蜘蛛の糸

 結論が得られた途端に、この場から逃げなくては、という恐怖心が濁流のように溢れ出してきて理性の抑制を振り切ろうとする。次第に、膝頭ががたがたと震えだして、冷や汗が脇から容赦なく吹き出してくる。


「マージェリナ中尉、そっちの様子はどうだ?」


 急に無線のノイズが入り込んできて、あっ、と驚いてしまう。それをどうにか落ち着かせ、状況を報告する。


「あの…、それが……」


「どうした?」


「……く、蜘蛛です。糸が防毒服に付着しています」


 無線の向こうで、慌ただしく動く気配がしてから、ソフィア隊長が念を押す。


「分かった。絶対に動くなよ、じっとしていろ」


「はい……」


 会話の震動が、この糸を伝って相手に気づかれないだろうか、そんな不安が脳裏を過ぎる。暫くして数歩先の周囲でがさがさと動く気配がして、びくりと身を戦慄かせる。銃を構えたまま、それが蜘蛛なのか、シャンテの隊なのか、判然とせず、下手に絡まった糸を刺激しないように、ただ直立不動のままその音が収まるのを待った。


 もし、振動が糸を伝い、獲物が罠にかかったということを感知されたら……、あとはもう考えるのも億劫だった。


 きっと蜘蛛の吐き出す糸にと巻かれて、繭みたいにされて、立派な餌候補になるのだ。下手すれば、そのまま、牙で防毒服を穿たれ、仲間の眼前で彼らの食事となることもある。その前に胞子の毒性で衰弱死するが先か……。


 無闇滅多に動くこともままならず、何とかこの場を凌ぐ方法を考える。蜘蛛の糸は粘着性が強く、一度網にかかると、大人二、三人が引っ張っても千切ることはできない。一番有効なのは火で炙って焼き切ることだけれども、生憎、ガスバーナーは背中のバックパックに収まっていて、乱暴に取り出そうものなら、絡みついた手足を下手に動かさなければならず、それをやってしまえば気づかれてしまう。


 蜘蛛の糸に絡まった場合、動くな、が鉄則だからだ。今動くことは躊躇われた。しかし、シャンテ達の助けを待つだけでは心苦しく、ここは意を決して腕を背中に伸ばして行動に移すか、このまま助けを待つか、そうこう思案している内に、第二の無線が入る。


「マージェリナ中尉殿、蜘蛛糸のドレスの着心地はいかがでしょうか?」


 くすぐったそうな声で、クリスティが茶々を入れる。彼女なりに安否を気遣っているのだろうけど、この状況では笑えない。


「クリス、からかわないで……」

「待ってな、御姫様、今助ける」


 無線が切れ、森が自らの王国であることを示すかのように、静けさを取り戻す。ややもあってか、はぁ、と嘆息を吐きつつも、考えることもまどろっこしくなってきたのか、忘れかけていた眠気がやってくる。


 このまま眠るように死んでしまうのだろうか……、そんなことを思いつつも、いつかはそうなることも、制服に袖を通した時点で想定していたのではないかと自問する。


 遅かれ早かれ、危機はやって来るものだと、兵士になったとき覚悟しなければならないことなのに。死ぬ前に、もっと食べておけばよかったな……。そうか、食い気と眠気だけはどんな危機的状況でも発揮されるものなのだな、とか訳の分からない思考をひとまず外へ追いやり、緑に染まった茸の藪に目を預ける。


 それから、数分経っただろうか。足もとで何か蠢いている気がして、何だろうと、首を動かさないよう、そっと地面に目を落とす。茸の菌糸にも見えたのだが、明らかに太さが違っていてその上、その当の糸が何かの拍子で動き始めていた。


 まずい……、そう思ったのも束の間、視界が上下に震え、背中が何かの力で押し倒される。転びそうになるところで、足下が掬われ、視界の上下が反転する。あっと言う間の出来事に悲鳴を上げたのかすら分からず、ガスマスクと防毒服の重みがそのまま鎖骨にのしかかる。血が皮膚の表面を埋めていくように逆流していく。重力で頭頂部が引っ張られる。


 うぅとか、あぁとかうめき声しか出せず、足をばたつかせるものの、何かにしっかり掴み取られていて、動けない。腕を思いっきり回そうとするのだが、勢いも虚しく引き戻される。


「マージェリナ、大丈夫か?」ソフィア隊長の無線が耳に飛び込んでくる。


「すみません……、足を取られました」


「バックパックにガスバーナーがあるはずだ。それを使って何とか凌げ」


「……試してみます」


 真っ逆さまにつり上げられたまま、一か八か身体を捻ってみると、足と背中の辺りをぐいと引っ張られるような感覚がして、その重さがバネとなり、一瞬だけ、地面へと沈み込む。それから、反対方向へ勢いよく追いやられては、ガスマスクの裏部分に鼻をぶつけてしまう。仰向けになったままどこが上か下か分からず目を回す。


 以前両親に連れられて、伯父の別荘に行ったときのことが脳裏に蘇る。その別荘の庭には広いプールがあったのだ。プールなんて滅多に行ったことがなかったし、端から見て大した深さではないだろうと踏んでいて、その上、とても興奮していて、どこかの新聞かなんかで見た競泳選手がやったようなことを真似したくてうずうずしていたのだ。


 従妹達がいる前もあってか、有頂天になっていて、両手を空高く掲げ、飛び降り台から、思いっきり飛び込んだ次の瞬間、プールに溺れる。爪先がプールの地に届かず、懸命に手足をばたつかせるのだがそれも叶わず、鼻に水が侵入してくる。学校で教わった泳ぎ方すら、寸刻にして忘れてしまっていて、何とかして水面に顔を出そうとするのだけれども、何度やっても雀の涙ほどの空気しか取り込めなかった。


 今この状況がまさにその苦い思い出と一致する。どんなに伸ばしても掴むことのない手。いくら藻掻いても着地することすら叶うことのない爪先。呼吸困難のために、意識ばかりが遠のいていく……。


 だめだ……、まだ諦めてはいけない。そう思って手を動かして、そこに銃があることを確認する。引き金に指は当てられているけれども、いつの間にか蜘蛛の糸が肩の周りを拘束していて、装填動作ができない。


 これでは銃口を相手に向けることさえできない。何とか右腕を糸から解放させようと、力の限り、左へ押し上げようとするのだが、次第に二の腕が痛くなって、元に位置に戻される。


 諦めきれず、もう一度同じ事を試みようとしたときだった。


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