春の章 華道ガールとミックス展覧会 PART5
5.
「よし、愛染。よくできている、座っていいぞ」
「……恐れ入ります」
現国の後藤先生の一言で、愛染さんは目を伏せながら席につく。
「皆も愛染のようにきちんと予習をしてくるように。菊池は特にだ、いいな!」
「は、はい!」
授業を終えると、女子達は愛染さんを囲むようにして更衣室へ着替えに向かった。次は四限目、体育の授業だ。夏用のジャージを取り出すと、前に座っている秀樹が声を掛けてきた。
「もうすっかり馴染んだようだな、愛染さん」
「そうみたいだな」
愛染さんが来てから、二週間。彼女は持前の社交性を発揮しており、クラスの女子の中心の存在へと成りつつあった。
授業では的確に答えを導き羨望の目で見られ、休憩時間では彼女の周りに人が集まり、笑顔が絶えない。聴き上手な彼女は上手く話題を誘導し、誰にでもわかるように相槌を促していく。
本物の芸能人だといわれても、疑う余地がないくらい完璧だ。
「綺麗だよなぁ、愛染さん。何でこんな
「本当だよな」
明らかに彼女はここにいていい存在ではないと改めて思う。
立ち振る舞い、空気の取り方、全てが
……きっと事情があるのだろう。
愛染彩華の転校理由を考える。父親の仕事の一環でこっちに来ているのだろうか。それではなくても、きっと何か目的があって、一時的にここにいるだけなのだろうと推測している。
微笑んだ顔は見たことがあるが、本気で笑っている顔は見たことがないからだ。
「涼介、いつになったら話し掛けるんだよ」
「んー今の所、きっかけが掴めない。秀樹は目の前にプライベートな
「アイドル? んー好みだったら、話し掛けるかもな」
「じゃあ、好きじゃない方だったら?」
「微妙。周りは盛り上がるだろうけどさ、俺は一線を置いちゃうな」
「だよなぁ」
愛染彩華は綺麗過ぎる。高尚な美術品のように、触れてはいけない存在なのだ。周りの男子達も絶賛しながらも、遠くから伺うだけで声を掛けることすらしない。いや、できないのだろう。
彼女はガラス越しでようやく目に入れることができるレベルなのだ。
「愛染さんはきっと訳アリなんだよ。だから、隣同士だからって話し掛けるのも面倒じゃん?」
「何? お前、俺との約束を忘れたの?」
「約束?」
「課題の取引だよ、彼女に声を掛けるって約束だろ」
促すと、秀樹は国語の課題ノートを取り出して見せつけてきた。
「なあ、涼介。あれから二週間も立ってるから、利子としてデートにでも誘って貰わんと割に合わんなぁ。授業中、お前が書道の練習に専念できるよう、何度も助けてやってるだろう?」
「無理無理、デートなんて。今日は花鈴と
「遠藤さんなら一日くらい大丈夫だろう。温厚だし、それくらい許してくれるだろうさ」
……そんな訳ないでしょ。
心の中で秀樹に突っ込みを入れる。花鈴の本心を知らないから、そんなことがいえるのだ。彼女は猫を被る性格なため、できがいいカノジョだと思われている節がある。
「あーあれ、嘘だから。むちゃくちゃ気が強いし、すぐへそ曲げるし、苦労してんだよ、俺も。それにすぐ泣くしさ」
「菊池君、何の話をしているのかしら? 子猫?」
ジャージ姿の愛染さんにいきなり話し掛けられ戸惑う。
「あーそういえば、俺、用具当番だったわ! 先にいくわ、涼介」
秀樹がさっと席を立ち走り去っていく。ぐっと拳を作っているが、親指が人差し指と中指の間に入っている。
……何をしろっていうんだよ。
秀樹の後ろ姿を憮然と睨んでいると、愛染さんは俺が書いたノートを見て覗き込んで目を丸くしている。
「授業中、何を書いていたの?」
「あ、これ?
「……凄い漢字の羅列ね」
「家が書道教室をやっててね……生徒さんの見本を作ってあげてたんだ」
般若心経は272文字の漢字の羅列によって構成されている。初めて見る人にとっては難解な呪文にしか見えないだろう。
「……へぇ、そうなんだ。……これはどういう意味があるの?」
「
俺が答えると、愛染さんは吟味するように再び目を細めた。
「……凄いわ、菊池君。本当に丁寧で素晴らしい字ね。心が現れているみたい」
愛染さんは興味深そうに俺の書いた字を一字ずつ指で触りながら確かめていく。ロボットのように感じていた彼女の素顔が見えていくような気がして、心がざわめく。
「あ、ありがとう。そんな風に褒められたことはなかったから、嬉しいよ。実は後藤先生もさ、凄い書を書くんだ! いつも適当に授業してるんだけど、書道の時は気迫が凄いんだ」
書道は墨の旅だ。漢字には言霊が宿り、その道を示してくれる。意味がわからずとも、書き続けることによって、その足跡は確実に残っていくと後藤先生から教わっている。
「そうなのね。私の家もね、実は生け花教室をやっていたの。今は道具が揃ってないからできていないのだけど、また始めるつもりなのよ」
「へぇ、そうなんだ。愛染さんなら、イメージにぴったり合うな」
「ありがとう、嬉しいわ」
正直に答えてしまい、赤面しそうになる。恥ずかしさを紛らわせるために、口を滑らせていく。
「俺の先輩にも花屋さんがいるんだけど、これが熊みたいな人でさ。腕なんかポパイみたいに太いし、花なんて全く似合わないんだよ」
「へえ、そうなのね」
彼女は緩く微笑んで相槌を打つ。その笑顔に想定内という言葉が浮かび、心に火が点いていく。
「ああ、そうそう。実はその飯田さんと一緒に山に行った時にさ、たまたま出くわした猟師に銃を向けられて焦ったことがあったんだよ。何でも俺が熊に襲われていると思ったらしくてさ」
「ふふ、面白いわね、そのお話。ちょうどよかったわ、実はお花屋さんを探していたの」
愛染さんは口元を緩めたままいう。
「菊池君がよければ、その熊さんの所にお花を買いに行きたいのだけど……」
「ああ、いいよ。紹介するよ。食べられないように蜂蜜を持っていかないといけないけど、それでもいい?」
愛染さんに伝わるようにジョークを交えると、彼女は白い歯を見せて笑った。
「ええ、そうさせて貰うわ。じゃあ、今日は空いてる?」
愛染さんが真剣な瞳で俺を見つめてくる。彼女の瞳を見ていると、その黒点に吸い込まれそうになる。
……ここはどうするべきか。
花鈴と秀樹の約束のどちらを取るべきか。ここで頷いてしまえば、秀樹への面目は保たれる。
だが――。
「ごめん、今日は先約があってさ。また今度でもいい?」
「そうなのね、残念。じゃあまた今度、教えてね。菊池君」
「ああ、必ず」
彼女は俺の返答を聞くと、足早に教室を出ていった。もうすぐ体育が始まる時間だ、俺も急がなければ。
……それにしても、ちゃんと笑えるじゃないか。
愛染さんの心に触れた気がして、自分の心が軽くなっていく。彼女の笑顔が何度も反芻され、自然と頬が緩くなっていく。
教室を出ると、秀樹が通り沿いでにやにやとしながら俺を見ていた。
「なんであそこで断ったんだよ? 向こうから誘ってきたのにさ、もったいねぇな」
「うるせえ、用具当番! 全部聞いてやがったな、この野郎」
「当たり前だろう。これで課題の件、チャラにしてやるよ! その代わり、その花屋に行く時は俺も混ぜろよ!」
「ああ、当たり前だ。2人で行くわけないだろう、周りの目もあるし……」
「何だよ、周りの目って。遠藤さんに断ればいいだろう」
「いいから! お前は何もわかってないから! 早く行くぞ! 遅れちまう!」
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