風の絶壁

 そこは風の逃げ道だった。広大な大地の裂け目から黄緑色に発光する有毒の胞子が兵士達の足下をすり抜けるようにして、切り立った断崖へと吸い込まれていく。


 大地の裂け目となったそのやや下では蜘蛛の巣が岩肌に対して縦横無尽に根を張り、まるで教会の天井に張られたステンドグラスのように、一定の幅がある幾何学的な模様を作りだしていた。


 蜘蛛の巣には琥珀色の斑紋を彩る蛾や、片方の羽をむしり取られた黒い甲殻のトンボ、赤銅色の猩々蠅、小振りの羽虫……、枚挙に暇がなく、数多くの虫が吹き荒ぶ風に乗って、その途中を阻む蜘蛛の巣の罠に絡め取られていた。


 崖の所々では苔生した古茸がかさを広げていて、間断なく胞子を吐き出していては、谷となった奥底を覆い隠している。その様子を、ガスマスクのレンズ越しに伺っていたソフィアが徐に立ち上がり、兵士達にこう言い放った。


「谷を降りよう」


 それはにわかに信じがたい指示だった。もちろん、マージェリナとて、兵士となった以上、捨て身の覚悟ではあったけれども、この谷を見下ろしてからその深さに怯まずにはいられなかった。


 断崖に張り巡らされた蜘蛛の巣の上には、先刻、マージェリナ達を襲ったオニアカグモが黙々と糸を引いている。降りるにはその中を通らなくてはいけない。その上、底は黄緑色の胞子に包まれて見えない。吸い込まれるような風も酷い。


 降りるにしたって状況は丸腰だ。手足は確実に塞がったまま、敵の牙城に攻め入るようなものだった。


 憮然とした様子で、兵士の一人、エリィ伍長が声を漏らす。


「これはきついですよ、隊長。底が見えませんが……」


 それを知ってか知らずか、ソフィアは首を横に振って、毅然とした態度でもって、マージェリナ達に向き直る。ガスマスクの向こうの、銀色の髪の毛に隠れた切れ長の目が、疑念に包まれた兵士達の間を彷徨う。


「来れる奴だけでいい。シャンテ」そう言ってから立ち尽くす後方部隊の方に目を遣る。「無線兵には待機させておけ。志願を募る。来れる奴は前へ出ろ」有志を募る、そう兵士達に呼びかける。


 そのときたぶん兵士達の頭にあったのは戸惑いと躊躇いだけだったように思う。


 お前が行ったらどうだ? そっちこそクモ公に肝っ玉冷やしたのか? 互いの顔を見つめ合い、そして、いつしかその任務をなすりつけ合うように肘をぶつけ合ったり、幾つか小声で囁きあったりしていた。


 先ほど襲いかかってきたオニアカグモを見て怖じ気づいたのか、それとも、この高さに目を回して腰が引けてしまったのか、兎にも角にも、一人として手を挙げる者はいなかった。


 それに業を煮やしたのか、副隊長のシャンテが兵士達の前にすっと出てきて、咳払いをする。


「誰か、いないのか? 俺と隊長と、あと四名ほどだ。いなければくじ引きできめるぞ」


 くじ引きというのは、細長な棒に当たり外れを示す、朱色の線が入っているものを、その部分を覆い隠すように手で握り、それぞれ引いていくものだ。


 当たりなら、何もない棒、外れの場合は朱色の棒、といった具合に。


 もちろん、くじ引きに限らず、兵士達の間では様々な賭けが行われることがある。カード・ゲームや、コインゲーム、その他の盤上ゲームなど……。


 それらの勝敗は兵士達の心の慰めにもなり、士気の高揚にも繋がり、懐を潤わせる金銭的な駆け引きにもなり、時として、現実的に困難な任務に当たったとき、敗者には「その命」を差し出すことの意味も含める。


 負けた者に対して「これは運が悪かった、諦めるんだな。まあがんばれ」と怯える兵士に発破をかける意味合いもあり、彼が現実的に困難な任務をこなしたときは「よくやった。お前は勝負には負けたが、現実には打ち勝った。勇敢な兵士だ」と素直に褒め称える。


 そんなことを思いながらいよいよ雲行きが怪しくなり、シャンテがバックパックから例の棒きれを取り出し始めて、ここはくじ引きで決めるに違いない、それを今か今かと待っていると、隣で押し黙っていたユイが兵士達の間に割って入り「はい」とだけ言って、手を挙げる。


 旧友の突然だった行動に、少し驚き、どうにも遅れてはいけない気がして、同じく手を挙げてしまう。


「私も……」


 それを見ていたクリスティも同時に、呆れたような声で「あー、しゃーないな、あたしもいくか」と志願を申し出る。結局のところ、ユイに釣られて芋づる式に名乗りを上げたわけだけれども、正直の所、全く自信もなかったし、ましてやこの谷を降りることについても、二の足を踏みざるを得なかった。


 それこそ、先ほど失敗を犯してしまったマージェリナだからこそ、蜘蛛の巣が根を張る谷の中へと踏み込むほどの、奥底まで入り込むことなど想像もつかなかったし、やってこなせる自負もなかった。


 どうなるんだろう? そんなことを思いつつ隣のユイを見ても、ただ隊長の方を見つめた黙ったままだったので、結局流れに身を任せるしかかった。


 そんな不安に駆られながら、残り一人となったところで、殆どの兵士が黙りを決め込んでいた。


 それもその筈で、強い風が、厚手のガスマスクを通して聞こえるほど吹き荒れていて、さっき以上に彼ら兵士の背中を押しとどめる要因になっていた。


 兵士達の間ではすでに暗黙の了解が出来上がっていた。この先、隊長のソフィアに従っても単なる骨折りでしかない、と。つまるところ、こんなことに身を投じるなんて単なる命知らずか、馬鹿でしかない、と。


 そんな空気に包まれていた中、シャンテの一声がこだまする。

「他、あと一人いないのか? くじ引きにするぞ」


「はい……。私、行ってもいいでしょうか?」

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