落下する者たち

 今し方、覗きこんだ崖の縁に立った。


 リールから糸を手繰り寄せるように、崖に向かって角度を保ちながら、岩に足をかけていく。


 確かに……。クリスティが言いはなったその言葉が胸につかえる。もっとやるべきこと、これからやらなくてはならないこと、そういったものがマージェリナ達には沢山残されているのに、自らの足で、綱渡りの危険を冒そうとしている。


 それがどういった意味なのか判然とせず、ただひたすら曖昧模糊とした姿形で、頭の隅っこで虚のように蹲っている。


 未来など誰にも分からない。そんな一般論を語ることさえ、兵士達の間では、翻って違和の言葉になって聞こえるのだ。


 そんなことを考えていると、容赦なく噴き上げる風がお尻の方から体を押しだそうとして、その風圧を上手く緩衝させることができず、バランスを崩しかける。


 すんでの所で岩の端に掴まり、突風が収まるのを待ちながら下を見下ろすと、一番乗りのシャンテがすでにその姿が霞むくらい下へと向かっていた。そのシャンテらしき影の周りで橙色の小さな明かりがぱっと輝き、一瞬だけ薄暗い渓谷の襞のような岩棚を照らす。どうやらガスバーナーを使ったらしい。


「蜘蛛の巣は焼き切っていけば触れることはないだろう。くれぐれもかかるような真似はするなよ」そう無線で伝える。了解、と応えて、背中のバックパックからガスバーナーを取りだしにかかる。吊された状態で取り出すのは一苦労だったが、無事何とか取り出すことができて、ガスが収まった背中からチューブ状の管を引っ張り、左の手で火打ち石を鳴らす。


 時間差があってから、ぼんやりと橙色に染まった炎が出るのを確認してから、目視で蜘蛛の綱を探す。案の定、胞子の霧のせいで数歩先は見渡せない状態だった。蜘蛛の巣は近くにないことを、念入りに確かめて、一歩、また一歩と、一定間隔の間を開けながら、突き上げる風を待ちつつ、蜘蛛の糸の一端を目で探しながら、下方へ、大地の裂け目の底へと降りていく。


 降りるに連れて、汗が吹き出してきて、額の髪を伝ってぽたぽたと滴り、ガスマスクの首の付け根あたりを濡らした。防毒服の中は体臭だとか汗染みの臭いが混ざったような酸っぱい臭いが染みついていて、荒くなった呼吸と共にその臭い吸い込んでは、噎せ返るように吐き出す。


 滝のように上から下へと吸い込まれていく胞子の流れのせいか、視野はさらに狭まり、今自分がどこにいるのかという方向感覚さえ薄れてきて、その不安からか、何度か岩肌に掴まる手を緩めそうになる。


 今にもここから落ちてしまって、無惨な死体となって転がるのではないか、そんな不安のせいか、それとも見えない底のせいか、防護服の中の掌は汗だくで、張りつめた二の腕の筋肉が緩急を繰り返しながら震えていた。


 首筋が段々痛くなり冷汗が、頭頂から背中へと流れる。突き上げる突風を受けた腰の尾てい骨が、ひくひくと戦慄くのを感じた。


 次第にロープにぶら下がっている他の兵士達、クリスティやユイ、ローズマリーの姿を判別することもできないくらい胞子の濃度が濃くなってきて、上を見ると、それまで雁首を揃えて崖の上から見下ろしていた兵士達の頭すら見えない程、深い底へと到達していた。


 本当に遠いところまで来てしまった。今朝宿舎のベッドから起きて、出窓から差し込む日の光に、目を擦ってそれを眺めたのが、遙か昔の出来事のように思えた。


 一度、手を休めて、過呼吸になった息を整えようとするのだけれども、全身がポンプになったみたいに、心臓の弁が開閉を繰り返し、下腹の辺りの肺の横隔膜を上下に揺さぶらせて乱れた息をさらに掻き乱した。


 ガスマスクの内側にぶら下がる水の管に吸いつき、温い水を喉へと押し込み、上がりきった息を何とか収まるのを待つ。


「おい、どん尻、ローズマリー、マージェリナ、大丈夫か?」


「大丈夫です」同時にはい、という何時になく懸命な声が無線に混じり、悪戦苦闘しているローズマリーの激しい息づかいが聞こえてきた。


 マリーは大丈夫なのだろうか? 自分を余所に、彼女の心配をするのだが、マージェリナでさえお世辞にも大丈夫とは言えない状態だった。それにここからは彼女の姿は見えない。もしかすると、マージェリナ以上に手間取っているかもしれない。


 彼女の体力検診や日頃の身体検査も鑑みれば、それは手に取るように分かる。確認を取るように「マリー、どこ?」と無線で訊ねてみる。


「ごめん、ジェリの上の方」と喘ぎ声を上げながら報告する。「まだそっちに行けそうにない」


「無理なら、戻っても……」


「大丈夫、大丈夫だから。私もできる」


 そう言い切る彼女の声にはいつもの臆病さや終始びくつくような気の弱さは感じられなかった。ローズマリーはもしかすると、周りが思っているよりも強い気性の持ち主かも知れない。


 それが即ち、現実的な兵士としての強さに繋がるということではなくて、それは時として、身の危険を招くことだってあるのだ。行きすぎた気負いや信念は、戦場での視野を曇らせ、冷静な判断を惑わす。


 だからこそ彼女を何とかしてやりたい、そんな気持に駆られてしまい、暫く彼女の姿を目で確認できるまで、その場で待機することにした。


 数十分経ったところで、ローズマリーらしき影が、上の方で足をばたつかせながら、ぎこちない動作で降りてくる。途中、足を崖の角に引っかけ、岩棚を跳ね、着地したところでもう一度それを乱暴に蹴り上げる。


 弾かれた石ころが頭上から降り注いでくるので、手で頭を覆い、それを凌いだ。


「ごめん」マージェリナの方に気づいたのか、ゆっくりとこちらの方へ下ってくる。「石、当たった?」と目の前にまで降りてきて、その体を腰から支えてやる。その顔にはマージェリナと同じように汗にまみれ、額に髪の毛が張り付き、疲労が窺えた。「ありがとう、待ってくれてたんだね……」


「ううん」と言って首を振る。「さあ、行こ」そう言ってから手かけ足かけ降りようとしたとき、ローズマリーがマージェリナの背後を指差し「ジェリ、後ろ」と引きつったような声を上げるのに気づいて、後ろを振り返った瞬間、激しい力が全身を襲い、背中をローズマリーの方に打ち付ける。


 瞬時の出来事で、何が起こったのか分からず、ぐいぐいと押し出してくる黒い影の力に対して反射的に、足の裏で押し返すように二、三回、それを蹴り離す。黒く鋭いものがマージェリナの左右を挟むようにして囲い、目の前が真っ黒に染まる。


 赤い斑紋のある双眸が、マージェリナの喉元を射竦める。またこいつか……、そう思いつつ、何とか力負けしないように、足を踏ん張らせる。


 無線のノイズが耳元で鳴り響いて、身を案じたソフィアが声を荒げる。

「どうしたマージェリナ」


 両の手首の静脈が流れる部分を重ね合わせ、何かを掴むように八本の指を折り曲げ、掌を開かせたみたいに、瘤のついた関節とそこから直角に折り込まれた節のある足が眼前で開かれる。


 何時の間に背後を取られていたのか、オニアカグモが音もなく二人の体に食い込ませようとガスマスクの前で三日月状の牙を開閉させる。目と鼻の先で、それを押しとどめようとマージェリナは膝の関節と腰に力を込めて、蜘蛛のお腹にあたる節目のある部分を蹴り出そうと藻掻く。


 八本ある足が、まるで急場にできた檻のように、マージェリナたちを逃すまいと左右の岩肌に突き立てられる。


 それから思いっきってオニアカグモの牙の根元を掴み、その顔を引き離そうとするのだが、オニアカグモの力が強く、二本の牙がガスマスクのレンズを滑るように表面を削る。


「マリー、マリー、銃」そう短く言って、背後に挟まれた彼女に応援を求めるのだけれども、背後で二本のロープに吊されたまま、宙に浮いたまま、マージェリナの肩を掴み、マージェリナの背中に差した銃のことなどまるで気づかない様子で、訳の分からない言葉を喚き散らしている。


 だめだ、背中に差したライフル型の銃をこの態勢で撃つのは難しい、そう咄嗟に判断して、オニアカグモの牙を抑える片手を離して、右の足の裏を思いっきりオニアカグモの顔にねじ込める。


 背中のバックパックからぶら下がっていたガスバーナーに手を伸ばす。赤い斑紋のある球体状の片目の下に突き付け、引き金を引いて火打ち石を鳴らす。直後に橙色の炎が噴き上がり、炎はオニアカグモの牙の根元、下あごから斜めにかけて走り、眼球を焼きつける。


 甲高い悲鳴が上がったのも束の間で、蜘蛛がマージェリナの肩に足を引っかけたまま、そのまま体重を下へと引っ張り始め、それに気づかず、二本のロープを巻き上げた双肩のリールが勝手に回っていく。


「あ」そう叫んだのも一瞬で、からからと軽い音が耳元でして、腰が宙に浮いたまま、マージェリナの体にしがみついたローズマリーと肩に足を引っかけたオニアカグモと共に、崖の下へと転落していく。


 嘘でしょ……。


 真っ逆さまに墜落していく最中、反射的に腕を伸ばして、肩のリールから伸びるロープを掴むのだが、あまりの速度に達した綱は防毒服を通した掌の中を虚しく滑っていくだけだった。


 速度を上げたリールが限界まで回転数を上げ、中を支えている軸が弾け飛ぶ。


 軸を支えていた歯車やら針金が、石ころとともに宙を舞う。はち切れそうに張ったロープが鳥もちのように伸びきって、最後にはぷっつりと鈍い音を弾き出しながら、切れてしまい、ローズマリーの双肩から伸びるロープの方へと重心が移る。


 それも僅かなことで、蜘蛛の体重が勝っていたのか、やはり切れてしまい、一寸の判断で、蜘蛛の足に掴まる。


 襞状になった岩肌が海面に浮かぶ波のように目の前を通りぬけて、その流れるような岩肌の景色が段々と遠ざかっていく。


 最後には蜘蛛の下腹から伸びた糸に重力の軸が移り――マージェリナ達は、空を飛んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ひかりのむし 中善寺暁月 @whiteillness

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ