ひかりのむし
中善寺暁月
第二十六陸軍小隊
密生した茸の森は足場が悪く、縦列隊形を維持するのも一苦労だった。人の身丈ほどある茸のかさから、蛍火のように発光する胞子が絶え間なく排出され、薄気味悪い毒茸の森をぼんやりと照らしている。そんな中、小隊長であるソフィアの「後方部隊は離れるな」という部下を鼓舞する声だけが、唯一の心の拠り所だった。それくらい彼女の声は、遠くにいてもはっきりと聞き取れる、凛としたもので、その声色に疲労といったものは微塵も伺えない。
どうしてあんなに一所懸命になれるのだろう、と兵士の誰もが思っているに違いなかった。
マージェリナは隊列の中央付近で、息を吐いて、後方にいる兵士の影を確認する。まだ入隊して間もない陸軍兵士の幾人かは分厚い白色の防毒服にぎこちない様子で、ときおり現れるオオムカデの影に身じろいだり、四方を囲む茸の茂みにライトを照らしては、岩の間で蠢くダンゴ虫たちの様子を窺っている。
「今は何時だろう……」
そう独りごちて、今一度、一息つきながら上を仰ぐと、薄黄緑の苔生した古茸のかさが、不気味な曲線を縁取り、光にさしかかる暗雲のように頭上を立ちこめていた。
陽が沈む前に帰れるだろうか……。分からない。多分、この探索に身を挺してからおよそ五時間以上は経っただろう。正確な時間が分かれば、もっと生きた心地がしたかもしれない。重い防毒服に身を纏い、深い森の奥まで歩くことは、自ら土を掘って棺桶に入るような感覚で、正直ぞっとしなかった。
緑色の胞子が空の光を遮り、昼なのか夜なのかも分からない常夜の森、このルフェリアの大地に深く切り込んだ湿地帯に群生する茸の繁殖地で、長時間探査活動を続けるのは、恐ろしく体力を疲弊させた。その上、周囲は一歩深く踏み込めば虫たちの領土で、どんな些細なことにも気を配らなければならない。疲れというより、今にも膝をついて、その場で倒れ込みそうになるのを体の芯で耐えている、そんな状態だった。
虫の甲殻から作り上げた、防毒服とガスマスク(左右に半球体のトンボのレンズが嵌め込まれている)が無ければ、死の大地と呼ばれる未開拓地に侵入することさえ叶わなかっただろう。
「ジェリ、気をつけて」
腕を引っ張られていたのに気づかず、前のめりになる。ライトで照らされた足もとに人一人分は収まるだろう、ほら穴が口を開けていて、危うくこちらから足を滑らせるところだった。慌てて一歩後退して、胸を撫で下ろす。
小隊長のソフィアが険しい表情でこちらを見遣る。ちょっとした兵士達の気の乱れや、行動を逐一監視する彼女の冷たい目は見る者を竦めさせるくらいの威圧感がこめられている。「ごめんなさい」と言って謝るのだけれども、分厚いトンボのレンズが吐息を遮って、目の前を白く曇らせただけだった。
隊の先頭を引率する彼女は何事もなかったかのように再び歩き出す。幸い、お咎めはなく済んだようでまたぞろ心の中で胸を撫で下ろしてしまう。隠れるように再び長嘆息を吐いて、隣にいるユイに礼を言う。
彼女は同期で士官学校に入学した、旧知の仲だ。いつも犯してしまった失敗や瑕疵を庇ったりしてくれる。一回り年下でありながら、姉のような人で、口数こそ少ないけれど、心を許せる数少ない友人だ。
「ミミズの穴だと思う。他にもあるから。気をつけて」
「分かってる……。大丈夫。ありがとう」
そう頷いて、思うように動かない足を無理矢理前へ、前へと押し進める。今朝履いたばかりの靴下が、窮屈そうに水音を立てる。汗が体中をまとわりつくように防毒服の中で蒸し返っている。防毒服の設計はそれなりに外部の衝撃に耐えられるようにはなっているらしいものの、着る人間のことまで考えてないのが唯一の欠点のような気がした。
とてもではないけれど……、長い間着こなすように造られているとは思えない。おまけに、食べることさえできないのだから。空腹は……、なかったことにするしかない……。
水分補給に関して言えば、兵士の士気にも関わるので、細い管のようなものがいつも首を捻れば届く距離にぶら下がっている。とは言っても、とてもぬるくて、感覚が麻痺しているせいか、それともあまりにも身体が火照っているせいか、口に含んでも、喉を通った感覚がしない。
「あついあつい……、兵舎に戻ってシャワー浴びたいって、そう思わない?」
背後から間延びした声がした矢庭に、こつんとガスマスクを叩かれる。痛いなぁ、と後頭部をさすりながら振り返る。いつもマージェリナに絡んでくる悪友のクリスティだった。緊張で張りつめた空気の中、彼女のおどけた声が聞こえるだけで、僅かに重苦しい不安が払拭される気がした。
「いっそのことさ、抜け殻だけ見つけたってことにしてさ」とクリスティはマージェリナの首に腕をぐるりと巻き付けて、屈託のない表情を寄せてくる。金髪が額に隠れた切れ長の眉に張り付いていて、暑さを訴える彼女の表情は心なしか遊び疲れた子供みたいに茶目っ気に溢れていた。
その野暮ったい口調に反して、顔立ちは小動物みたいに可愛らしいのだが、どうにも口調が乱暴で、口より手が真っ先に出る性格なのだ。兵舎の仲間からは、一目置かれているというよりは、サーカス団の檻に入った猛禽類でも見るような目で見られていて、煙たがる兵士もいるくらいだ。
「お歴々の技術者連中には、その辺の珍しい虫でも突き出せばいいんだよ。わざわざ地べた這い蹲ってやばい甲殻虫探すことはないって」息を吐いては、やれやれと頭を振る。
「全く……、こちとら空腹で死にそうだってのに」
「仕方ないよ、新しい甲殻虫見つけないと。ただでさえ、敵軍が攻めてきて、戦況は不利なんだから」
憤懣やるかたなしといった様子で、肩を竦め、まあね、と相づちを打つ。
けれども何となく、彼女の不満も分かるような気がした。ほんのごく一部の人間は、敵が群れをなして攻めてこようとも、あるいは、兵士達が毎日こうして、地面に這い蹲りながら新たな武器や甲殻虫を探していることも、そして、毎朝新聞の死亡リストに称えられるべき英雄として書き足される戦死者の数も、彼らは枕を高くして毎日を過ごし、それが当たり前のように成されていることだと思っている。
それはそれでいい。ただ彼らと関わることがないだけで。マージェリナたちはただ言われるがまま戦いに駆り出されるだけで。彼らと兵士達を画す一線は一体どこにあるのだろう? そんなことをふと考える。そんなものは最初からないかもしれないし、あるいは、そういう運命のお膝元にいるからかもしれないし、正直のところ分からない。
「どうせならさ、乗れたらいいのになぁ……」
「乗るって?」
「決まってるだろ。飛行虫だよ。マージェリナはさ、空飛んでみたいと思わない?」
「そりゃあ……」
飛行虫といえば、兵士の中でもふるいにかけられた高官クラスだけ搭乗できると聞いている。それも相当苛烈な訓練を積んだほんの一握りの兵士だけが乗れるという噂だ。制服の色も違うし、階級だって、同じ大佐を冠された兵士でも天と地の差があるくらい指揮権限が違うし、クリスティが悪く言うお歴々の技術者達と鼻を突き合わせて対等に渡り合えるほど待遇も違う。
言ってみれば戦争の英雄と持て囃されても可笑しくないくらいのエリートたちが乗る甲殻機動虫であって、私たちのような一兵卒が軽はずみに「じゃあ、乗ってみよう」と言えるような代物ではない。
「馬鹿野郎、お前達が乗れるわけないだろ」
案の定、私たちの間を白い防毒服が割って入る。副隊長のシャンテだった。長身の彼女は私たち二人を見下ろすように腕を組む。
「私語は慎め、虫が襲ってきても知らんぞ」
「ハイハーイ」
「すみません。了解」
それから会話することもなく、隊を乱すまいと懸命にソフィアの背中を追った。クリスティの呟く悪態や愚痴も次第に影を潜めて、兵士達の顔色も心なしか暗澹とした翳りが差し込んでいた。茸の吐き出す胞子が、ガスマスクのレンズに触れて、通りぬけていく、その細やかな音さえ聞き分けられるくらい、森の中は静謐さで包まれていた。多分誰もがこの探査自体、多く見積もっても、あるいは楽観的に態度を構えていても、成功するとは思っていなかっただろうし、わざわざ危険な地に出向いて、その結果、無駄足や骨折りになることも覚悟していたように思う。あるいは……、戦死者墓地にその名前が刻まれるということだってあり得る。ただ、士気が下がるから、やる気が萎えるから、口にしないだけで。
それから一時間くらい経っただろうか。辺りが騒がしくなったのは。
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