弱虫ローズマリー
それはローズマリーの声だった。
いつも兵舎でからかわれているそばかすの女の子だ。片方の手に本を持って、もう片方の方に両親から貰ったという縫いぐるみを大事に持っていて、鳶色の髪の毛をいつも不安げに弄っている、小柄で、華奢な、あのローズマリーがこの場で、手を挙げるなんて誰が予想したのだろう。
臆病な目つきで、いつもびくついて周囲を気にしている子リスのような表情の彼女が、寝台のシーツをおねしょで濡らした、そう兵士達に冷やかされるのを何度も目にしたことがあるそのローズマリーが、片手を上げて、しゃっくりを上げるような声で「いけませんか?」と訴える姿は兵舎で寝食を共にするマージェリナにとって驚きだった。
その身を案じてしまう。「マリー……、大丈夫?」
「ローズマリー、お前は衛生兵だ。ここで待機していい」そうシャンテが突っぱねるのを知っていたのか、それとも、彼女なりの考えがあったのか、頑なに首を振って「大丈夫です。やれます」と食い下がる。それを見たソフィアも眉を顰め、彼女を見つめる。
もしかするとローズマリーは、臆病風に吹かれる自分を、この場で、兵士達に見せつけるように、汚名を晴らせたかったのかもしれない。自分はいつまでも、嘲られる弱虫ではない、そいつらを見返してやりたい、そう思っていたのかもしれない。けれども、それはマージェリナの勝手な想像だった。
つまり、彼女の考えというのは、「もしけが人が出たとしても、私がいれば、何とかなるかもしれません」そう冷静に判断した結果だった。そうか、ローズマリーは衛生兵だからこそ、自分の出来る最善のことを尽くそうとしていたのではないか、もしこの内の誰かがオニアカグモに襲われ、負傷を負ったとしても、彼女が適切な処置に当たれば、生存率は上がるのではないか。
それは勇気とは別の賜で、彼女の頭で考え、それに従った、兵士としての規範とも言える正しい判断だった。
「分かった」ソフィアが頷き、残った兵士達に待機を命じ、無線兵にはいつでも連絡が取れるように準備を整えさせた。切り立った崖を降りるには蜘蛛の綱を利用した、二本のロープが使われる。本物の蜘蛛の糸のような粘着性はなく、特殊な液で中和されているやつだ。
バックパックの双肩に備え付けられたそのロープはリールに巻き上げられ、背中の中に収まっている。それを崖の一端、古茸の柄に縛り付け、崖を少しずつ降りていくことになった。
最後の命綱をしっかりと柄に縛り付け、崖の端に立ったマージェリナはぴんと伸ばされた糸を確かめるように、体重を後ろに倒し、その断崖絶壁を改めて見下ろす。
かかとに蹴落とされた石のかけらが、つるつるした岩肌や鋭い岩の先端に当たって砕けながら、靄がかった底に沈殿する黄緑色の帯へと吸い込まれていく。
底に当たった音はしない。心の蔵を鷲づかみにされるような感覚だ。もし落ちたとしたら、確実に命はないだろう。
こんなことなら、今朝、食堂で出された、カボチャのプリンをもっと味わって食べるべきだった。
泣く泣く辺りを見回すと、ソフィア隊長が、準備運動のようにひょいと跳躍し、目一杯張られた綱の感触を確かめるように引っ張りながら、背筋を四十五度ほどに傾け、崖のふちからすうっと姿を消していった。それに倣い、シャンテ副隊長、ユイが同じように体を支えながら断崖を降り立っていく。
「やれやれ。こんなことなら、男の一つや二つ作っておくんだったな」そう言ってマージェリナの肩をぽんと叩くクリスティが自分自身に言っているのか、それともまるで浮いた話などつゆぞない、マージェリナに言っているのか、判別しかねたが、それだけ言い残して、崖の下へゆっくりと降りていった。
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