第4話 失態
夕暮れが珈琲を飲み終わった。礼儀正しい俺だが、お代わりを勧めることはしなかった。
「分かってくれたようで何よりだ―――私としても、もうこれ以上の彫物はしたくない」
痛いからね、と彼女は左目の下の黒涙を撫ぜた。メイクだと思っていたそれは、どうやら刺青のようだった。
「昔話になるけどね、かつてはあの子も末子ではなかったんだ―――『闇夜』。あの子にもかつては、可愛い弟がいた」
今はいない、ということなのだろう。
「その闇夜とやらは、その―――」「いや、違う。彼には夜にとっての君のような、やさしい毒のような人間はいなかったよ。それが不幸なことなのか違うことなのかは別として」
ある日、突然消えたんだ。
「仕方ないといえば仕方ないことだったんだろうね。そもそも今の文明が彼と相性が悪かった……人類史が進歩するごとに、彼の存在は削られていった」「……死んだのか」
夕暮れは黙ったまま、首を横に振る。
「生きてはいるらしいんだ、どうもね。ただ人間に―――私たち家族にさえ認識されない程に、彼は存在を薄められてしまった―――数多の妖怪変化共と一緒にね。今や彼を認識できるのは、極少数のこどもたちだけさ……姿なんて見えやしない。どうして彼らが暗闇を怖がるのか分かるかい?」
そう言って肩をすくめる姿はどこかおどけていて、それこそ道化のようだった。
「……あいつも、夜もそうなるのか」「もっと酷いね、より酷い。闇夜は対外的要因だったけれど、彼女の場合は自分から消えようとしている。……ある種自殺、と言い換えてもいい」
君も非道いことをしたね、と。
そう言って夕暮れは立ち上がった。
「珈琲、御馳走様。……夜が淹れたのとそっくりな味だった」
言うだけ言いやがって、夕暮れは去っていった。
―――そしてまた、あいつのいない夜が訪れる。俺は独りで部屋にいるのがどうしようもなく辛くなって、震える手でスマートフォンを操作する。
呑まなきゃやってられなかった。
#
「―――はっは、成程」
しくじった。やらかしてしまった。言葉はどうでもいい―――問題なのは俺がこいつに、平日の夜に唯一捕まえることができた友人、紫藤に、ことの顛末を話してしまったという恐ろしい事実だ。
絶縁だな、と思った。
それで済めばいい方だ。こいつがあちらこちらに俺の戯言を吹聴すれば、俺はもうこの町にいられなくなるだろう。
「―――じょ、冗談だよ紫藤。すまないな、俺は冗談が下手なんだ、生来素直な性分なもんで」「……冗談かぁ。いやいや、君は冗談は上手い方だよ、特に自分を素直と思ってるってところが実に面白い」
はっは、と笑ってカルーアミルクを呷る紫藤。こいつとは学生時代からの付き合いというわけでも同僚というわけでもなく、ただ行きつけの喫茶店で二、三回くだらない世間話をして、そこから仲良くなっただけだ。
彼には悪いし言い方も悪いが、そんな「最悪縁が切れても構わない」、よく言えば「気楽に付き合える」ような友人関係だったからこそうっかり口を滑らせてしまったのだろうが、それでも我に返ればただただ後悔しか出てこない。
どうして。
今まで誰にも言わなかったし、言う気はなかったのに。
「まぁまぁまぁ、君も疲れてるんだろうよ―――早めに年休とか取ってさ、ゆっくりした方がいいんじゃない?」
狂った友人を気遣う常套句を、映画以外に見ることになるとは―――よもや、自分が言われる側になろうとは。
「……そうだな、その時はまた酒にでも付き合ってくれ」「なに言ってんの、まだまだ夜は長いぜ―――それこそ、その夜ちゃんはまだお散歩中だろうに」
あぁ、もうこいつと呑む機はないのだろうな。内心でドン引きしながらも話を合わせてくれるような、こんないいやつなのに―――。
「それに」
「まだ、闇夜に会いに行くには早い時間だしさ」
―――なんだって?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます