虫の巣

 急に目の前のユイが立ち止まった。


 それから後ろを振り向いて、手信号で前を指差し、それから下を指し示す。第二種警戒態勢の合図だ。一種は臨戦態勢の合図、二種は周辺警戒を一層引き締め「しゃがめ」といった具合に。マージェリナも同じような動作で後方にいる兵士へと伝える。


 後方の方がざわざわと騒がしくなる。先頭のソフィアが何かを見つけたのかもしれない。それが何かは分からない。万が一、甲殻虫が潜んでいるかもしれないし、こんな所に兵器になる甲殻虫がいる確証もないんだ……。


「マージェリナ中尉、前列に来い」


 それが自分のことを呼ばれているのだということまで頭が回っていなかった。銃を斜に構えてじっと身を屈めていて、隣にいたユイが「あなたのことよ」と指摘するやいなや慌てて「はい」と飛び上がってしまい、前にいる兵士「頭は出すな」と一喝される。


 何故自分なのだろう? ということを理解できないまま、なるべく腰を低く落とし、バランスを崩さないよう、湿気を含んだ土塊に足を踏み込ませ、勾配を滑るように降りていく。


 泥土が防毒服の靴底に張り付いて、何時にも増して足下が覚束なくなって、何度かお尻から転びそうになるのを、やっとのことで隊長が陣取る先頭まで行き着くと、古茸の白い菌糸が放射状に根を張り巡らしていて、足の裏で妙に粘り着くような感触があった。その上で隊長のソフィアと副隊長のシャンテが声を落として話し合っている。マージェリナが来たのに気がついたのか、シャンテは「もっとしゃがめ」と叱責する。


「あそこの発光物が見えるか?」とソフィアが森の拓けた場所の、やや下の方を指差す。確かに青みがかった発光体が見えたものの、それが何なのか分からず、どういった意図で呼ばれたのか理解できないまま、数分の間が空き、シャンテ副隊長が助け船を入れる。


「お前、詳しいだろ、虫に」


「虫って……。え、ですが」


 確かに、士官学校にいたころ虫に関する文献を開いたことはあるけれど、それ以来、開いておらず、どこかへ仕舞ってしまって今でも所在を思い出せない。そもそもそれ専門の技術者でも連れて来ればよかったのだろうけど、貴重な人材を危険な目に遭わせるわけにはいかないという軍上層部の方針だ。


 だからこそ、そこそこ学歴があって多少の蘊蓄もある自分に白羽の矢を立てた、というわけか……。やっとのことで、事情を呑み込むやいなや、隊長の偵察命令が下される。


「行って確認してこい」


 勿論のこと、指揮隊長命令の反駁や拒否といったものは許されない。だからといって、いきなり行けと言われ、はい、やります、と言えるほどの、座った肝など持ち合わせておらず、ひたすら口籠もるしかなかった。見知らぬ甲殻虫は時として、侵入者を排除しようと、牙を剥き、襲ってくる。


 特に危険なのはアリだ。群れで現れるし、鋭い牙で防毒服を引き裂くこともできる。どうしよう……。煮え切らないまま、思い悩んでいると後ろからユイの声がした。


「私が行ってきましょうか?」

「あ……、いいえ、私、行きます」

「でもジェリに任せて大丈夫なの?」


 こういうとき、彼女の裏表ない物言いに図星を言い当てられてしまった気分の情けないことといったら……。彼女なりの優しさに感謝しつつ、自分の気弱さを心底呪いたくなる。


 シャンテが見かねて「どっちでもいいから早くしろ」と言ったのが決め手になったのか、あるいはソフィア隊長自身、最初からそう決めていたのか。「だめだ」抑揚のない声で論議に終止符を打つ。それからソフィアの指示が口火を切る。


「マージェリナ中尉は目標物を目視可能になるまで前進、ユイ中尉は私と待機」


 ソフィアが徐にシャンテの方を振り返り、くしゃくしゃに丸めた紙を広げ、兵員の配置を大凡の図で示す。


「シャンテは使えそうな奴六人連れて、そう、この辺だ。お前達はマージェリナ中尉のバックアップをさせろ。残りの兵士は後方で待機。全員に弾数と安全装置の解除を確認させろ。いいか、全員に、だ。後方待機部隊にもそう伝えろ。それぞれ、何かあったら、無線を使え。以上だ」


 するとシャンテが背後の傾斜を昇り、慌ただしく兵士達が茂みの間を動き回る。何をしていいのか分からず呆然としてその場に屈んだまま、背中のバックパックから装備品を取り出して、演習で決められた通り、中身を順に確認していく。


 甲殻の防毒服に備え付けられたバックパックには刃物や弾薬、虫が嫌うガス球や炎を誘爆する薬草を調合した手投げ爆弾、包帯、鎮静剤、小型の銃、発煙筒、ガスバーナー……、などが所狭しと詰め込まれているが、どれも心許ない、の一言に尽きる。


 甲殻虫達の外皮はとても硬い。もし、兵器となり得る甲殻虫だとしたら、徒手空拳で戦うような相手ではないし。せいぜい刃物で傷を与えたとしても大した致命傷にはならない。


 だからそれ専用の銃や特殊兵装が必要になる。でも、演習でしか撃ったことない自分は、取り扱いでさえままならない。おそらく隊長のソフィアと副隊長のシャンテを除いて、全員がそうだろう。そもそも未開拓地の探査など、前戦からあぶれた兵士達に言い渡される任務だ。兵力を払底して引っ張り出された新人兵士の寄せ集めといってもいい。


「マージェリナ中尉、前進。他の者は合図があるまで待機」


 ソフィアが防毒服の肩を叩く。決めかねていた心を腹に据えて、覚悟を決める。多分、何が起ころうとも、ソフィア隊長達がサポートしてくれる筈だ。他人頼みではあるけれど、今は彼らを信じるしかない。そう意気込んで前へ進み出でる。


 辺りに大量の胞子を吐き出している古茸の影に隠れ、恐る恐る前方の様子を窺う。この辺一帯、すり鉢状の大地になっているらしく、その奥は、ゆるやかに中心へ向かって深く沈み込んでいた。毒の胞子が濃い霧になっていて、視界は良くない。傍には大量の茸が密生しているためか、緑がかった胞子の霧が目の前に立ちはだかる。


 歩きづらいけれども、もし敵に視認されたとしても、向こうからは死角になってくれる筈だ。大丈夫、大丈夫だから、マージェリナ・リハエル、いつものように、いつもの演習通りにやれば、大丈夫、そう自分を奮い立たせる。


 ゆっくり、一歩ずつ、茸の柄に隠れながら、場所を選びながら、近づいていく。次第に目標物の陰影が見えるようになってきて、その姿を眼底に収めるようとして前屈みになる。膝頭の辺りで、水気のある泥土がぐしゃぐしゃ飛沫する。辺りに胞子が流動していて、思うように実体を捉えることができない。銃の照星に焦点を合わせながら、腰を落として、前に進む。暗がりをこれ以上視覚で探るのは困難だった。しかしながら、付近に甲殻虫のいる場合の光源点灯は固く禁じられている。


 虫の多くは強い光に反応してこちらに攻撃をしかけてくるためだ。以前、うかつにライトをつけてしまったために蛾の鱗粉にあてられて、小隊が半壊寸前に追いやられたという話は、兵士達の間で語り草になっている。


 銃の引き金に手を当てて、いつでも迎撃できるように構えながら、近づく。


 あれは、何だろう? 中央の窪んだ所の上方で青白い光が明滅した気がした。もしかしたら蛍の類かもしれない。発光する大体の虫は比較的温厚で、敵を見つけても攻撃することは滅多になかったと思う。そうでない虫の場合、正直、対処も思いつかない。


 死の大地と呼ばれる、未開拓地一帯にはまだ正式に確認されていない種類の虫が数多く生息しているからだ。


 もう少し近づいてみよう。そう思った直後、足下で何かが引っかかるような感触がして、きらきらと輝く太い綱のようなものが、膝から腰にかけて張り付いていて、前へ押し出そうとするマージェリナの足を引っ張っていた。


 これは……。手にとってよく確認しようと思った矢先に、チチチ、と軽く弾けるような音が背後を掠める。反射的に、後ろを向き、銃の引き金に指を当てるが、その影は見当たらなかった。もう一度自分の体に目を落とすと、粘着質の綱が、反射的にかぶりを振ったために下腹部まで張り付いていた。動いてはいけない、と思って、腕を強ばらせる。


 その音を確認しようと耳を澄ませるのだが、緊張のせいか激しい心音が耳元を狂わせる。どうにか過呼吸気味の息を整えようとするのだけれども、気持ばかりが焦って返って興奮した身体が言うことを聞かず、目の前のレンズを白く曇らせる。それから、またチチチと弾ける音が背中ではっきりと聞き取れて、その音から、そして体にまとわりつく糸から、推測できる唯一の姿が頭の中で答えとなる。


 おそらく蜘蛛だ。


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