若草色と友達

 ハッとして目を覚ました。僕の目が捉えているのは見慣れた天井に吊り下がっている蛍光灯の傘。

 大丈夫だ、ここは自分の部屋だ。

 そして僕の名前は……。


 東雲しののめ奏太そうた


 よし、きちんと覚えている。


 どうやらまた同じ夢を見てしまったらしい。あの日からこの夢を何度見てきただろうか。その度に自分の名前を忘れてやしないかと肝を冷やす。

 これだけは幾度経験しようと慣れるものではない。というより慣れてしまってはいけないのだろう。

 過去を失うことの恐ろしさを僕は知っている。この夢はそのことを絶対に忘れないようにという忠告なのだろう。

 そうとでも解釈しなければ、こんな夢見ていられない。


 重い体をゆっくりと起こし、枕元に置いてある時計を確認する。そこには 5:16 とデジタルで表示されていた。

 さすがに早く起きすぎたか。でも今からまた寝るのも中途半端だ。

「……起きるか」

 寝起きの掠れた声で意味もなくそう呟いた僕は、部屋の引き戸を開けて廊下へと出た。


 トイレで用を済ませた僕は水を飲むために台所へと向かった。薄暗い廊下を進んでいると、その台所から細い明かりが漏れているのに気づいた。どうやら先客がいるようだ。


「あら、おはよう奏ちゃん。今日は早いのね」

さかきさんか……おはようございます」

「何か飲む?」

「あっ、じゃあ……」

 水を下さい、と言いかけたがふと思いとどまって

「……お茶をお願いします」

 榊さんの入れるお茶は美味しいのだ。


「榊さんはいつもこんなに早いんですか」

「そうだね……5時起きが普通かな。小さい頃から朝は早いのよ」

「いいですね、早起きしてもそんなにしゃんとできて。僕なんてもう寝そうです」

 そう、やはり慣れないことはするものではない。何もせずに座っているとまた眠くなってくる。

「早起きはいいわよー。みんな寝てて静かだし、自分だけの時間って感じがして」


 確かに静かだ。そっと目を瞑って意識を集中させると普段聞こえてこない音が聞こえてくる。

 壁掛け時計の針が刻む音、庭でのんびりと鳴く虫の音、ちゃんと自分は仕事をしていますよと言わんばかりに小さなモーター音を響かせる冷蔵庫。

 そしてどれも小さな色を持っている。普段は楽しむことのできない絵を、ここでは見ることができる。それに加えてこの時間が奏でる音たちが僕の心にすっと入ってくる。


 ああ、こんなにも僕の気付かないところで音楽されているんだ。


「確かに、早起きもいいかもしれませんね」

「ふふっ、そうでしょ?」

 榊さんは嬉しそうに微笑むと、長い髪を揺らして立ち上がりやかんに入ったお湯を温めていた火を止めた。

 そしてお茶の葉をあらかじめ入れておいた急須に湧いたお湯を注いでいく。やかんからは独特の音と白い湯気が絡み合ってこの小さな部屋に広がっていく。


「色が出るまでもうちょっと待っててね」

「ありがとうございます」

 そう言って僕はもう一度静かな音楽を楽しもうとしたところで、そういえば、と榊さんに話しかけられた。

「奏ちゃん、昨日の入学式どうだった?」

「ああ……何というか、やっぱりちょっと疲れちゃいました」


 そう。昨日は高校の入学式だったのだ。小学校の後半と中学校にはほとんど行っていなかった僕にとって、それはメンタル的にもフィジカル的にも非常に疲れるイベントだった。

 そしてこれからもあの場所へ通わなければならないのかと思うと少し気が沈む。でも、高校は中学と違って単位制だからホイホイ休むわけにもいかない。ある程度はやはり出席せざるを得ないのだ。高校も中学みたいにテストさえ受けていれば進級できればいいのに。


「どう? 久々の学校生活は。友達できた?」

 まるで我が子の学校での様子を聞く母親のような顔で榊さんは僕に尋ねた。

「そう簡単にできるもんじゃないですよ。それに初日から友達作りなんて僕にはちょっと厳しいです」

「なんだ情けないなぁ。そんなんじゃ華の高校生活ずっとひとりぼっちになっちゃうよ?」

「それは……それでいいかもしれませんね……」

「だーめ! そんなことしたら許しませんからね!」

 わざとらしくちょこっとだけ榊さんは頰を膨らませてそう言った。全然怖くない。

「あぁ……えっと、そろそろお茶、いいんじゃないですか」

「あら、そうね。えっと、湯呑みどこにやったっけ」

 綺麗な黒髪を揺らしながら立ち上がって食器棚から湯呑みを取り出そうとする榊さん。


「ああでも、なんか一方的に話しかけてきたうるさい奴はいましたね。名前なんて言ったっけな……ホリカワ……だったかな」

「なんだもう友達できてるじゃない」

「いや、友達というか、ほとんど会話になってないですよその人と。僕は自分の名前を言っただけですし」

「それでいいじゃない。あとは、少しずつ話していければいいわ。友達なんてなろうとしてなるもんじゃなくって、いつの間にかなっているものよ」

 無事に見つけ出してきた二人分の湯呑みに若緑色のお茶を注ぎながら言ったその言葉に、僕は色を見た。今注がれているお茶の色よりももう少し深い色。それは嘘偽りがなく僕のことを心から思って教えてくれていることの紛れも無い証拠だった。


 友達はいつの間にかなっているもの……か。

 果たしてそれが本当かどうかはわからないが、ここは榊さんの心からのアドバイスを信じるとしよう。

 もしそれが本当ならば、さぞ楽しい音が聞こえてくることだろう。


 では今日、思い切ってホリグチ……くんだっけ? に話しかけてみることにしよう。もしかしたらわざわざそんなことしなくてもまた向こうからガツガツくるかもしれないけれど。おそらくそちらの確率の方が高そうだ。


「榊さんがそう言うなら……もう少し長い目で見てみたいと思います」

「なーにを偉そうに。青春時代なんてあっという間なんだから、目の前のことを楽しみなさい! さっさと友達作って、恋をする!これぞ理想の高校生ライフじゃない!」

「友達はともかくとして、恋人はさすがにハードル高すぎますよ。それにあんまそう言うのわからないですし」

「恋人も友達と一緒よ。いつの間にかある子を好きになっているものよ」

「……榊さんもそうだったんですか」

「何々、私のあま〜い話、そんなに聞きたいの?」

「……やっぱいいです……。ほら、もう少しであの子達も起きてきますよ」

 何か危ない方向に話が進む気がしたので話を切る。

「じゃあその話はまたゆっくりした時に話しましょ」


 ……いや、遠慮しときます。




〜・〜・〜・〜・〜

4月12日(火)


またあの夢を見たため5時過ぎに目が覚めてしまった。

台所で榊さんと雑談。

そこで出来た目標は、「誰かといつの間にか友達になること」

〜・〜・〜・〜・〜

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