介、この言葉の意味、知ってるか? 心を静め、ただあるがままに己を映す心。これが何より難しい。何より答えなんてない、っていうのが答えだからな」


「……」


 何ともいいようがなく、ただ頷く。今の俺には到底理解できないものだけど、己の道を探す親父の言葉に説得力は感じる。


「旅を続けてきたのは目標があったからだ。今はもう、それがなくなりつつある。後は静寂の中に心を置き、常に自分のいく道を見据えていかなければならない」


「ほんと、書に関してだけはストイックよね……」


 母さんはそういいながら、誰にでも気づけるような大きなため息をつく。


「……まあ、いいわ。これからもあなたの好きにして……」


「……いいのか、早苗?」


 親父は目を大きく開けながら母さんを見る。


「仕方ないわ。あなたの書に惹かれて付き合ったんですもの。なら、最後まで続けるのが道理でしょ」


「ありがとう、早苗」


「……その代わり……」


「その代わり?」


「不倫したら、最後だからね? それだけは変わらないから」


「……存じております。母上」



 ……あんたの妻だろう。何いってんの。


 

 心の中で親父に突っ込みながらも、静寂という言葉に思いを馳せる。



 ……静寂。心を静め、ただあるがままに己を映す心。



 親父の言葉が胸に入ってきた時、これ以上もう文句をいえなくなっていた。 


 俺がその心を知ることができるのはいつになるのだろうか。答えは未だわからない。


 だが見えない道を探るために俺は書を続けている。きっと親父も一緒なのだと思うと、心の底で溜まっていた怒りが収まっていた。

 

 

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