第2話 月と蜜月
そうしてどうなったかといえば、俺は肯定も否定もしないままあいつと二、三の世間話をした後、結局いつもの近道を通って帰宅し、ぐっすりと昨晩のぶんまで良質な睡眠をとった。その晩は、あいつはそれで満足したようだった。
こうして、俺は夜のやつと友達になったわけだ―――まぁ、今思えば、あいつの思うままに。
不思議と俺はそのころ、「よくわからない超常的存在と相対している」なんてことを考えすら、意識すらしていなかったように思う。あまりに非日常過ぎて感覚が麻痺していたのか、それともそういう「才能」があったのか。
今になって思えば、明らかに後者だったんだろうけれど。
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「それにしても」
スナック菓子の袋に手を突っ込みながら、ソファに寝ころんだ夜は言う。
「殺風景な部屋ですね、つまらない」
大人な俺は何も言わない。ただ、夜の暴言とはなんの関わりもないが、淹れてやった彼女の分のドリップ珈琲をうっかり―――うっかり流しに捨ててしまったので、俺の分を淹れたあとの出涸らしでまたカップに注いでやった。
あの晩以来、夜は俺の住むアパートの部屋に入り浸るようになった。なってしまった。
入り浸る、というのは少し事実を表すのに不適切だったかもしれない―――彼女が礼儀正しくインターホンを押し、俺が扉を開けるのを待つようであれば苦労はしないのだ。
というより、そもそも部屋に入れない。
「入る」というよりは、そこに予め「在る」というのがより正しいだろう。俺が仕事から帰った時、休日にのんべんだらりと過ごしている時―――「もう、夜か」と思う時。
そんな時、あいつはどこからともなく現れる。
まぁ、現れて何をするのかと問われれば、「俺に迷惑をかける」くらいの解答しか用意できない。……俺以外の人間が彼女を、夜を認識できていないというのは、悲しいかな事実のようだった。俺の涙ぐましい、彼女を追い出そうとした何回かの試みはすべて失敗に終わった。風水士は「部屋にこれを置け」となにやら高尚な品々を勧めるだけ、霊媒師は「悪いものは何もいない」。騒がしく友人たちと連日連夜酒盛りをしても、むしろ彼らのグラスから盗み呑みしても気づかれない始末。
「私を追い出したいなら、この終わらない夜を明けさせてみなさい」「言いたいだけだろ、なんだそのカッコイイ台詞。おまえが帰る頃にはだいたい明けてるんだよ」
だから、違うんですって。
「私がいなくなったから、夜が明けるんですから」
薄い珈琲を飲んで、顔を顰めながら言う夜。
ざまあみろ、と言ってやると、クッションが飛んできて鼻にめり込んだ。
そんなこんなで、俺と夜との奇妙な生活は半年ほど続いた。人の情とは不思議なもので、あんなよく分からん、可愛げのない、非人間の同居人であっても―――半年も一緒にいれば、それは生活の一部になるようだ。とはいえもし俺以外の人間に半年間の間押しかけてくる異性がいたら、それはよっぽどあんたに惚れているか、あるいは狂人かのどちらかだ。
その場合は誠実に気持ちに応えてやるか、警察に相談しにいった方がいいだろう。俺だって初めは警察に通報したりしたが、「そこに真っ黒なキャミソールを着た、中高生くらいの娘が居座ってるんです」なんて言う戯言、取り合ってはくれなかった。ヤク中を疑われなかっただけで良い方だろう。
まぁ、その頃にもなれば、俺は彼女を追い返すことを諦めていたように思う。
だからこそ―――だからこそ、あんな終わりを告げる一方を聴いてしまったのだ。
これがよくある映画や小説ならば、終わりの始まりを告げるのは異質な訪問者であったり、ノイズまみれの古いテープであったり、差出人不明の手紙であったりしたのだろうけれど。
きっかけは、日曜日のゴールデンタイムにやっていた、バラエティ番組だった。
#
「珈琲淹れますけど、砂糖は何個要ります?」「三つ」「太りますよ」
明日は有給を取れと上司に言われたから、久々に夜と散歩でもしてやろうか、なんてそう思っていた―――ここでそうしないのが、俺らしかったといえばそうなのだろう。基本的に出不精なのだ、俺は。
……その当日の晩に散歩に行っていたら。あの番組を見ていなかったら。また、違う結末になったのかもしれない。それはどうしようもない希望に満ちた「もしも」であり、心底ゾッとする可能性だった。
俺が呆けて眺めていたのは、タレントたちが世界を股にかけて様々な「面白いもの」を紹介するという、ありがちな、けれどそれ故にある程度の録れ高は保証されている、そんなTV番組だった。
「今日は何やってます?」「トマトをぶつけ合う祭りに参加してる」「私トマト嫌いなんですよね、味が。見るのは好きですけど」
そんな会話を、キッチンの夜と背中越しに続けていた。それなりに悪くはない、そんな時間だった。
祭の特集が終わると、今度は丁度、地球の反対側にカメラが移った―――ここ最近、ブラジルで本来起こるはずのない現象、「白夜」がひんぱんに起きているのだ、と。
「おい、おまえの職務怠慢じゃないのかこれ」「えー?」
なんですかなんですか、と湯気の出る二つのカップをもって居間に夜がやってくる。
彼女はテーブルに俺の分のカップを置いて、自分のを両手で抱えてソファに座ってから、俺にもたれかかってきて―――そこで初めてちゃんと、TV画面を見たのだろう。
……あの時の夜の顔を、俺は今でも思い出す。
どう言い表せばいいのだろう。
夏休みの宿題のうち、どうしてもやりたくない類のものがあって、それから目を背けているうちに本当にそれがあったことを忘れてしまって―――始業式の日、先生に言われて思い出したような顔。あぁ、あたりまえだよな、なんで忘れてたんだろう。自分は馬鹿じゃないか、なんて。
そんな、今にも泣き出しそうな顔だった。
「……なぁ、おい」
大丈夫か。
その一言が、出てこなかった。
次の日の夜になった。
夜は、来なかった。
その次の日も、また次の日も。
夜はこの世界を包んだけれど、俺の前に表れることはなかった。
久しぶりに淋しい夜が続いていた、そんなある雨の日。俺の部屋に、奇妙な来客が訪れた。
#
正直な話、俺は期待していたのだーーー夜がまたやってきたのだと。帰ってきたのだと。
ただ身繕いを整えて、さぁインターホンカメラを見ようとしたところで気が付いた。外がまだ、明るいことに。アナログの書けど回は十六時半頃を指していた。
そのことに落胆しながら画面に目をやると、そこには珍妙な―――本当に珍妙な女が経っていた。
年の頃は二十五・六、俺と同じくらいだろう。九月だというのに黄色いコートを着て、髪の毛は目に痛いようなオレンジ色のボブカットだ。とどめに、左目の下に黒い涙のメイクをしていた―――深夜の原宿か中世の宮廷道化でなければ許されないような恰好の女は、マイク越しにこう言ったんだ。
「ごきげんよう。私は、『夕暮れ』という者なんだけど」
「少し、話があるんだ―――可愛い愚妹の件でね」
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