夜が死ぬ、そのまえに。

そうしろ

第1話 邂逅:夜

夜が死んでから、もう半年が経つ。

 世界は俺よりも器用に、そして軽やかにこの事実を受けいれたようだ―――安眠をうたう遮光カーテンが飛ぶように売れ、時計業界からアナログのものは姿を消した。目が覚めて針を確かめても、それが正しく朝の七時なのか、あるいは十九時なのかが分からなくなってしまったからだ。

 俺は真っ暗でないと眠れない性質だし、それに時計もアナログ派だった。時代錯誤と誹られようと、あのかち、こち、と音を刻む秒針をただぼうっと眺めるのも好きだった。

 そういう訳で、俺が今から語るのはきっと、夜のやつへの恨み言なのだ。

 どうして、死んだのだと。

 どうして俺を置いて逝ったのだと。

 そういった、聴くに堪えない恨み言だ。

         #

 「にゃん、にゃん。にゃーん?」

 マーオ、とその野良猫は、目の前の少女に律儀に応えた。それは「ご挨拶どうも」でもあり、「こんな夜中になにしてんだ」でもあっただろう。あるいは、「そんなことより飯でもくれよ」という要求だったかもしれないが、あいにく俺は第二外国語は独語で、猫語専攻ではなかった。

 だからとりあえず、俺は自分の、人間の言葉でその少女に声をかけたのだ。

「……こんな夜更けに出歩くもんじゃないぞ」

 スーツ姿の男―――しかも友人に言わせれば強面であるらしい俺に声をかけられ、怪訝そうに顔をしかめる少女。それでも俺の方は向かず、黒猫と戯れ続けている。

「やれやれ、今時の女の子はすさんでますねー」「にゃーん」

 うりうり、と猫の鼻づらを自分のそれとこすり合わせる彼女は、あれだ、いわゆる非行少女というやつなのだろう、俺のことをまるで眼中に入れていない。

「そこの、猫と遊んでる、悪い猫みたいな娘さんだよ」

 ちょっと揶揄してみてやっと振り向いた―――しかしよくよく観察してみると、少女は恐ろしい恰好をしていた。黒い長髪を束ねもせずにしゃがみこんでいるから道端の地面に川みたいに岐れて垂らしているし、黒いキャミソールは―――キャミソールでよかったと心底ほっとしたが―――ともすればネグリジェと見紛うほどにその存在を感じさせない。

 髪も服も、瞳さえ、まるで夜のようで。

 ただその華奢なからだだけが、病的なまでに白かった。

「おにいさん」

 少女は俺をようやく意識したようで、すすすと流麗な動きで、しかししゃがみこんだまま俺のほうにすり足でやってきて、こう、のたまった。


「わたしのことが、見えるんですか?」


 これが、俺と「夜」との出会いだった。

        #

「わたし、実は人間じゃないんですよ」

 びっくりしました?と楽しげに、目の前の少女は言う。

「あぁ驚いたさ。そりゃもう驚いた。今時猫に語りかける奇特な女の子がいたなんてな」

「それはどんな時代になってもいると思いますよ、しかも男女を問わず」

 それは確かに。猫が可愛い生物であり続ける限り、猫語話者が絶えることはないだろう。

犬もまた然り。

 ―――この時点で俺は、彼女が「夜」だなんて戯言、かけらも信じちゃいなかったんだ。だってそうだろう?もし俺が今ここで、「実は俺は人間じゃない、夜の化身なんだよ」なんて言い出したらあんた信じるか?……だろう?

 一一〇、あるいはいっそ一一九にコールする案件だよな。

 そういう訳で俺は、あいつが俺をおちょくってるんだと思った。だから俺もあいつをおちょくった訳だ。

「で、その夜ちゃんがこんな夜更けになにをしてるんだ。さっさと帰れ」

「夜更けに出歩いてるんじゃありません。わたしが出歩くから、今は夜なんです」

 それにしても、と。

 あいつは俺の全身をじろじろと、まるで動物園の珍獣―――しかもいつでも見られるものじゃない、期間限定でどっかの国から借りてきたなにかを見るような目で俺の全身を見た。

「金は持ってない」

「でしょうね、そんな顔してます」

 ―――どうもひとをおちょくるのは、彼女の方が長けているようだった。

「わたしが見えるひとって、珍しいんですよ」

「まぁ、今時の娘がそんな格好で出歩いちゃ、どんな目に遭うか分かったもんじゃないからな。それはそれは見るに堪えない、目も当てられんだろうさ」

「だからな、ほら。妄想はその辺にして、とっとと家に帰れ。親御さん、心配してるだろうよ」

 そう言って俺がその痩せた肩に、ぽん、と手を置いたその時だ。


 溶けたんだ、夜が。

 その真っ黒な髪が、目が、服が―――まるで肌を呑み込むようにずるりと広がって、そのままあいつはただの闇に、暗闇になった。当たり前のように、まるで初めから何もなかったかのように、俺の右手は空に乗せられていた。


『……ほんと、びっくり。まさか見えるだけじゃなくて、触れられるなんて』

 声が聴こえる。どこからかはわからない―――四方八方から投げられているようで、けれど吐息を感じられそうなほどに近い、そんな声。

「な、え」

『もっとお話ししたいけど、そろそろ時間切れなんです……おにいさんの言う通り、そろそろ帰らないと。"夜明け"に文句を言われちゃうから』


 だから、また。

 お話しに来てくださいね―――。

 

 その残響が聴こえなくなったころに、ようやく俺は夜が明け始めていることに気づいた。……あいつに言わせれば、「私が去ったから夜が明けたんです」ってことになるんだろうけどな。

 まぁ、とにかくそういう訳で、俺と夜は出逢ったんだ。

         #

 次の日、ふらふらになりながらも(何故か家に帰り着くころには完璧に夜が明けていたから)一日の仕事を終え、俺はいつものように帰路につく―――いつもの道を通らずに。何故って、俺はこの時点で、あいつを幽霊かなにかだと思っているからだ。仕事場から俺の部屋まではいいが、例の路地は通らないことにした。幽霊なんてもんは夏場のテレビでしか見たことがないし、それで興味は十分に満たされる程度の信心だったが、自分が当事者となると話は別だ。だから俺は早く帰って寝たいという欲望になんとか打ち勝って、あえて遠回りして帰ることにした―――今思えば、甘い考えだった。

 あいつは、「夜」そのものなのだと、本人がそう言っていたのに。あいつに会いたくないのなら、俺はもっと早く、夜になる前に家へたどり着くよう工面するべきだったのだ。

 夜のあらゆる暗闇に、あいつはいて。

 しかして暗闇そのものがあいつなのだから。


「つれないですね、おにいさん」


 気が付けば、あいつは俺の目の前にいた。

 当時の俺は―――あいつを幽霊だと思っていた俺は、その鼻先で華麗にUターンを決めた。そして速足で、とにかく逆方向へ向かった―――あぁ、これがいわゆる「憑かれた」という状態なのかな、なんて見当違いをしながら。それこそ夏場のテレビ特番で、こういう手合いは取り合う程に悪くなる、と徳の高そうな坊さんが言っていたのを思い出したのだ。

「忘れものですか?」

 まぁ、いたちごっこにも程がある、という話で。俺は諦めて、あいつに取り合ってやることにしたのだった。

        #

「で、お前はなにがしたいんだ」

「別になにもしませんて、ただお話がしたいだけですよ」

 こんばんは、なんてあいつは笑っていた。

「女の子の顔を見て逃げるなんて、ひどいですね」

「女の子ってのは夜闇に紛れて現れたりはしないんだ、勉強になったな」

「だから違うんですって」

 夜闇から出たんじゃなくて、私が夜闇なんです。

 そんな戯言を、俺はうっかり信じてしまいそうになる。

 というよりも、こいつが「何」であるかが、最早どうでもよかったのかもしれない。幽霊だろうが「夜」そのものであろうが―――どのみち人間外のものだなんてこと、初対面のあの晩に分かり切っているのだから。

「わたしと話せるひとって、ほんとに、ほんとに希少なんですよ―――数世紀に一人か二人、ってくらいで」

 だから、とあいつは言った。

 これまでのような余裕綽綽の笑みとは違う、ともすれば外見相応、歳相応の、その「お願い」を。



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