オニアカグモ
腕の上に、黒い刃のようなものが突き刺さった。思わず、叫び声をあげる。身体を仰け反らせるが、逆の腕の方にも同様の痛みが走り、その黒い刃を追い払おうと身体を左右に振る。身体に何かが覆い被さるような気配と共に、影が目の前を遮る。
それは、オニアカグモだった。赤い半球体の双眸がこちらを一瞥する。薄気味悪い斑紋が彩る目玉の下から髭のようなものが蓬々と生えており、中から鋭い牙をちらつかせて、チチチと音を立てる。
まるで品定めするかのようにマージェリナを見下ろすオニアカグモはゆっくりと、着実に体重を押し出してくる。それが侵入者であることを感じ取ったのか、ガスマスクのレンズの前で牙を左右に開閉させて威嚇する。
また悲鳴を上げてしまう。声は狭いガスマスクの内部で乱反射するだけで、ますますパニックに陥ってしまう。
死んでしまう……!
「ジェリ」
無線を通じたユイの声が耳元を劈く。オニアカグモが何かに気づいたのか、半球体になった顔を九十度曲げて顔を曲げる。
直後、銃撃の衝撃が、目の前を掠め、身体が下へ沈み込む。それが合図となり散発的な銃声音が周囲を取り囲む。
「総員散開! 固まるな、散れ、散れ」
銃弾がオニアカグモの腹部に被弾したのか、びくりと震わせ、ガラスに鉄を擦りつけるような悲鳴を上げる。下腹部から真っ白な糸を撒き散らし、それを避けることもできず、ガスマスクの表面に幾重にも被さる。
オニアカグモが怯んだ隙を見て、左腕を背中に回して、バックパックの蓋を開けようと藻掻く。ガスバーナーを! 指の先が蓋の先に触れる寸前の所で絡め取られた糸に引き戻される。
ふと何かが胸に飛び込んでくる。その衝撃で身体が沈み込み、腕と足が四方に引っ張られる。蜘蛛の手足で突き刺されるような痛みはなかったものの、重みで肺と内蔵が圧迫され、息が苦しくなる。白い糸で覆われた視界の向こうでぼんやりと丸い影が浮かび上がり、それが何なのか分からず、闇雲に抵抗する。
「馬鹿、動くなってば」
クリス……。その名を叫ぶ前に、炎のようなものが腕と足に吹き付けられ、手足を拘束していた蜘蛛の糸が外れる。宙に浮いたのも束の間、激しく背中を打ち付ける。衝撃で意識が一寸失いかけ、暫く仰向けになって茫然自失となっているところを、クリスティにガスマスクを叩かれ、我に返る。やっとのことで解放されて、起きあがろうとするのだが、長い間宙づりになっていたせいか、平衡感覚が薄れていて、何度か尻餅をつく。
「大丈夫か? ほら、手を貸しな」
「ありがと……」
腕を引っ張り上げられ、クリスティに肩を支えてもらいながらやっとのことで立ち上がると、副隊長のシャンテらしき人影の傍へと歩み寄ってくる。まだ銃撃は収まっていないようで、ソフィアの声があちこちを飛び交っている。
「無事か? マージェリナ中尉」
ガスバーナーをレンズに吹き付けられ、布で表面を拭かれる。視界が開けて、目と鼻の先にシャンテ副隊長の顔があったので、少々気後れしながら敬礼の姿勢を取る。「大丈夫です」
「満身創痍だな、腕を見せてみろ」そう言ってぐいと顔の方へ持っていくように腕を掴まれる。「穴は空いてないようだが、気分は?」
「悪くはないです」
「あれだけハンモックに寝そべってたらな。全く……」副隊長が思いっきり腕を振り上げたのが見えたのも一瞬で、拳が飛んできて、ガスマスクの真ん中を殴られてしまった。姿勢が崩れ、また尻餅を付く。情けない自分を戒めながら、崩れかけた姿勢を正そうとよろよろと立ち上がる。
「申し訳ありません」
「あれだけ気をつけろって言っただろう。何故気づかなかった。お前の母親に弔報を打つ俺の身にもなってみろ」
「すみません…」
「蜘蛛の縄張りを見分けることは、陸軍士官学校の実技訓練で叩き込まれたはずだ。それをむざむざと引っかかるような真似をしてお前は一体何を学んできた?」
「ごめんなさい……」
居丈高に腕を組み、舌鋒鋭く指摘する副隊長の声にぐうの音も出ず、身を縮ませる。どれもこれも耳に痛い話だ。
「まぁまぁ」クリスティが横から間に入ってたしなめる。「こいつも反省してるようだし、ね? それくらいにしましょうよ、副隊長。それに蜘蛛も追っ払ったみたいですよ」
銃声がいつの間にか止んでいて、無線で、兵士達の負傷の有無を確認し合う声が聞こえた。どうやら蜘蛛の処理は終わったようだ。また兵舎の仲間に笑われる話が増えた。
それはそれでいい。どうしてこうも過ちを繰り返してしまうのだろう。その上、仲間に尻ぬぐいしてもらって、足手まといになって、何の役にも立てない、そんな自分が恥ずかしかった。
「シャンテ・マルガリテ曹長、そちらの状況は?」
シャンテ副隊長が耳に手を当て、無線に応える
「無事のようです」
「そうか。こっちへ来てみろ」
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