夏の章 茶道ガールと華道ガールのサイレント茶会 PART1
1.
「ねぇ、りょう。早く早く、こっち来て、こっち!」
「はいはい、次は何だよ……」
着替え室から出ると、花鈴が背中を見せながら俺の方に近づいてくる。ピンクと黒を纏ったウェットスーツは半開きのまま、オレンジの水着の紐が見え隠れしている。
「ジッパー締める前にさ、首の方にも、塗って塗って! 今日、日差し強いしさ! このままじゃ焼けちゃうよ!」
「首くらい焼けてもいいだろ。顔にもたくさん塗りたくって、もはや誰だかわからねえよ」
肌色の日焼け止めを顔じゅうに塗りたくっている花鈴を見ていう。どこかの原住民だといってもいいくらいに顔のパーツが埋もれている。
「嫌だよ! これ以上黒くなりたくないの! ここね! それからここも、ここも! ぜーんぶ! わかった?」
「はいはい、わかりましたよ」
……ほんと小っちゃいな、こいつ。
花鈴の小さな首を掴むと、ひんやりとして気持ちがいい。あれこれ触っていると、まるで父親が娘の世話をしているような感じがしていく。
色気はもはや、ないに等しい。
「よし、もういいだろう? そろそろ出ようぜ、体がなまっちまうよ」
ボードを掴んで部屋を出ると、からっとした太陽が空を独占していた。心地いい温度を保っており、風もなめらかだ。これくらい熱い方が、波に乗る時は気持ちがいい。
「あ、待ってよ! あたしのボードの方が大きいんだから、こっちも持ってよ!」
花鈴は自分のミドルボードを差し出しながらいう。浮力の関係で大きなものを使った方が浮きやすいからだ。
「はいはい、世話が焼けますな。娘かよ」
「娘じゃないよ、カノジョだよっ!!」
花鈴は強い日差しを浴びて影を背負いながらいう。
「大体、りょうが落ち着き過ぎてるのよ! あたしの恰好見ても何とも思わないの?」
「ああ、何とも思わないな。もはや娘を見ている気分だよ……」
「おっさんかっ!」
「おっさんというより、おじさんの気分だよ……」
花鈴の体を再度見ながらいう。ウェットスーツは体に密着しているため、ボディラインが見えるのだが、だからといって心に来るものはない。
「大器晩成型だとは思っていたが、いつになったら成長するのかねぇ……」
「絶対大きくなるもん! りょうよりも、ずっとずーっと、大きくなるよ!」
「どこまで伸びるつもりだよ、巨人にでもなるつもりかよ」
「……す、少なくとも愛染さんよりは大きくなるもん! ここもさ! 絶対!」
花鈴は慎ましい胸を張りながら両腕を組んで俺の前に立ちはだかる。
「それは楽しみだな! あれくらいあれば、いうことなしだな!」
「…………おい」
「ん? どうしたの? 花鈴ちゃん?」
泥で埋まっているような花鈴の顔を凝視すると、目が笑っていなかった。再び地雷を踏んでしまったようだ。
「うそうそうそ! 胸なんて必要ないから! 花鈴がいてくれたらそれでいいからさ! 気にすんなよ!」
「りょうの嘘つき……あたし、知ってるんだからね……」
花鈴は俺を睨みながらじーっと念仏を唱えるように口元を歪めていく。
……もしかして、あの時のことをやっぱり見てるのか?
展覧会終了後に、愛染さんは不意に俺の唇を奪ってきた。あれから彼女と顔を合わせることに躊躇していたが、彼女は全く意に介してないようで、あっけらかんとした対応で何事もなく事態は沈下した。
……やべえよ、やべえよ。こんな所で説教かよ。
体中から冷や汗が溢れ流れていく。不可抗力だが、彼女のキスにどきっとしたことが何よりも後ろめたい。花鈴に伝えたくても伝えられず、もどかしい思いを心に秘めている。
「嘘じゃねえよ! 俺はつるぺたなお前が好きだよ」
「全然嬉しくないから、それ……。どや顔でいわれても、全くときめかない」
「そ、そうか! 悪かった! すまん! この通り!」
両手を合わせて花鈴に念じていく。どうかあの時のことを、見ていませんように。あれから花鈴とキスをする時でも、俺はなぜか余裕を感じるようになってしまって、キスする度に心がちくりと痛んでしまう。
「な? な? もう許してくれよ? 許してちょんまげ!」
雨ごいをするように花鈴にお祈りをし、「おっさんか!」という突っ込みを待っていると、彼女は小さくため息をつきながら俺の耳に囁いてきた。
「もう……次はないよ?」
「はい……」
「……次、つるぺたっていったら殺す」
「…………はい、すいません」
両手にボードという名の鎖を引きずりながら俺は海へと足を前に進める。
足取りは砂漠を歩くかのように重い。
今日は辛い所業の旅になりそうだ、俺のオアシスはもうすでに枯渇している。
◆◆◆◆◆◆
「りょう、そこで見ててよー! 今から行くからね!」
「おう!」
花鈴はたやすく波に乗る。綺麗に曲線を掴んで緩やかに波に体を預けていく。
「やっぱ、うめえな! 凄いよ!」
お世辞ではなく、本心だ。練習せずとも難なく、乗れるのは彼女の生まれ持った才能だ。茶道家の娘でもある花鈴は場の空気を読むことに長けており、一瞬で波の動きを掴んでしまう。
「じゃあ、次は俺の番だな」
花鈴と交代して岸の方へ向かう。沖の風と陸の風がマッチしており、波が綺麗に割れている。今日のコンディションなら得意技を決められそうだ。
「よっと!」
ボードの腹を波に当てるオフザリップを決めて難なく、波を乗り切ってしまう。春の荒波に揉まれ、飯田さんの教えの元に俺も一皮むけたのかもしれない。
「お、すごっ! りょうもほんと、うまくなったね! 最初はあたしの方が上だったのにさ」
「当たり前だ、毎日練習してんだからよ!」
笑顔を見せて花鈴の機嫌を取ろうとする。だが彼女は先ほどの勢いを失っており、茫然と海を見て黄昏ている。
一体どうしたというのだろう。
「どうした、体調が悪いのか? 熱中症か?」
「そんな訳ないでしょ! まだ来てそんなに時間経ってないし!」
「そうか」
「そうよ」
横顔を見せながらぶつぶつと呟いている花鈴の隣に座ると、彼女は体を近づけながらも右足で俺の体を蹴ってくる。
「最近さ、愛染さんと仲いいよね」
「そ、そんなことねえよ」
「嘘、隣のクラス覗いてもいっつも愛染さんと話してるじゃない」
「そんなことねえよ。いきなり、どうしたんだよ。まさか嫉妬してるのか?」
「う、そんなんじゃないし!」
花鈴は顔を背けながらも蹴ることは止めない。
「愛染さんが来て、よかったことがある」
「な、何?」
「人に教えることも勉強だってこと」
砂浜に『永』という字を書いていく。とめはね点、基本的な動作がこの一文字に集約されている。若かりし頃の親父は
「人に教えるのってほんと、難しいんだ。自分が全部知ってないと、質問には答えられないしさ。秀樹も頭がいいけど、あいつは天才肌だから、俺がわからないことがわからないみたいでさ。けど、愛染さんは丁寧に一から教えてくれる」
「ふうん」
「家元の人っていうのは、初心者にも教えないといけないだろう? だから本当に説明が上手なんだ。そういうのは俺にはないからさ、いいなと思うわけ」
「む。そんなこと、わかってるわよ!」
「じゃあ、何に対して怒ってるんだ? お前の所にも行ってるんだろう? 愛染さん」
彼女は本当に勉強熱心で、花鈴の家にもお茶を習いにいっている。何でも流派が違うそうで、同じお茶でもやり方が違うそうだ。
「う、うん。それは、そうだけど……」
花鈴は小さく頷く。
「ずるいよ、そんな風にいわれたら反論できないじゃない! あたしだって、頑張ってるもん!」
花鈴は口を尖らせて続ける。
「あたしはさ、どうせちびで、おっぱいだって大きくないですよーだ! 愛染さんの方がよっぽど女の子っぽいもん、よかったね」
「だから関係ねえよ、そんなこと!」
花鈴の手を強く握っていう。
「愛染さんが来てわかったことがもう一つある」
「……何よ?」
花鈴は疑いを含んだ瞳で俺をねめつけてくる。
「俺はお前のことがやっぱり好きだってこと」
彼女の耳元で囁く。春の電車で不意を突かれた時の仕返しを込めて。
「どんなに美人だって、関係ないさ。俺が一番楽しいのは花鈴といる時だよ。お前が無邪気に笑ってるだけでいい。それだけじゃ……ダメか?」
「……。だ、ダメじゃない……うう、卑怯だよ、りょう」
花鈴はそれでも俺を蹴ることを止めない。勢いは失速し、すでに親指が触れる程度のものだが、足の動きは止まらない。
「じゃあ、今年はさ、二人だけで花火見に行こうぜ」
「え、いいの?」
花鈴の足が止まる。そんなに眩しい笑顔を見せられたら、もう断る言葉なんていえるはずがない。
「ああ、秀樹達に茶化されるだろうけど、いいよ。もうあいつらと行くのも飽きてきたしさ、今年はさ、一緒に行こうぜ!」
「うんっ!」
花鈴の笑顔を見て心が安らいでいく。この笑顔を見れるのなら、何だって頑張れる気になっていく。
「浴衣着て来いよ、見たいから」
「当たり前じゃん! メロメロにしてみせるから!」
胸元を見て口元を緩ませると、花鈴はまた眉間に皺を寄せた。
「もしかして、りょう……つるぺたのロリロリがいいの?」
「俺はロリコンじゃねえっ!」
「そっかー、そっちだったかー。ごめんね、今まで気づかなくて。今度からりょうお兄ちゃんって呼んだらいい?」
「同い年だろ! やめろよ! 距離感、わからなくなるわ!」
「りょうお兄ちゃん、花鈴、お祭りで
「おお、そうか! 何でも買ってやる。ってこれは彼女としてだからな!」
「なら、よし! よしよしっ!! じゃあ今度はあたしがお姉ちゃんになっちゃおうかなー」
満開の笑顔を見せて花鈴は俺の頭を撫でていく。それと同時に俺の心も安らいでいく。
……やっぱり、お前といる時が一番だよ。
心の中で揺れていた波紋を掻き消していく。この不安はどこから来てどこに流れていくのだろう。
……今年の夏は、去年とは絶対に違う。
俺の心の動きとは裏腹に、夏の波は穏やかで、静かにさざめいていた。
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